パリ講和条約60年
イタリアの第二次大戦を終結したパリ講和条約から60年を記念して、二冊の関連図書が出版された(コリエレ・デッラ・セーラ、2月9日)。
60年前の1947年2月10日、イタリア大使アントニオ・メーリ・ルーピ・ディ・ソラーナは、オルセー宮殿の一室で、パリ講和条約に署名した。
イタリアからは、イストリア、フィウメ、ポーラ、ザーラ、アドリア海のいくつかの島、アルプス地域でイタリアの北西部の小さなコムーネ(ブリーガとテンダ)を取り上げるものだった。
イタリアでは、国中が喪に服した。半旗がかかげられ、大扉も半ば閉めた状態にされた。すべての労働者のストライキが、10分間、署名の時間に合わせて宣言された。
11時にサイレンが鳴らされた。全員が立ち止まり、沈黙が訪れた。
キリスト教民主党の日刊紙《Il popolo》の一面には、大きな文字で、「ローマのすべての人民は、威厳ある抗議に一致して参加。パリではイタリアの手足がもぎとられた」と書かれた。
以上は、サラ・ロレンツィーニの「イタリアと1947年の平和条約」(Mulino, 218ページ、12ユーロ)からの引用である。
7ヶ月後の憲法制定議会では、条約の批准について議論された。ベネデット・クローチェは断固として反対だった。
フランチェスコ・サヴェリオ・ニッティは、すぐに批准するのは適当でないとし、国連やマーシャル・プランを批判した。
トリアッティは、政府とマーシャル・プランへの参加を批判した。
デ・ガスペリのみが、どんな犠牲を払っても、講和が必要だと考えていた。
| 固定リンク




コメント