カルロ・ポンティと妻ソフィア・ローレン
イタリア映画の大プロデューサー、カルロ・ポンティが亡くなった(コリエレ・デッラ・セーラ、1月11日)。
カルロ・ポンティは、1912年、ミラノ県マジェンタに、孤児院の会計係の息子として生まれた。
法学部を出て、弁護士の資格を取る。しかし父の友人アントニオ・マンブレッティからの依頼がきっかけで、1941年にマリオ・ソルダーティ監督、アリダ・ヴァッリ主演の「古き小さき世界」を初プロデュースする。
その時以来、約200本の映画をプロデュースした。最初はルクスのプロデューサーとして、次いで、1950年からはディーノ・デ・ラウレンティースと共同で、1955年からは単独のプロデューサーとして、ソフィア・ローレンを強みとして映画制作をしていった。
カルロ・ポンティの下で、映画を作った監督は多い。まず、1943年の「理想主義者ジャーコモ」を撮りデビューしたアルベルト・ラットゥアーダ。
ラットゥアーダはその後、「容赦なし」、「アンナ」、「グェンダリーナ」などを撮る。
他にも、ソルダーティ、ザンパ、コメンチーニ、モニチェッリ、ステーノ、ジャンニーニ、ロッセッリーニ(「ヨーロッパ51年」)、フェッリーニ(「道」)、マットーリ、ジェルミ(「鉄道員」)、カメリーニ、マタラッツォ、ピエトランジェリ、ボロニーニ、ダミアーニ、フェッレーリ(「猿女」)、アントニオーニ(「ブロウ・アップ」)、モンタルド、リージ、スコラ(「醜く、汚く、悪く」、「特別な一日」)。
もちろん、デ・シーカもそうだ。「ナポリの黄金」、「二人の女」、「昨日、今日、明日」、「イタリア式結婚」、「ひまわり」などなど。
カルロ・ポンティがプロデュースする映画に定式はあるのか? チネ・チッタでは、「小さなフィルムと美女」と言われていた。
美女はローレンの他、マンガノ、ロッロブリージダ、アッラージョ、マルティネッリ、ササール・・・。
5年間共同プロデュースしていたディーノ・デ・ラウレンティースによると、「ポンティはいつも、地に足のついた男だった。午前中に、投資すべき土地を探すといったことが出来たんだ。私は、その間、新しい俳優や、新しい台本を探していたのさ」
ポンティは映画を「彼が繰り広げる数々のビジネスのうちの一つとして、突き放して」見ていた。
実際、他の活動を止めることは決してなかった。不動産業(しかしティレニア海岸に大住宅地をつくる夢はうまく行かなかった)、商業(1970年代には、ユーゴスラヴィアから肉の輸入もした)。
しかし、映画はつねに主要な事業だった。ポンティは「高級」な映画も「通俗的な」映画もプロデュースした。
最初の結婚はジュリアーナ・フィアストリとし、二人の子を得たが、二度目の結婚をソフィア・ローレンとした。ところが、重婚で訴えられ、何年も苦しめられた。
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