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2006年6月30日 (金)

ジェネラーリの戦略

保険大手のジェネラーリが、損保のトーロに公開株式買い付けをしかけた戦略は、防衛的なものだった(コリエレ・デッラ・セーラ、6月26日)。

トーロに対しては、フランスの Axa やイギリスの Aviva, Prudential が買収をねらっているという情報が流れた。

フランスやイギリスの大手保険会社もイタリア市場に触手を伸ばしつつあるわけである。

実際、フランスの Axa はスイスの Winterthur を80億ユーロで買収している。

また、2005年6月には、一株11,25ユーロだったトーロの株価は、今年の3月には、19ユーロにまで跳ね上がったりしている。

というわけで、ジェネラーリとしては、防衛的に損保のトーロを買ったわけであるし、ヨーロッパの大手との競争に備えるということでもある。

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2006年6月29日 (木)

ジェネラーリ、トーロに公開株式買い付け

イタリアの保険会社大手のジェネラーリが、トーロに公開株式買い付けを行う(コリエレ・デッラ・セーラ、6月26日)。

ジェネラーリは、デ・アゴスティーニが所有するトーロの55,5%の株式を引き受け、残りの株式に対して株式公開買い付け(offerta pubblica d'acquisto) を行う。

この取引は、トーロの現在の株主の了承のもとで実施するので敵対的な買収ではない。

ジェネラーリは、ヨーロッパでは、Ing(オランダ)、Allianz(ドイツ)、Axa(フランス)についで、第四番目の保険会社。

現在のトーロの株式は市場では、16,65ユーロであるが、ジェネラーリの買い付け価格は、21ユーロである。

この取引の後ろ盾・アドヴァイザーとなったのは、ジェネラーリの筆頭株主であるメディオバンカである。

トーロの強みは生保以外にあり、260万人の顧客と、非生保部門で、国内の6,4%のシェアーを持っている。

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2006年6月28日 (水)

モンテッソーリ、テレビ・ドラマに

Paola_montessori001 パオラ・コルテッレージ演ずるマリア・モンテッソーリ

イタリアを代表する教育学者マリア・モンテッソーリの生涯がテレビ・ドラマ化され、2007年春に放映される(コリエレ・デッラ・セーラ、6月24日)。

モンテッソーリといえば、1000リラ札に肖像がのっていた有名なイタリアの教育学者。日本にもモンテッソーリ・メソッドにのっとった幼稚園がある。

今回は、パオラ・コルテッレージという喜劇女優がテレビ・ドラマでモンテッソーリを演じ、Canale 5 で放映されることになった。

モンテッソーリは、イタリア人女性ではじめて大学の医学部を卒業した人。また、伝統的な結婚制度からはずれた所で母になった人でもある。

コルテッレージは、モンテッソーリを「19世紀に生まれたけれど、100年先の頭を持っていた。とても近代的で、男性が支配していた時代なのに、フェミニストで、キャリア・ウーマンの先駆者だわ」と評している。

モンテッソーリは、キアラヴァッレ(アンコーナ県)で1870年に生まれた。ローマ大学卒業後すぐに、「障害児」および捨て子の教育にとりかかる。

1906年、「子供の家」をローマで設立。彼女の教育方法は革命的で、ファシズムはそれを取り込もうとしたが、彼女はのらなかった。

私生活では、モンテッソーリは、ジュゼッペ・モンテサーノとの間に子供をもうけた。モンテサーノも大学の心理学の教授であったが、彼は貴族の出で、別の女性との結婚が決まっていた。

そこでモンテッソーリの息子マリオは、父親に認知はされるが、よその家にあずけられ、何年もたってから、実の母はこの人と明かされることになる。

マリアは、モンテサーノとの愛が終わった後は、黒い服だけを着ていた。愛の喪が、1952年に亡くなるまで続いたのである。

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2006年6月27日 (火)

国民投票、憲法改正否決

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憲法改正をめぐる国民投票は開票をおえ、Noが61,3%で、否決された(この項、corriere.it).

結果は、Noが61,3%、Si’が38,7%。圧倒的なNoの勝利であった。

地域別にみると、Si' が上回ったのは、ロンバルディア州とヴェネト州のみで、海外票も Si' が優勢であった。

投票率は、52,3%。

今回は、Nexusの速報値は、 No が61%、Si' が39%であったので、確定値に近いものだった。

地域ごとには、ロンバルディア州で Si' が上回り、54,6%となったが、州都のミラノでは、Noが上回っていた。ヴェネト州では、Si’が55,3%。

中部は、No が67,7%。南部は74,8%。島嶼部は70,6%。海外票は、Si' が52,1%であった。

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イタリア、トッティのペナルティ・キックで勝つ

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ワールドカップのイタリア対オーストラリアは、終了間際、トッティがペナルティ・キックを決め1対0でイタリアが勝利をおさめた(この項、TBSテレビおよび corriere.it).

