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2007年7月 8日 (日)

《心は彼方に》

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プーピ・アヴァーティ監督《心は彼方に》を観た(イタリア文化会館)。

プーピ・アヴァーティ監督特集で、7月8日から12日まで彼の作品4本を特集。監督自身が来日し、上演の前後に挨拶および質疑応答があった。

本作品と《二度目の結婚》は、それぞれ別の年だが、ゴールデンウィークのイタリア映画祭で上演されたもの。《クリスマス・プレゼント》およびその続編《クリスマスの雪辱》が日本初公開である。

ここからネタバレです。


舞台挨拶で、アヴァーティ監督は、母親から聴いた話として、監督が子供のころ、修道院および修道女が運営する盲人施設で、健常者の男と会ってダンスをしたりする催しがあって、それにいくのはどんな男なのだろうと興味をそそられたとのことだった。この母親が与えた種は、この作品の重要な鍵をなすエピソードの一つである。

ローマで法王庁御用達の仕立て屋の息子に生まれたネッロは、高校のラテン語教師としてボローニャに赴任する。ローマの両親および叔父は、ネッロが女性とつきあうことを心待ちにしている。ネッロは堅物なのである。

ボローニャの下宿屋で同室となった男の紹介で、ネッロは、上述の盲人施設を訪れる。同室の男の恋人の姉が盲人で紹介されたのだが、ここで、事故のため目が見えなくなったアンジェラと出会う。アンジェラはブルジョワ(医者)の娘で、これまでにも数々の男を翻弄してきたが、事故のためグイドという婚約者に破談にされてしまった。

ネッロは、アンジェラに惹かれ、夢中になる。アンジェラの父親の忠告も功を奏さない。アンジェラの中には別の男への思いが消えないことを知っても彼の態度は変わらない。

ネッロとアンジェロはささやかな成就と、全体としては破局へ進むことは予想できる結末だ。

この物語を純愛ものとして捉えることは、決して間違いではないが、それで括りきれない要素をこの映画はたっぷりともっている。

1920年代の高校生活。彼は、標準的な《アエネーイス》ではなくて、ルクレティウスを教えている。この高校は共学になっているが、戦前にも共学の高校があったのだろうか?

男としては、ネッロの父親(ジャンカルロ・ジャンニーニ)は遊び人、その弟は同性愛者で、ネッロは堅物。ネッロは本来なら司祭向きだったとされている。実際、教室では小声で、女性にも消極的なネッロは、教会で歌を歌うときには、人一倍大きな声が出るのだ。ラスト・シーンもそのことを物語っている。この男の三類型は、実にイタリア的と言わねばなるまい。とりわけ、司祭向きという類型が特徴的である。

また、これはヨーロッパ映画の特徴であるが、階級差もさりげなく書き込まれている。アンジェラの父は、はっきりと高校教師の給料では、あの贅沢/我が儘娘の面倒は見切れないと通告するのだ。

イタリア映画は、教会/カトリックがどう描きこまれているかが一つのポイントだと考えるが、アヴァーティは、フェッリーニの誇張された思い出という描き方をとらず、できるだけ等身大で1920年代の様子を復元するという形で表出し、繰り返し観ると、台詞のはしばしや、建物や、習慣の中に、社会的・宗教的テクスチャーが織り込まれていることが理解できるようになっている。

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コメント

プーピ・アヴァーティの作品は初めてでしたが、面白かったです。TBさせて頂きました。

ネッロが授業で使っていたルクレティウスという詩人がどういう詩を書いていたのか私はまったく無知なのですが、この詩人がネッロの人間性の鍵となるのでしょうか。

ファシズム前のイタリアの宗教・階級・風俗なども伺え興味深かったです。

投稿: なつ | 2007年7月 9日 (月) 22時58分

アヴァーティの作品は、最初観た時は、あまりにノスタルジックに思えて戸惑いを感じました。
だんだん慣れてきたのか、細部が読み取れるようになったからか、面白く思えるようになってきました。
また、ファシズムの20年間の日常生活が都市で農村でどう送られていたのかに興味を持ってくると、彼の映画はとても参考になる気がします。

ルクレティウスは、手元の文学事典によりますと、ローマ共和制末期の詩人で、世は内乱で荒れ、彼はエピクロスにならい、名誉や富をさげすみ、自己の魂の平静を求めたとのことです。
教父ヒエロニムスによれば、ルクレティウスは、媚薬のため発狂し、正気に戻った合間に書物を書き、44歳の時自殺をしたというのだから、(戦前の)高校生向きとは言えませんね。
彼の唯一の著作『事物の本性について』はエピクロスの著作に基づいたもので6巻からなるのですが、映画に関係のありそうなのは、第4巻で、視覚は物体から放たれた原子が目に作用して起こり、他の諸感覚や精神作用も、原子が器官や心に接触して生じさせる。また人間に異常な行動を起こさせる性的欲望も、同じく内外の物質的刺激によって生まれるものとされ、恋愛は避けるべきであると説かれる、とのことです。
女性に奥手だったネッロにとって、ルクレティウスは自己正当化の根拠になっていたのかもしれませんね。

投稿: panterino | 2007年7月 9日 (月) 23時22分

私の拙い質問に、ご丁寧な説明ありがとうございます。

>女性に奥手だったネッロにとって、ルクレティウスは自己正当化の根拠になっていたのかもしれませんね。

なるほど…しかも、それでいて、ルクレティウスの哲学は、聖職の道に進ませる動機になるものではなさそうです。ネッロのポジションによく合った哲学なのでしょううか。
私はラストシーンは、ネッロの自己肯定というハッピーエンドだと解釈していますが、しかしネッロは聖職者にはならない(なれない)ですよね。

>ファシズムの20年間の日常生活が都市で農村でどう送られていたのかに興味を持ってくると、彼の映画はとても参考になる気がします。

『心彼方に』の物語には、ファシズムの影は射していないように見えたのですが、見終わってから、この後にまもなく来る時代のことを思い出しました。

投稿: なつ | 2007年7月11日 (水) 00時43分

そうですね。神学生たちといると妙に元気が出るネッロは、ヴァティカン御用達の仕立て屋にはぴったりとも言えなくはないですね。
ラストシーンのあと、父が適当な嫁をあてがうのか、いっそ思い切って聖職者になってしまうのかは、見る人にまかされている気がします。

ファシズムの影に関しては、おっしゃる通りで、政治的状況や政治問題は、きれいに捨象されていますね。アヴァーティがノスタルジックに思えた原因の一つはそこにあるのかと思います。

投稿: panterino | 2007年7月12日 (木) 10時53分

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映画が終わって、アヴァーティ監督登場、作品への補足的な話少しと、質問タイム。 前のページに書いた、テレビでネリ・マルコリを見て主演に抜擢した話や、ラストシーンへの言及。後者に関して詳しく書いてしまうとしっかりネタバレになってしまうので、気をつけて書きますが、監督の話を聞いて、あれは一種のハッピーエンドだったのかなあ、と思いました。よきにつけあしきにつけ、ネッロはあるがままの自分を受け入れられるようになったと。... [続きを読む]

受信: 2007年7月 9日 (月) 22時52分

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