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2007年6月19日 (火)

パウンドの調書(1)

Ezrapoundbooking

エズラ・パウンドが1945年にFBIの捜査官に語り、まとめられた調書が明らかになった。その中でパウンドはファシズムやムッソリーニとの関係を語っている(コリエレ・デッラ・セーラ、6月8日)。

(英語版がネットを検索しても見つからなかったため、コリエレ・デッラ・セーラに掲載されたマリア・セーパのイタリア語訳をさらに訳したものとなります)。

私のフルネームは、Ezra Loomis Pound. アメリカ市民だ。アメリカの市民権を捨てたことはない。生まれたのは、1885年10月30日、アイダホ州のヘイリー。1908年まではアメリカで暮らしたが、その年、ロンドンに移り、1920年までライターとして過ごした。1920年から1924年までパリで暮らし、『ヴィヨン』や美術や音楽の批評を書いた。1924年ラパッロに移り、1944年5月まで過ごした。それからラパッロのサンタンブロージョ60に移り、そこが現在の住所だ。
 ヨーロッパでの滞在中、第一次大戦後、私はしばしばイタリアにおもむき、ファシズムによる国の革新に気づいた。妻と私は、ファシスト債券(Buoni del Littorio) を一人あたり2万5千リラ買った...私の目的は、ムッソリーニに対し、彼の良い仕事を支えるため「正当な貢献」をすることであった。1929年頃、ムッソリーニと謁見する機会を得た。彼は前年私が贈呈した私の著書『カヴァルカンティ』を知っていた。その本について語ることを求めた。1929年頃、《Lavoro Fascista》紙のため、フランチェスコ・モノッティのインタビューを受けた。このインタビューの中で、私は、イギリスは死に、その死体を道ばたに残したと述べた。フランスは死んだが、死者を埋葬する良識は持っていたと言った。イタリアは三国のなかで、唯一、なんらかの生命力をもっている国だと言った。
   1935年私の著書『ジェファーソンとムッソリーニ』が出版された。その中で私は、ファシズムはイタリアにとってムッソリーニによるニューディール政策であると主張し、彼の手法とジェファーソンの手法を対比した。1939年、ローマ旅行中に、私は大衆文化省と接触した。その際、パヴォリーニ大臣と会った。彼に5つの申し出をした...彼が最も興味を示したのは、第5の点で、ムッソリーニがイタリアでなしとげたことを知らせるために、私がラジオでアメリカ人に語りかけるというものだった。1940年春に、私はインテルランディ氏から、ついでパレーシェ氏から招かれ、ローマに赴き、私の申し出について話し合い、私はアメリカ人やイギリス人に話しかけることはできないか訊いた...私は週に二回アメリカ向けに、週に一回イギリス向けの機会をもらった...私は1940年夏からラジオ放送を開始した。自分の考えを伝える機会をつねにさがしもとめていたのだ...最初、ごく短期間は、ラジオ局で直接語っていたが、一度、予定してないことをしゃべってしまった...その事件以来、事前にレコードに録音するよう命じられ、そのレコードが放送されることになった...(続く)

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