前半は、0対0。イタリアは、何度かトーニにボールが渡ってシュートの場面があったが、得点につなげることが出来なかった。

後半、5分で、マテラッツィがレッドカードで退場。荒いプレーではあったが、レッドカードが適当であったかどうかは、議論の余地のあるものであった。

ここから、後半はイタリア10人、オーストラリア11人の戦いとなり、イタリアは守勢に立たされる。後半30分で、フォワードのデル・ピエロをトッティに交代。ここから、少しイタリアが攻めるシーンが見られるようになった。

90分が終わり、ロスタイムに入り、あわや延長戦かと思われたときに、ゴール前に攻め込んだグロッソに対するオーストラリアの反則がとられ、ペナルティ・キック。千載一遇のチャンスをフランチェスコはものにした。

トッティは試合終了後、批評家たちのコメントが聞きたいものだと、挑発的な言葉をはいた。ワールドカップ直前に怪我をして回復がどの程度かが不明のため、トッティの起用に関しては様々な意見が飛び交っていたからである。

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国民投票、終了,

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イタリアの憲法改正をめぐる国民投票が26日15時、終了した(この項、corriere.it ).

開票は途中であるが、投票率は50%を超えたもよう。棄権者が多いのではないかという懸念があったが、実際には、投票した人は、前回の国民投票(2001年10月7日、34,1%)を大幅に上回る見通し。ただし、2001年の時には、投票日が一日だけであった。

また、投票はNoが60%近くにのぼるようで、憲法改正案は否決されたようだ。

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2006年6月26日 (月)

ヴィットリオ・エマヌエーレ、拘置所を出る

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ヴィットリオ・エマヌエーレは、自宅拘禁を獲得して、ポテンツァの拘置所を出た(コリエレ・デッラ・セーラ、6月24日)。

向かった先は、ローマのパリオリ地区。二年前に亡くなったヴィットリオ・エマヌエーレの親友で編集者ディーノ・ファッブリの息子オッタヴィオ・ファッブリのアパルタメントを借りて住む。

彼は、拘置所の房に、自分の写真を署名入りで置いてきた。また、被拘留者のために千にものぼるサインを書いてやり、見張りを抱きしめ、拘置所をあとにした。7日間ここに滞在したことになる。

取り調べの過程で、金銭の授受については一部認めたもよう。カジノがあるのは、カンピオーネ・ディタリアというスイスにあるイタリアの飛び地で、そこの市長サルモイラーギに金が渡っているもよう。

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テレビ出演の代償

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国民同盟の党首フィーニのスポークスマン、サルヴァトーレ・ソッティーレは、タレント(valletta)のグレゴラーチとテレビ出演の代償に、性的関係を迫っていた疑いがもたれている(コリエレ・デッラ・セーラ、6月22日)。

サルヴァトーレ・ソッティーレは、フィーニの秘書であり、ヴィットリオ・エマヌエーレの賭博・売春事件に関わりがあったという容疑が持たれている。

さらに、テレビ出演につながるチャンスを与える代償に、性的関係を求めた疑いがもたれている。

ソッティーレ本人は、グレゴラーチは、美しい女性であり、好きであるが、友だちに過ぎないと容疑を全面否定している。

また、ヴィットリオ・エマヌエーレの件に関しては次のように語っている。スロット・マシーンは国家による規制があり、それを担当する国家独占局の局長ジョルジョ・ティーノを紹介したが、自分は、紹介しただけであって、収賄に関することには一切関わっていないとしている。

国家独占局は、AAMS(Amministrazione autonoma dei monopoli di stato) で日本のかつての専売公社にあたり、以前は煙草の販売も国家の独占であった。

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2006年6月25日 (日)

国民投票始まる

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憲法改正案をめぐる国民投票が始まった(この項、Corriere.it による)。

投票時間は、6月25日(日曜日)の8時から22時と、26日(月曜日)の7時から15時。

今回の国民投票は、憲法改正に関するものなので、投票率に関係なく、Si’とNoの投票どちらが多いかを決するものとなる。

Noが多ければ、現行憲法が有効となり、Si'  が多ければ、中道右派が賛成多数で可決した改正案が有効となる。

有権者は、イタリアに4712万9008人おり、海外在住のイタリア人が約260万人いる。

開票は、投票時間終了直後、即ち、26時の15時からとなっているが、何人かの国会議員、とくに改正案の「父」とされるロベルト・カルデローリ元大臣は、開票時間を5時間遅らせてはどうかと申し出ている。

これは、サッカー・ワールドカップのイタリア対オーストラリア戦が17時から始まるので、気もそぞろとなってしまうからというのがその根拠である。しかし、内務省は、時間変更はしないと答えた。

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マフィア、45人逮捕

Piero_grasso 全国マフィア対策検察庁総長ピエロ・グラッソ

シチリア・マフィアのボスが45人逮捕された(コリエレ・デッラ・セーラ、6月21日)。

逮捕のきっかけになったのは、4月11日に逮捕された大ボス、プロヴェンツァーノが使用していた暗号と、その暗号を用いた手紙(指令書)の解読だった。

マフィアのトップにいたのは、25年前と同じメンバーだった。警察の手入れは、52人の逮捕状をとり、45人の地区のボス(capomandamento) および幹部を逮捕した。

