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2006年11月13日 (月)

『コジ・ファン・トゥッテ』その1

Cosi 日生劇場で『コジ・ファン・トゥッテ』を観た(11月12日)。

東京二期会の公演。指揮パスカル・ヴェロ、演出・宮本亜門。

今さらながらではあるが、モーツァルトの音楽の楽しさ、輝かしさ、美しさに酔いしれる。

はるか以前に観た時と異なり、イタリア語が理解できるようになってみると、モーツァルト・オペラの洒脱な喜劇性、こういう歌詞のところに、こんな曲想をもってきている、ということの面白さがよくわかる。

ストーリーは極めて図式的で判りやすい。二組の婚約者(女性はフェッラーラ出身の姉妹)がいて、男二人がドン・アルフォンソにそそのかされて、自分たちの婚約者たちの貞節をためす賭けをする。

どう試すか。男二人は、突如として出征することになり、フィオルディリージとドラべッラは悲痛の声を上げる。男二人はこっそり喜ぶが、ドン・アルフォンソはまったく諦めない。姉妹の留守宅に、アルバニア人二人がやってくる。姉妹は、最初はけんもほろろだが、やがて、アルバニア人二人の命がけの求愛にほだされてしまう。

アルバニア人は毒を飲み、医者を呼ぶのだが、この医者が実は姉妹の家のお女中のデスピーナで、今回の上演ではここで巨大な磁石が上空から降りてきて電気ショックを与えて解毒するシーンは実に愉快で、観客にも大受けだった。

はじめは妹のドラベッラが陥落し、何度も抵抗はするのだが、ついにはフィオルディリージも、抗しきれなくなる。

このアルバニア人たち、実は、二人の婚約者フェッランドとグリエルモである。交差して相手の婚約者を口説き落としたのだが、自分の婚約者が「陥落する」と、身悶えして、嫉妬に苦しむ。この場面も、与那城敬のグリエルモ、小貫岩夫のフェッランドともに熱演・好演で、つくづく、日本人歌手の喜劇の演技レベルは上がったと思う。これには、上演に字幕がついて、観客も良く笑うようになった、という相互作用が効いていると思う。客に受けるところは、演ずる側も、熱がこもり、力が入るというものだ。

アルバニア人たちと姉妹が結婚式をあげようというところ(公証人は変装したデスピーナ)へ、出征した男たちが帰ってくる。さあ、大変となるが、男たちがこれまでの経緯を明かし、和解して幕。

非常に、図式的な恋愛ゲームの戯曲なのであるが、ドン・アルフォンソとデスピーナが、現実派の哲学を、ドン・アルフォンソはやや抽象的に、デスピーナは、庶民的に露骨に、随所に披露し、恋愛ゲームの主人公たち4人が別世界に生きていることを浮かび上がらせる仕組である。

当日のプログラムには、大田黒元雄によるあらすじ紹介(1954年、『コシ・ファン・トゥッテ』日本初演時の公演プログラムに執筆されたもの)が転載されていて、貴重であると同時にまことに興味深い。

この一文の末尾には、「この筋書を見てもこの作品があまりに茶番すぎるので戯曲的な効果に乏しいことはわかるにちがいない」とある。おそらく、当時にあっては、珍らしからぬ認識であり、あるいは現在でもこう考える人もいるかもしれない。

欧米人にも、モーツァルトの音楽は素晴らしいが、「コシ・ファン・トゥッテ」の戯曲は不道徳だと、やや別方向からではあるが、この台本にケチがついている。

僕自身は、こういう図式的な戯曲には、自然主義的な戯曲にはない戯曲的な効果が、ふんだんにあると考えている。自然主義的な戯曲には、自然主義的な戯曲の特性からくる本当らしさ、現実感、それによる感情移入のしやすさ、などといった特徴、効果が生まれるであろう。

それに対し、こういった人工的、図式的、ゲーム的な戯曲には、そこでおこっている出来事を、(観客が)突き放して眺め、出来事を客体化し、そこで生じた喜怒哀楽をひっくるめて笑い飛ばしてしまうことを可能にするであろう。もちろん、だからといって、部分的な感情移入を排除するわけではない。

それこそ、図式的に言ってしまえば、悲劇的な話(本格的な悲劇は話がまた別)には、リアリティーが欠かせないのであり、喜劇的な話は、必ずしもそうでなく、むしろ人工性が戯曲的効果を高めることはまれではない。

ドニゼッティの最高傑作『愛の妙薬』では、ただのワインを惚れ薬と言ってドゥルカマーラが売り込むが、それをネモリーノが何の疑いも持たずに信じ込むのは、リアリティーが無いと言えば無いが、むしろその方が喜劇性が増す、喜劇としての劇的効果は高まるのだ。

さらに「コシ・ファン・トゥッテ」の場合、幾何学的な対象性がある。2組の婚約者たちがいて、男たちは相手を取り替えて友人の婚約者を口説き落とす。幾何学的に美しい。そしてロココの美意識にそれは訴えかけたであろう。それも劇的効果の一つとは言えまいか。

むろん、左右対称、二項対立を基本とした美というものは、ロココに始まるわけではなく、洋の東西を問わない。たとえば、漢詩の対句は、2つの句が構造は同一で、内容のコントラストに面白みを見いだしているわけである。しかしながら、そういった二項対立の構造を、恋愛ゲームに応用しているところがロココ趣味だと、僕は思う。ブーシェや、フラゴナールの絵を想起してみると、納得いただけるだろうか。

(長くなってきたので、その1としてここで区切りをいれます)。

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