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2006年7月17日 (月)

Foibe への沈黙

Foibe

1945年の5月から、ヴェネツィア・ジュリア地方およびダルマチア地方で生じた過激なイタリア人排斥運動について、沈黙を保ち介入しなかったのは、教皇ピオ12世か連合軍かという論争が起こっている(コリエレ・デッラ・セーラ、7月7日、8日)。

問題を提起したのは、『パノラーマ』のイニャーツィオ・イングラオの記事。

この Foibe (鍾乳窩の意味だが、その穴にイタリア人を生きたまま、あるいは死体をほうりこんだ)は、第二次大戦直後に起きたティト率いるパルチザンによる民族浄化で、イタリア人の犠牲者は、ジャンニ・オリヴァによると約1万人にのぼるという。

最初の波は、1943年9月8日の後で、ティトのパルチザンがイストリア地方のイタリア人に復讐したもの。約700人のイタリア人が死亡した。

より残虐だったのは、1945年春のもので、1945年5月解放後のトリエステにティト軍が侵入し、数千人(大多数はイタリア人)をトリエステ、ゴリツィア、フィウメで逮捕し、追放した。

あるものは、強制収容所にいれられ、帰ることはなかった。あるものは、フォイベとよばれる鍾乳窩に放り込まれた。

そこで、ヴァティカンに介入をもとめた者もいた。1945年5月6日の書簡や、7月20日の訴えがあったとのこと。

地元のヴェネツィアの総大司教アデオダート・ジョヴァンニ・ピアッツァ、トリエステの司教アントニオ・サンティンは地元の声を教皇庁に届けている。

これを受けてピオ12世は、在ヴァティカンのイギリス大使、アメリカ大使に善処を求めている。しかし、これは事態の重大さに比してあまりに小さい行動であった。

この弱い反応の理由として、ジョヴァンニ・サーレ神父は、ヴァティカンに知らせが届いたのが、数週間後で、虐殺が終わってしまってからだったためと考えている。

ジョヴァンニ・サーレ神父は、『チヴィルタ・カットーリカ』の編集者で歴史家。サーレ神父によると、トリエステにいた英米軍は、ティトの軍隊の作戦を黙認し、介入することはなかったのだという。

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コメント

イタリア国内なのにイタリア人が排斥されたことがあるんですね、驚きです。第二次世界大戦もイラク戦争も今のレバノンでの争いもそうですが、戦争ってほんとうに、みんなが傷つくだけでなにもいいことがないですね。

投稿: azusa | 2006年7月18日 (火) 09時55分

そうですね。イタリアと旧ユーゴスラビアの間の国境は、ゆれているわけです。住民もイタリア系、スラブ系、オーストリア系が入り交じっていました。

だからその部分の国境が確定するのは、戦争直後ではなかったのです。1946,47年と、ポーラやゴリツィア(ゴリツィアは町がイタリアとスロヴェニア(旧ユーゴ)に別れています)からイタリア系住民が追放されたりしたようです。

1947年に、イタリアと旧ユーゴの国境がおおよそ出来上がりますが、トリエステ地区などは連合軍が占領しており、正式に国境が確定するのは1954年になってからです。

領土問題は、厄介なものですね。EUという大きなくくりは、一つの智恵かもしれません。

投稿: panterino | 2006年7月18日 (火) 10時50分

foibeの話は本当に興味深く私も関心があります。ただ実は私はフォイベ=イタリア人排斥(ここで使われていたのはesclusioneでしょうか?)というイメージは持っていなかったです。例えばイストゥリアのケースではスロヴェニアやクロアチア人などと比べ、イタリア人被害者の割合が圧倒的だったということでしょうか?例えばパジンやブーイェなどの内陸部ではどうだったのでしょうか?それとインフォイバーレに参加したパルティジャーニはやはりほとんどティトーの指揮下にあった正規のパルティジャーニだったのでしょうか?ティトーの関与などに関して何か記録が残っているのでしょうか?後47年の国境線設定に際し、ゴリツィア(スロヴェニア側に編入された現在でいうノヴァ・ゴリツァから、ということでしょうか?)でイタリア人が追放されたという経緯に関して、どのようなソースをお持ちでしょうか?非常に関心があるので、教えていただけると感謝です。

投稿: cubite | 2007年4月15日 (日) 02時26分

cubite さん
はじめまして。

大変、深いご質問、ありがとうございます。

まず、私の情報源は、基本的にイタリアの日刊紙コリエレ・デッラ・セーラ(Corriere della sera)であることをお断りしておかねばなりません。

記事の内容を要約する段階で、他のホームページを参照したりすることはありますが、この記事の場合、いくつかのイタリア語のホームページを見た気がします。

しかし、どれもがイタリア人を中心に、イタリア人からの視点で書かれているので、スロヴェニア人、クロアチア人との比率については記憶に残る記述は無かった気がします(曖昧ですみません)。

ティトーの指揮下にあった正規のパルティジャーニであったかどうかは、不明です。ウィキペディア(イタリア語版)の記述を見ると、そもそも死者の数を確定しようという調査にも、旧ユーゴスラビア政府は一度も参加しようとしなかったそうです。そういう情報はなかなかどこの国でも出したがらないように思います。

イタリアの中でも、この問題は、政治的に(つまり左派攻撃のために)利用されることを怖れて、左派は触れることを避けてきたようです。

そのため、2007年2月9日、2月17日の当ブログでお伝えしたように、ナポリターノ大統領がこの歴史的事実を直視しようという呼びかけは、イタリアでは右派、左派を越えて歓迎されましたが、スロヴェニアやクロアチアの大統領からは激しい反発を招きました。

イタリアでも、一部では、この事件が起こった歴史的背景を忘れるべきではない――即ち、イタリアが一方的被害者なだけではなく、その前に、ファシストたちが、イストリアなどで侵略的行為をしたことを踏まえるべきだ、という議論もありました。

というわけで、旧ユーゴ諸国では、この問題がどう受け止められ、どのような言説が展開されているのか、まったく無知な状態です。何かご存知でしたら、お教え願えれば幸いです。

投稿: panterino | 2007年4月15日 (日) 16時45分

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