この作戦(ゴータ作戦と呼ばれている)は、マフィアの抗争がパレルモで勃発するのを未然に防ぐために実施されたと、全国マフィア対策検察庁総長ピエロ・グラッソは話している。

現在、大ボスのプロヴェンツァーノに代わって地区のボスたちを仕切っているのは、三頭体制で、ニーノ・ロトロ(刺客)、アントニーノ・チナ(トト・リーナの医者)とフランチェスコ・ボヌラである。

シチリアの州都であるパレルモは7つの地区(mandamenti)に分けられ、それぞれの地区は複数の組長(capifamiglia)によって支配されている。

7つの地区とは、パリアレッリ、サン・ロレンツォ、ボッカディファルコ、ポルタ・ヌオーヴァ、ノーチェ、ブランカッチョ、レスッターナである。

今回未然に防がれたとされるマフィアの抗争は、ロトロと最もおそれられている潜伏者サルヴァトーレ・ロ・ピッコロの間の戦いである。

きっかけは、25年間シチリアからニューヨークに「亡命」し、ガンビーノ一家と取引をしていたインゼリッロ一家の帰還であった。ロ・ピッコロは賛成したが、ロトロとボヌラは反対したのである。

政治家では、シチリア州議会の議員ジョヴァンニ・メルカンダンテ(フォルツァ・イタリア党)が、チナとの関係を持っていたらしい。

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マリーナ対マリア・ガブリエッラ

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ヴィットリオ・エマヌエーレの妹マリア・ガブリエッラ

ヴィットリオ・エマヌエーレの夫人と妹が、すさまじい言葉のやりとりに火花を散らしている(コリエレ・デッラ・セーラ、6月21日)。

夫人は、マリーナ・ドリア、妹はマリア・ガブリエッラ。

マリア・ガブリエッラは、兄ヴィットリオ・エマヌエーレの逮捕を聞いて、「これからは、彼は、私にとって、(ただの)サヴォイアさん(il signor Savoia)」だと宣言したのである。

また、逮捕についても、「ほぼ予想の範囲だった」と述べた。

さらに、兄嫁マリーナを激怒させたのは、兄は「だまされやすい人で、お金にしか興味のない妻の犠牲者なのよ」という言葉。「これで十分ということがないの。破産した実業家の出で、欲しがること、欲しがること・・・」

これに対し、兄嫁マリーナ・ドリアは、「彼女のああいう意見表明で、マリア・ガブリエッラは、兄弟を殺したのよ」「馬鹿げてる、信じられない。この悲劇的な時に、親族が団結すべきなのに、戦争をするなんて」。

しかしマリア・ガブリエッラも引かない。彼女は、母・女王であったマリア・ジョゼの遺産に関して、兄が横領したと告発しているのである。

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ヴィットリオ・エマヌエーレ:金銭は慈善事業のため

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ヴィットリオ・エマヌエーレは、ポテンツァの拘置所で初の取り調べを5時間にわたって受けたが、金銭の授受は認めたものの、慈善事業のためとしている(コリエレ・デッラ・セーラ、6月21日)。

ヴィットリオ・エマヌエーレによると、自分には大勢友人がいて、頼みごとがあれば、引き受ける。自分の名前が使われ、何かが起こっているとうすうす感じてはいたが、自分から遠いところで起こっていることが何であるかは知りようがない。

金は受け取ったが、慈善事業のためで、津波被害者の救済や、癌の研究などのためだという。しかし請求書などの書類が見あたらないと、彼の関わるマウリツィオ騎士団の会計係は驚きを隠せない。

一方、パリに潜伏していたヴィットリオ・エマヌエーレの友人ウーゴ・ボナッツァは自首した。

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2006年6月24日 (土)

ボレッリ:ミラン・システムもあった

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サッカー疑惑に関して、ボレッリは193ページにわたる調書を提出したが、その中で、ユヴェントゥス・システムだけでなく、ミラン・システムについても言及している(コリエレ・デッラ・セーラ、6月20日)。

ボレッリは調書の中で、一連の「違法な構造物」について言及している。しかしそれは、アドリアーノ・ガッリアーニが述べ、何度も繰り返された「存在するのは、ユーヴェ・システムだけだ」というのとは異なるものだった。

モッジを中心にして構成されたモッジ・システム(ユーヴェ・システム)に対抗していたのは、ミラン・システムでその中心人物は、ミランで審判に関する担当をしていたレオナルド・メアーニであった。

ミランに関する叙述には、テレビ放映権に関わる部分もある。ミランの副会長であるアドリアーノ・ガッリアーニがサッカー・リーグの会長でもあるという利害の衝突も、名前には言及せずに触れられている。彼は、審判指名者(designatori)や審判、さらには元サッカー連盟会長のフランコ・カッラーロに影響力を行使出来る立場にあったわけである。

