《トリノ、24時からの恋人たち》
《トリノ、24時からの恋人たち》を観た(渋谷・文化村・ル・シネマ、10月20日まで)。
昨年5月のイタリア映画祭でも観たので二回目である。
原題は 《Dopo mezzanotte》 (真夜中を過ぎて)であるが、なかなか洒落た、叙情的な映画だと思う。
2人の男と1人の女をめぐる物語であるのだが、人物ではない登場者が人物と同じくらい大きな存在をしめている。一つは、映画の舞台となるモーレ・アントネッリアーナというトリノの町のどこにいても目に付く巨大な塔である。
この建物、1863年に、信教の自由を得てまもないユダヤ人コミュニティーが、天才的建築家アレッサンドロ・アントネッリに依頼してシナゴーグ(sinagoga, ユダヤ教の教会)として計画したのだが、途中で何度も建築家が設計変更を加え、完成までの年月が延び、資金不足となり、頓挫した。
ユダヤ人コミュニティーは、トリノ市へこれを譲渡した(別の土地と交換した)。建物は、イタリア建国の父ヴィットリオ・エマヌエーレ2世を記念するものとなったが、またまた設計変更が行われ、高さも、146,153,そして最終的に167メートルとなり、当時ヨーロッパ随一を誇る高さの石造建築となったのである。
しかし完成後も、この建物、順風満帆ではなく、1887年には地震に襲われ、1904年の豪雨、1953年の豪雨に襲われ、この時は47メートルの尖塔が墜落してしまい、1961年に再建された時には、石造りでなく、金属製になってしまった。
ここには現在、国立映画博物館がある。企画自体は、1941年からあったのだが、様々の試行錯誤をへて実際にオープンしたのは、1958年9月27日であった。火事にあって、1983年からしばらく閉鎖されていたが、2000年に新装オープンした。その時に、四方がガラスのエレベーターが取り付けられた(以前からエレベータ自体はあった)。このエレベーターで、吹き抜けの堂の中を、途中に階もなく、止まることもなく、まったく宙ぶらりんのまま、高さ85メートルの地点まで昇るのであり、そこからトリノ市内を一望することが出来る。
映画博物館は、幻灯機から始まって、手回し撮影機(自分で回して《いにしえ》の画像を観ることが出来る)、スチール写真、映画の小道具、セットが並んでいる。
ここからネタバレです。
女主人公アマンダ(フランチェスカ・イナウディ)は、とある事件を起こして、真夜中の町を走り、この建物へ逃げ込む。そこに出くわすのは、映画オタクで、この映画博物館の夜警をしているマルティーノ(ジョルジョ・バゾッティ)。アマンダには、もともと車泥棒のちんぴらだが、心優しいところもあるアンジェロ(ファビオ・トロイアーノ)という恋人がいる。
三角関係となる。
人物でない登場者とは、モーレ・アントネッリアーナと映画、あるいは映画の歴史である。20世紀初頭のトリノや無声映画がたびたび挿入される。ストーリとしては、マルティーノが観ているわけだが、映画のなかに映画が挿入されれば、メタ映画的性格が強くなる。
シルヴィオ・オルランドをナレーションにのみ使うという贅沢をこの映画は享受しているのだが、ナレーションの存在が冒頭だけで消えず、要所要所にはいってきて、三人の恋愛物語を距離を持って、見させる。
ストーリにベタに没入したい人にとっては、困惑する映画かもしれない。逆に、今さら、ベタな恋愛ものはという人にとっては、そのズレ(マルティーノは実際、バスター・キートンのパロディ的に、ずっこける)、ズラシが快感を生むかもしれない。
トリノの中心街は、まるでパリのように美しいのだが、映画の物語進行の中では、周到に避けられている。登場人物たちの社会階層を考えれば、働く場所、住む場所がそういった地区と無縁なのも無理はない。しかしそれが意図的なものだと考えられるのは、モーレ・アントネリアーナからは、角度によって、トリノ中心部の壮麗な街並みも見渡せるはずなのだが、映るのは郊外よりの平凡な建物に限られているのだ。
トリノの中心街や、中央駅から王宮まで直線上にならぶ3つの広場は、手回しの白黒フィルムの中にのみ登場するのである。
古典的な美、古典的恋愛が、直写の対象としては、方法論的に排除されている。それらは、あくまでも引用の対象なのである。そうした対比(直写されるものと、引用されるものとの対比)によって、われわれは、われわれの生きる時代の性格を読み取る、あるいは再解釈することを余儀なくされるのだろう。アンジェロが死ぬ間際に見るイメージは、《もっと安全な町を》という巨大な文字と巨大なベルルスコーニの顔が描かれた政治宣伝のキャンペーンカーなのだ。この痛烈な皮肉、諷刺を笑い、アンジェロの運命に涙する人が、監督の想定する観客なのだろう。
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