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2006年6月 6日 (火)

ボンプレッシに恩赦

Bompressi

カラブレージ警視殺人事件で有罪判決を受けていたボンプレッシが大統領から恩赦をうけ、自由の身となった(コリエレ・デッラ・セーラ、6月1日)。

事件の発端は1972年5月17日に遡る。ルイジ・カラブレージ警視が自宅前で二発の銃弾に倒れた。

カラブレージ警視は、フォンターナ事件(ミラノのフォンターナ広場に面した農業銀行爆破事件、多数の死傷者が出た)の容疑者として取調中に、窓から墜落して死亡した無政府主義者ピネッリの死亡に重大な責任があるというキャンペーンで非難されていた。

その後、警察に協力したロベルト・サンダロが、カラブレージ警視殺害は、Lotta continua (闘争は続く)という過激派の犯行であるとした。

Lotta continua は、1969年に結成され、1976年に自己消滅した。

1988年7月28日、ミラノ検事局の命令により、アドリアーノ・ソフリ、ジョルジョ・ピエトロステーファニ、オヴィディオ・ボンプレッシとレオナルド・マリーノが逮捕された。逮捕は、マリーノの自供に基づくもので、その自供によれば、ボンプレッシが殺害の実行犯で、ソフリとピエトロステーファニが、委託者で、彼自身は運転手をしていた。

1990年、ソフリ、ボンプレッシ、ピエトロステーファニは、マリーノとともに有罪判決を受ける。判決は最初に確定し、ついで無効となり、そして再び1995年に確定した(マリーノは時効が成立)。何度も上訴、再審請求がなされたが却下され、2000年に有罪が決定的なものとなった。

ボンプレッシは、19年以上の刑が言い渡され、1997年1月24日にピサの刑務所に収監された。1998年健康上の理由で、釈放された。2000年1月、ヴェネツィアの控訴裁判所は、再審請求を棄却。ボンブレッシは、健康がすぐれなかったが、延期の後、2002年に再び収監され、2月には、再び刑の一時停止を獲得し、2003年には自宅軟禁の措置となった。

2006年5月31日、11時に、法務大臣クレメンテ・マステッラが大統領府へ恩赦を求める手紙および恩赦令を送る。午後4時半、ジョルジョ・ナポリターノ大統領が、ボンプレッシ恩赦令に署名。午後7時、マステッラ大臣が副署。ボンプレッシは、自宅軟禁状態であるが、大統領の決定が公表され次第自由の身となる。

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