調書には、7000ページにわたる添付書類があり、6章に分かれている。最も分厚いのは、審判指名と審判に関する章である。ここでは、前審判指名者のベルガモとパイレットの役割と責任が厳しく追及されている。

6月28日にCaf (Commissione di appello federale) というスポーツ関係での訴えを受理する機関で裁判は始まり、7月9日に判決が出る。

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囚人たち、「ヴィットリオに自由を」

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ヴィットリオ・エマヌエーレが収監されたポテンツァの拘置所で、囚人たちが「ヴィットリオに自由を」と騒ぎ、当人を感動させた(コリエレ・デッラ・セーラ、6月20日)。

ポテンツァのベトレンメ拘置所で、夜中に「ヴィットリオ・リーベロ!(ヴィットリオに自由を)」という声が、最初は、1人、そして2人、3人となり、やがて、金属食器や鍋を叩く音で騒然となった。

まるでオーケストラのよう、いや反乱のようであったという。この拘置所は、定員170人に対し、収容者が220人とやや混み合っている。

ヴィットリオ・エマヌエーレ本人は、訪れたDCの書記ジャンフランコ・ロトンディに、「その夜は感動した、その合唱を聴いて涙が出そうだった。この内側では、私を好いてくれるのだ」。

また、「イタリアでは、どこへ行っても食事がおいしいというのは本当だ」とも語った。

しかし検察官に対しては、「私は何故ここにいるのか理解できない。私は無実だ」と答えた。

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Cattocomunismoの終焉

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ドン・ロレンツォ・ミラーニ

エルネスト・ガッリ・デッラ・ロッジャが Cattocomunismo の終焉について論説を書いている(コリエレ・デッラ・セーラ、6月18日)。

エルネスト・ガッリ・デッラ・ロッジャは歴史家で、コリエレ紙の論説委員。

Cattocomunismo とは Catto(licesimo) と comunismo の合成語で、1970年代から用いられるようになったらしいが、その源流には、いくつかの運動がある。フランコ・ロダーノ(1920-1983)が、第二次大戦中の抵抗運動のなかで、 Il movimento dei cattolici comunisti を結成し、その後、Sinistra cristiana と名前を変え、やがて、1945年12月には、イタリア共産党に合流した。

ロダーノは、ベルリングェルのブレーンの1人で、歴史的妥協(1973年イタリア共産党の提案による共産党とキリスト教民主党の妥協路線)という戦略を考え出した。

Cattocomunismo という用語は、より一般的な形で、左派に与するカトリック(ロニエロ・ラ・ヴァッレ、アドリアーノ・オッシチーニ)または資本主義に批判的で、社会的正義に敏感な批判的な人(ジュゼッペ・ドッセッティ、ドン・ロレンツォ・ミラーニ)を言及する際に用いられるようになった。

現代、Cattocomunismo が終焉を迎えた原因はどこにあるのか?

現在のヨーロッパで、経済・社会的な環境に関し決定的な因子は、各国の政府ではなくて、EUである。ブリュッセルやフランクフルトで経済・財政に関する拘束力のある基準値は決定される。

この事実は、社会・経済的枠組みの根本的変化とあいまって、ヨーロッパ諸国において、政治的議論や経済に関する議論の重要性に終止符をうってしまった。

こうして生まれた空白は、人間存在や日々の生活の倫理的問題に関する議論によって埋められるようになっている。人工授精、臓器移植、安楽死、同性婚といった問題である。

要するに、ユーロの導入やグローバリゼーションが文化的コンテクストを変えてしまったのだ。

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ボレッリ、起訴状を書く

サッカー疑惑捜査の頂点にたつボレッリは起訴状を書いた(コリエレ・デッラ・セーラ、6月18日)。

起訴状に含まれるチームは、ユヴェントゥス、ミラン、ラツィオ、フィオレンティーナの他に、サンプドリアが含まれる。

このグループの捜査が終わると、2004-04年に関わる5チームの捜査が始まる。即ち、セリエAのシエナ、レッジーナ、ウディネーゼ、メッシーナ、レッチェの5チームとセリエBのエンポリとアレッツォである。

サッカー連盟の臨時代表理事のグイド・ロッシは2006年の優勝盾を引き渡すかどうかを検討し始めた。

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2006年6月23日 (金)

イタリア、決勝トーナメント進出

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サッカー、ワールドカップで、イタリアは、チェコを2対0でくだし、決勝トーナメント進出を決めた(この項、フジテレビと Corriere.it).

