異端とされた司教
マッシモ・フィルポ著『司教で異端者ヴィットーレ・ソランツォーー教会改革と16世紀におけるイタリアでの異端審問』(Laterza, 538ページ、48ユーロ)が出版された(コリエレ・デッラ・セーラ、11月26日)。
ソランツォとは誰か? 司教で異端という所にすべてはかかっている。16世紀半ば、高位聖職者がトレント公会議に集まって、プロテスタント改革による教会分裂の影響を最小限に食い止めようとしていた時に、ヴェネツィアの貴族ヴィットーレ・ソランツォは、ベルガモ司教区をゆだねられた。
著者フィルポは、今日広まっている見解、対抗宗教改革は、教会の改革だったという考えを自問する。
ドイツ語圏と接しているヴェネツィア共和国は、イタリアにおける改革の入り口でもあった。1530年代には、ルターの考えは、ヴェネツィア共和国のすみずみまで流布していた。
しかし、長い間、ソランツォもその師ピエトロ・ベンボも、宗教に関することよりは、ペトラルカの詩や言語論争に興味を抱いていた。
転機は、1538年、ベンボが枢機卿に任命された時に訪れた。そして、ソランツォは、第三の道を追求する人たちに出会う。ソランツォはキリスト教を救うには、妥協しかないと考えた。ルターの改革を受け入れるが、ただし、ローマ教会の枠組みの中でのことにする、と。
こうした第三の道は異端とみなされ、ソランツォは1550年、サンタンジェロ城の牢屋に入れられ、後に、釈放されるが、名誉を回復することなく1558年に世を去る。
ベルガモにおいては、ソランツォは1540年代に類いまれな実験を試みていた。彼は、ルター派の宣伝を通じてイタリアに到達した宗教改革の考えを実践した唯一の司教であったのだ。
当時のベルガモ(他の地域も似たり寄ったりであったが)には、ワインや狩猟、仮面舞踏会、賭け事に夢中の司祭がいて、内縁の妻がいたり、女たらしだったり、男色家、小児愛症者だったりした。
そのような状況のもと、ソランツォは、理論ではなく、実践的な面でルター派的だった。聖人の崇拝、免罪に反対し、聖遺物に祈ったり、偽の奇跡を宣伝することに反対した。また、煉獄の存在を否定した。
異端とされた直接の容疑は、ルターの書物を隠し持っていたことだった。
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