ゼッフィレッリの自伝
フランコ・ゼッフィレッリが自伝を書いた(コリエレ・デッラ・セーラ、11月19日)。
ゼッフィレッリは、今年のスカラ座のオープニングを飾るリッカルド・シャイー指揮の『アイーダ』の準備に余念がない。この演出は、ゼッフィレッリにとって5回目の演出となるが、「アイーダの中のアイーダ」になるとの前評判である。
そのゼッフィレッリが自伝を書いた。11月28日から書店に並ぶ予定(出版社は Mondadori)。
500頁を越える長さだが、まったく退屈しないという。彼の生涯は最初から、並ではないからだ。1923年2月12日にフィレンツェで婚外子として生まれる。
母親の Adelaide Garosi は情熱的な生き方をし、夫の葬式には、別の男の子供をお腹に宿しており、スキャンダルとなった。
母アデライーデはモーツァルトが好きだったので、『イドメネオ』からゼッフィレッティと姓を付けたのだが、転記のミスでゼッフィレッリとなったのだ。
何年も後になって、父親は認知して、コルシという姓を与えようとした。だが、もう既にゼッフィレッリはゼッフィレッリだった。
ルキーノ・ヴィスコンティとの出会い、仕事、愛憎関係。ヴィスコンティとの関係は、あらゆるドアを開いてくれた。
初めてパリに行くときには、コクトー、ジャン・マレー、ココ・シャネル宛てへの紹介状を持っていたのだ。シャネルは、12枚のマティスの素描をプレゼントしてくれた。
そしてマリア・カラスとの友情。オナシスはカラスとゼッフィレッリを不仲にしようと工作したが無駄だった。
追記:ゼッフィレッリの母は、彼が6歳のときに亡くなり、彼は《mamme》(マンマの複数形)の愛情に囲まれて育った。乳母のエルシリア、叔母のリーデ、英語を教え、シェイクスピアへの情熱を吹き込んでくれたイギリス人のミス・メアリー。
こうした事情は、彼自身による映画『ムッソリーニとお茶を』に描かれている。
が、あの映画に描かれていないこともあった。つまり、すべてが平穏に過ぎたわけではない。礼拝堂で、ある修道士が彼にしつこくキスをし、身体を触られたという。「告白しえない欲望を、私の身体を触ることで満たすと、彼(修道士)はぐったりとした・・・そして、熱い悔恨の涙を流しながら、自分の祈祷台に走っていった」。
最初のオルガズモは、日付がはっきりとしており、1936年のピランデッロが亡くなった日だという。そして、最初の恋は、高校の同級生だったが、まわりの連中はそれに気づき、しつこくからかった。
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