試合開始直後は、明らかにチェコが優位。ネドヴェドを軸に早い攻めで、イタリアのゴールに襲いかかったがブッフォンのファイン・プレーにはばまれた。

イタリアは、アタッカンティ(FW)のトーニをはずした意表をつく陣営。前半ネスタが怪我で退場し、マテラッツィと交代したが、そのマテラッツィが、コーナーキックをヘディング・シュートで決めた。背の高さを生かしきった、見事なシュート。

あせりが出たのか、チェコはプレーが荒くなり、選手がイエローカード二枚をもらい退場。11人対10人のプレーとなる。

後半は、人数の差もあり、ほぼイタリアのペース。ジラルディーノに代えてインザーギを投入し、インザーギはオフサイドぎりぎりに待ちかまえていて、チャンスをものにして二点目を入れ、勝負は決まった。

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2006年6月22日 (木)

「カルティエ現代美術財団コレクション展」

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メンディーニの《プルーストの安楽椅子》

カルティエ現代美術財団コレクション展を見た(江東区、東京都現代美術館、7月2日まで)。

インスタレーション作品が中心。その場では気づかなかったが、帰ってきて印象に残ったものを想起してみると、音または音楽が伴っている作品が多い。それが、私という観察者の偏差によるものか、一般的にそうなのかは、判別しがたい。

印象に残ったものをいくつかあげると、デニス・オッペンハイムの《テーブル・ピース》。18メートルもあるとても細長いテーブルが黒から白へとグラデーションに塗られていて、両端には、黒い人形と白い人形が座っており、その前にマイクが置かれている。

実際には、複数のスピーカがテーブルの下に設置され、二人が意味不明の言葉のような音を発しているのだが、これは、明らかに現代音楽のミニマル・ミュージックの影響を受けている。二人の発する音が似ていて、少しずつずれて、もわれのような現象を起こすのである。

それが不思議な感覚を呼び起こす。

ナン・ゴールディンの《性的依存のバラード》1979ー1995年。684点の画像によるスライド・プロジェクション、サウンドトラック。いかにも現代のアメリカの性を剥き出しに、生々しく想起させるイメージが、テーマごとに、音楽にのって繰り出される。テーマは、ドラッグであったり、売春であったり、同性愛、エイズ、死であったりする。音楽は、ポップスであったり、イタリアのカンツォーネであったりするので、作者のテーマへの思いが伝わりやすい。

20世紀の芸術は、テーマが複雑なものが多いので、せめて作者のある種の視点、こだわりが、読み取れるように構成されていないと、単に思いつきだけとか、独りよがりのようにも受け取れてしまう危険がある。

映像が次々に繰り出されると、一枚では舌足らずな場合でも、連続するイメージによって、こちらの心に多面体が形成されて、何となく、伝わるものがある。何となく、というといい加減のようだが、おそらく作者もそれを単一に限定しようとは願っておらず、受け手によって、異なることを望んでいるのではないだろうか。

音の無いもので面白かったもの。

アレッサンドロ・メンディーニの《小さなカテドラル》。高さ5メートルほどの小さな聖堂である。モザイク調。意味不明あるいは難解風なものが多いなかで、明らかに教会にしか見えない建物を造っているところが、面白い。インスタレーションしてもイタリア人は、きわめて保守的なのだなあ、と感心した。

メンディーニのもう一つの作品《プルーストの安楽椅子》も誰がどこから見ても椅子である。大きさは3メートルで、通常の椅子としては巨大であるが。

松井えり菜の《えびちり大好き!》は、楽しい作品であった。158×126,5cmのカンヴァスに目をつむって、えびちりにうっとりとする、ほとんど醜いとも言えるデフォルメされた、しかし恍惚とした表情の巨大な顔が描かれている。聖人にかかっている光輪のように、光る文字の輪が頭上にかかっている。「こんにちは、まつい えりなです。いちがつようかうまれのえーがたです。えびちりだいすき!なおかやまけ」(作者は岡山県出身)と書いてある。ユーモアと造形力に富み、しかも西洋美術の古典を踏まえているところがニクイ。

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ヴァティカン、Cpt の状態に抗議

Cpt

トリノのCPT

Photo_23 ランペドゥーサのCPT

ヴァティカンは、イタリアの不法移民の臨時滞在センター(Cpt、Centri di permanenza temporanea) の状態が牢獄のようだと抗議した。

抗議したのは、ヴァティカンの「正義と平和」評議会議長のレナート・マルティーノ枢機卿。人権が踏みにじられているとしている。

イタリアには、Cpt が14ある。バーリ、ボローニャ、ブリンディシ、カルタニッセッタ、クロトーネ、グラディスカ、ラメンツィア・テルメ、ランペドゥーサ、ミラーノ、モデナ、ラグーサ、ローマ、トリーノ、トラーパニである。

こういった施設には、密入国しようとした者たちと、国外追放となる者たちが収容されている。

この施設が公式に出来たのは、1998年、第一次プローディ内閣の時であった。当時は Cpta と最後にAがついていた。Centri di permanenza temporanei e di assistenza であったのだが、一般名称としては Cptとなり、現在では、正式名からも消えている。

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減少する男性教員

Gfioroni フィオローニ教育大臣

イタリアで男性教員が減り続けている(コリエレ・デッラ・セーラ、6月16日)。

2001年と今日の比較がある。

小学校での男性教員の比率:
5 %   2001年
4,35% 今日

中学校での男性教員の比率:
26%   2001年
23,49% 今日

高校での男性教員の比率:
42%   2001年
39,72%  今日

ちなみに幼稚園では、男性教員は0,5%。ほとんどいない。

教員全体でみると、男性の比率は、
21%  2001年
19,7% 今日

である。

ジュゼッペ・フィオローニ教育大臣も、教員の世界は、女性の割り当て(quote rosa) が不必要な唯一のセクターだと述べている。

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パスコリの秘密の生涯

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イタリアの詩人ジョヴァンニ・パスコリの生涯の秘密を暴いた本が出版された(コリエレ・デッラ・セーラ、6月17日)。

