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2006年11月14日 (火)

『コジ・ファン・トゥッテ』その4

Cosi_1 指揮者パスカル・ヴェロ

今回の二期会の『コジ・ファン・トゥッテ』では、舞台の上にもう一つ舞台がしつらえられていた。

その舞台上の舞台で、二組のカップルは、交差劇を繰り広げる。面白かったのは、デスピーナの屋根裏部屋が、舞台上の舞台の床下にあるという工夫だ。

ドン・アルフォンソは、忙しく、舞台上の舞台と、舞台袖近くの書き物机を行き来する。彼がこの2組の愛の試練劇の台本家であり、演出家であるわけだが、通常、それは比喩的な意味でのことであるが、今回の演出では、文字通り、ドン・アルフォンソは進行中の劇の台本を書いているという趣向なのである。

ドン・アルフォンソの佐藤泰弘は、声も日本人ばなれして、しっかりと太く朗々と響く声が出て、なおかつ、演技も雄弁で説得力に富んでいた。

ドン・アルフォンソと並んで、現実派を演じ、恋人たちの認識の虚構性を浮かび上がらせるのは、松原有奈のデスピーナ。彼女も、とてもチャーミングに庶民派の主張を、身体的表現も含め効果的に演じていた。

彼女の生き生きとした演技とのコントラストがあるので、増田のり子のフィオルディリージ、田村由貴絵のドラベッラ姉妹の演技の悲嘆にくれる大袈裟な演技も活きてくる。細かくみれば、やや優等生的な姉のフィオルディリージの性格とほんの少し軽いドラベッラの描き分けも、巧みに歌いわけ、演技わけられていていた。

与那城・グリエルモ、小貫・フェッランドは、声が重すぎず、モーツァルトの軽妙さをよく出していた。とりわけ、アルバニア人に化けてからが、演技に実にいい味を出していた。

姉妹二人は、恋人との別れに悲嘆にくれるところから、徐々にあらたな男性の出現に心が揺れ、やがてそちらに心が傾いていくという、実に表現しがいのあるグラデーションのある幅が素材として与えられているのに対し、男性二人は、姿を変えるという演技面と、自分の恋人の心変わりを知ったときの嫉妬にもだえる様で、グラデーションというよりは落差を演じ、歌い分けねばならないわけだが、2組の男女は4人ともそれぞれに、演劇的に満足を与えてくれた。

また、フィオルディリージの心が揺れるぎりぎりの所で、軍人の服装をして、婚約者のもとへ行こうと決意をしたときに、私は一体誰なのだと自らのアイデンティティを問う場面で、彼女の軍服姿の影が大きく映し出された照明は、的確で、判りやすく(判りやすいから、芸術的に価値が低いとは、僕は考えない)、効果的。

指揮のパスカル・ヴェロは、『コジ・ファン・トゥッテ』の男二人が士官、すなわち軍人であること、その男の空威張りを示唆するようなオーケストレーションがほどこされていることを良く伝えていた。具体的には、派手にティンパニーが鳴る。

これは作品の性格描写として成功していたと思う。難を言えば、第二幕が音楽としてだれてくるので、もう少しテンポを早めてもよかったと思う。

『コジ・ファン・トゥッテ』は、CDでもべームのライヴ盤(数種類)、カンテッリのスカラ座ライヴなど名盤には事欠かないが、上演を見て聞いて、劇の世界に浸る歓びは、それに勝るとも劣らぬものであった。

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