エウジェニオ・モンターレ
イルマ・ブランダイス
モスカ(ドゥルシッラ・タンツィ)とモンターレ
エウジェニオ・モンターレがイルマ・ブランダイスに宛てた手紙150通あまりが出版された(コリエレ・デッラ・セーラ、4月27日、コリエレ紙未着のため、古い記事から)。
エウジェニオ・モンターレは、1896年ジェノヴァ生まれ。1925年に詩集《Ossi di seppia》(イカの骨)を出版。難解な、しかし、20世紀を代表するイタリア詩人。1975年にノーベル賞受賞。1981年没。
イルマとの出会いは、モンターレがフィレンツェの図書館Gabinetto Vieusseux の館長であったときに、彼女が詩人を訪れたのがきっかけ。1933年の夏のことであった。二人はたちまち恋に落ちた。
イルマ (1905-1990) は、ユダヤ系アメリカ人で、ダンテや中世ラテンを学ぶ研究者で、当時、イタリア文学を教えはじめ、コロンビア大にも通っていた。彼女との出会いは、モンターレの詩まで変えた。第一詩集の Ossi di seppia と 第二詩集 Occasioni の作風は大きく異なる。彼女は、詩の中では Cliziaという名前で登場するが、Cliziaが誰であるかは、長い間謎であった。
モンターレの死後、徐々に明らかにされ、今回、イルマが出会いの場でもあったGabinetto Vieusseux に寄贈していた手紙が出版される運びとなった。タイトルは Lettere a Clizia (Rosanna Bettarini, Gloria Manghetti e Franco Zabagli 編、Mondadori, 25ユーロ)。
イルマは、1933年と34年の夏にイタリアを訪れ、ヴェネツィア、ジェノヴァ、トリーノ、シエナ(モンターレと一緒にパリオを観ている)を回っている。三度目の訪れは、1938年で、すでに戦争の噂がかけめぐり、二人は別れる。
モンターレには、もう一人の女性がいたのである。モスカ(本名はドゥルシッラ・タンツィだが、愛称でこう呼ばれ、モンターレの作品中にもこの名で登場する)という女性とこの時期出会っている。モスカは、美術評論家の妻であったのだが、やがてモンターレと暮らすようになり、後年1963年、死の前年に結婚している。
最初はモンターレはイルマに対して、モスカの存在を隠していたが、ある時点で告白すると、大騒ぎになる。イルマは愛に関し、ブルジョワ的な考えを持ち、可能であれば、結婚という形を望んでいた。さらに、絶対的な、永遠の愛に憧れていた。
モンターレは一時、アメリカ行きも考えるが、モスカはそれを認めない。自殺するとおどしたり、哀れみを乞うたりして、結局、モンターレはモスカとイタリアに留まったのである。
最近のコメント