パスコリは、ロマーニャ地方のサン・マウロで1855年に生まれ、1912年にボローニャで亡くなったが、イタリア人なら誰もが知る非常に有名な詩人である。1867年、父が何者かに殺され、翌年、母も亡くなる。1885年以来、妹のイーダおよびマリアと暮らすが、1895年からは、マリアとのみ暮らした。

この妹二人との関係に焦点をあてたのが、精神科医アンドレオリの書いた『パスコリ家の秘密』(Bur, 9,20 ユーロ)である。

ジョヴァンニは、イーダと肉体関係を持ち、その後、その愛を失い、肝硬変で56歳で亡くなるまで、大酒飲みになったのではないか、というのがアンドレオリの説である。

すべては、1867年の8月10日に始まる。チェゼーナからサンマウロに帰る道すがら、ジョヴァンニの父ルッジェーロは一発の銃弾に倒れる。犯人は逮捕されなかった。

この時、パスコリは、11歳(記事には13歳とあるけれども、パスコリは、1855年12月31日生まれなので、11歳8ヶ月。イタリア風に繰り上げたとしても12歳である)。この事件は、深い《トラウマ》となった。

著者の見立てはこうだ。ここで、ジョヴァンニは父の役目を引き受け、オイディプス的に母親との緊密な関係を持つ。

ところがそこへ、もう一つの不幸が待ち伏せていた。一年ちょっとで、母も亡くなり、家庭は崩壊の危機を迎える。

当時のパスコリにとっては、家族を結合させることは固定観念と化していて、それはマッサの家で1885年からイーダ、マリアと暮らすことで実現した。

この時、パスコリは27歳(またしてもこの年齢は疑問だが、省略)、イーダは19歳、マリアは17歳である。ジョヴァンニはリチェオ(高校)で教師をつとめ、家族を養う。

イーダは、一人前の女性で、豊かな身体をしていた。実際的なことが得意で、家のことは彼女がとりしきった。マリアは小柄で、中性的で、夢見がちで、知的だった。〈ヒステリック〉な傾向もあった。

この再生された〈巣〉、ここで暮らした1885年から1895年がパスコリにとって最も幸せな時期だったことは間違いない。

しかしこの静けさの中に不穏さが忍び寄る。イーダは、「ジョヴァンニにとって、成熟した女性を意味し、無意識による変容によって、母を表わすものとなった。肉体的な愛の対象ともなった」。

アンドレオリは、手紙や詩の断片を傍証として引いている。それは強力な証拠ではないが、そう解釈することも可能なものである。

やがて、三人の間に疑いが生まれる。マリアは、ヒステリックなところがあったが、兄ー父であるジョヴァンニと、姉ー母であるイーダが、過剰な親密さを持たぬように警戒しはじめる。

「悲惨な年」1895年がやってきて、すべては崩壊する。アンドレオリは決定的証拠はあげないが、ジョヴァンニとイーダの関係が肉体的なものになったとする。マリアは現場をおそい、恥じ入らせる。

あいまいな関係は、続けることが不可能となり、耐え難い状況をきっぱりと絶つことが決定された。即ち、イーダは結婚させられ、ジョヴァンニにとっては地獄の門が開いた。

愛の対象を喪失した感覚は、アルコールによって埋められた。アンドレオリによれば、それは、計画的な「自殺」にも等しいという。

自然や花をうたう Myricae のパスコリの他に、宇宙の「無限の闇」を歌うパスコリがいることを忘れてはなるまい。

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2006年6月21日 (水)

チャンピ前大統領、国民投票にはNOと投票

Ciampi

チャンピ前大統領は、6月25日、26日に実施される国民投票で No を投じることを明らかにした(コリエレ・デッラ・セーラ、6月17日)。

大統領職を去ってから、はじめて政治的意向を明らかにした。

チャンピ前大統領のこの発言は、その前日に、北部同盟のボッシが、国民投票で賛成票が勝たなかった場合には、民主的手段が尽きたことになるので、それ以外の方法により分離を獲得するまでだ、という脅迫まがいの発言があったのを受けてのもの。

チャンピは、以前から、共和国憲法を聖典(bibbia laica)のように大切に思う護憲派である。

中道右派は、もう前大統領は、イタリア人全体のではなく、イタリア人半数の大統領だ、などの激しい非難を浴びせている。

しかしながら、元大統領のフランチェスカ・コッシーガも国民投票で No を投じることを明らかにしている。

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ロッシ、復活!

Rossi_capirossi カピロッシ、ヘイデン、ロッシ(イタリアGP)

Photo_21 多重クラッシュ(カタルニアGP)

バイク・レースの最高峰、モトGPで、今年前半、リタイアなど不調だったロッシが、復活した(この項、日本テレビおよびコリエレ・デッラ・セーラ6月5日)。

モトGPで、年間優勝を5回果たしている王者ヴァレンティーノ・ロッシ。しかし、これまでのところ、第6戦のイタリア・グランプリを終了した時点での順位は、

1位 カピロッシ 99点
2位 ヘイデン  99点
3位 メランドリ  89点
4位 ペドロサ  86点
5位 ロッシ   65点

と例年では、まったく考えられない5位に甘んじている。

とはいうものの、6月4日のイタリア・グランプリで、カピロッシと何度も抜きつ抜かれつの激闘の末に、久々の勝利をおさめた。

つづく第7戦は、カタルニアGPで、6月18日(日曜日)。ロッシはここで初のポールポジションをとる。ところがスタート直後、大クラッシュが発生し、6台がその犠牲となった。カピロッシ、メランドリ、ジベルナウといった有力選手がリタイアしてしまった。

そこで、再スタートとなったが、また不具合があり、三回目のスタート。その後も次々と転倒者が続出した。

ロッシは再スタートこそ、遅れたものの、その後、徐々に順位をあげ、一位でフィニッシュを迎えた。

この結果、第7戦終了時には、

1位 ヘイデン 119点
2位 カピロッシ 99点
3位 ロッシ    90点

となり、ロッシは総合点で三位に浮上した。

次回、第8戦オランダGPは、24日(土曜日)である(通常は日曜日)。日本テレビがモトGPを放映してくれるのはありがたいが、試合日と放映日の関係がこの頃一定しないので、テレビでご覧になる方は、注意が必要です。

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2006年6月20日 (火)

ヴィットリオ・エマヌエーレの半生

Vittorio_emanuele

このたびポテンツァで逮捕されたサヴォイア家のヴィットリオ・エマヌエーレは、これまでの半生も平坦ではなかった(コリエレ・デッラ・セーラ、6月17日)。

彼の本名は、ヴィットリオ・エマヌエーレ・アルベルト・カルロ・テオドーロ・ウンベルト・ボニファーチョ・アメデオ・ダミアーノ・ベルナルディーノ・ジェンナーロ・マリーア。しかし、長年、家族は、トトと呼んでいる。

ヴィットリオ・エマヌエーレの言行に問題があったのは今日に始まったことではない。戦前の人種法について尋ねられたとき、「そんなにひどいものではなかった」と答え、弁護士にそんなことを言っているとイタリアへ帰還できる日が遠のくと忠告されるまで、言い張ったのであった。

また、1978年8月17日、彼の船から発砲された弾がドイツ人青年 Dirk Hamer にあたり死に至らしめた。結局このとき、ヴィットリオ・エマヌエーレは、いったんは、パリで逮捕されたものの無罪となった。しかしその時の言葉も不適切で、「フランスの裁判官たちは、私は何もしなかった、いや何も生じなかったことを確定したのだ」と言った。

彼が、住んでいたクィリナーレ宮、ついで生誕の地ナポリを離れ亡命生活に入ったのは、8歳の時だった。彼は1937年2月12日ナポリ生まれなのである。

彼はマリーナ・ドリアと結婚した時、まずラス・ヴェガスで、そして次にはテヘランでお祝いをした。彼が暮らしていたスイスでパーレヴィ元国王と交際があったからである。

スイスでは、ヘリコプター売買の仲介をしていた。

また、イタリアのフリーメイソンの有名なグループ P2にもメンバーとして登録されていた。

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2006年6月19日 (月)

プローディ、メルケル、株式市場の統合に合意

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プローディ首相は、ベルリンでメルケル首相と会談し、ヨーロッパの株式市場を統合する方向性で合意した(コリエレ・デッラ・セーラ、6月15日)。

今のところ、はっきりと見通しが立っているのは、フランスの Euronext とニューヨークの株式市場の統合だけである。

しかしプローディ、メルケル両首相は、ヨーロッパの金融市場を強化の戦略については合意したのである。また、フランスの Euronext とドイツの市場の関係についても理解をしめした。

イタリアのミラノの株式市場はどうするのかは、これからフランスの Euronext の代表ジャン=フランソワ・テオドールからの申し出を待つ。

メルケルが、イタリア戦を一緒に見るため、是非もう一度ドイツにお越しくださいと誘ったところ、プローディは、イタリア対ドイツの決勝戦を見に来ます、と答えたそうである。

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ヴィットリオ・エマヌエーレ逮捕

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サヴォイア家のヴィットリオ・エマヌエーレが逮捕された(この項、Corriere.it)。

容疑は、賭博や売春に絡むものである。違法なスロット・マシーンや売春における搾取が問題になっている。

この件には、少なくとも17人が関わっており、そのうち7人は逮捕され、6人は自宅拘禁となった。

自宅拘禁となった者のなかに、国民同盟の党首ジャン・フランコ・フィーニのスポークスマン、サルヴァトーレ・ソッティーレがいた。フィーニは、ウッドコック判事があまりに空想力に富んだ捜査をする人だとして、ソッティーレを擁護している。

ヴィットリオ・エマヌエーレはイタリア最後の王ウンベルトの息子である。

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王位後継者を望まなかったウンベルト

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イタリア最後の王ウンベルト2世は、王位後継者を望んでいなかったと、王家の歴史家が証言した(コリエレ・デッラ・セーラ、6月14日)。

今から60年前の1946年の6月2日、イタリアは国民投票により共和制を選択し、6月13日、ウンベルト王は、亡命した。

その時点では、ウンベルト王は退位せず(この後も退位しなかった)、まだ共和国暫定大統領も就任していなかった。エンリーコ・デ・ニコラが暫定国家元首に選ばれるのは、同年、6月28日である。

この権力の空白時期、首相はキリスト教民主党のデ・ガスペリであり、国家元首の役割は、デ・ガスペリが果たしていたとされるのであるが、政府がデ・ガスペリにその役割を負わせたことを示す政令は、公布されなかった。

それだけでなく、ウンベルト2世をめぐる論争は今も消えていない。サヴォイア家の歴史家アルド・モーラと後継者ヴィットリオ・エマヌエーレの対立である。

ヴィットリオ・エマヌエーレは自分がウンベルト王の後継者であると主張しているが、今年の6月12日、モーラは、ウンベルト王の娘、マリア・ガブリエッラとともに、公式談話でそれを否定した。

モーラによると、1983年、ウンベルト2世は、死の床で、遺言として、王の私設秘書のマリア・ルイーザ・ラッビアに、国璽をお棺の中に、王の遺体のわきに収めるよう依頼した。明らかに、王朝の終焉を告げる意志を示したものだった。

動機も明らかで、ウンベルト王は、ヴィットリオ・エマヌエーレの結婚を認めていなかったのである。相手マリーナ・リコルフィ・ドリアが「ブルジョワ」の出であり、彼の同意を得ていなかったからだった。

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2006年6月18日 (日)

減税の是非

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Cgil(イタリア労働総同盟)の書記長グリエルモ・エピファーニが、労働者への減税に保留の姿勢を示した(コリエレ・デッラ・セーラ、6月14日)。

プローディ政権は、総選挙の公約として, Cuneo fiscale (税金+社会保障分担金)を5ポイント下げるとしていた。

そのために必要な金額は、100億ユーロというのが政府の試算である。

エピファーニ書記長は、Cgil の週刊誌 Rassegna sindacale へのインタビューで、減税に待ったをかけた。むしろ5ポイントより小さい方がよいのではないかというのがエピファーニの立場。

これは Confindustria (イタリア産業総連盟)の立場とは衝突する。Confindustria は全業種にわたって、5ポイントの削減を要求しているからだ。

cuneo fiscale に関して、エピファーニは、選択的に実施してもよいのではないかという意見。

また、cuneo fiscale を大幅にカットすることは、Inps(Istituto Nazionale Previdenza Sociale 全国社会保障保険公社)に行くお金を減額することになり、将来の年金が減ることになるので、これも問題だとしている。

またこの措置を、企業と労働者でどのような配分で受益するかも争点となっている。Confindustria は企業が3分の2を得るべきだといい、労働組合は、半々にするべきだと主張している。

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ミンモ・イョーディチェ写真展

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「ミンモ・イョーディチェ写真展ー地中海の神話」を見た(九段下、イタリア文化会館、6月25日まで、入場無料)。

新しくなったイタリア文化会館に行って、イョーディチェの写真を見た。文化会館は、外観が鮮やかな赤で、それが赤すぎるかどうかが議論になっているのを、以前に新聞などで見た。

自分の眼でも確かめようと見たわけだが、僕個人としては、意外に落ち着いた赤だな、という印象である。色彩観は個人差があるし、また、時代によっても好まれる色が変わったりするだろう。

イョーディチェ展は、40点ほどの白黒写真が一階に展示されていた。被写体が、神話的なもので、まさに「地中海の神話」というタイトルにふさわしい内容である。

それをライティングや、被写体の一部分だけが止まっていて、まわりには動きを出したりしていて、その彫像、遺跡が眼に飛び込んでくる感じである。

あたかも、その彫像や、遺跡の発見に立ち会っているかのような感覚を一瞬もつ。白黒であることも、時間を超越した感覚に一役かっているだろう。

古代彫刻のまなざしと向き合っていると、こういう写真になるのだろうか。写真家の技巧うんぬんの前に、被写体の存在感の強さにうたれる。

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イタリア対アメリカ、引き分け

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デ・ロッシの肘打ち(左)

ジラルディーノのヘディング・シュート(右)

ワールドカップ、イタリアの第二戦目対戦相手はアメリカで、3人の退場者を出し、1対1の引き分けだった(この項、Corriere.it と NHK-BS)。

最初の得点はイタリア。ピルロのキックを受け、ゴール前でジラルディーノがヘディング・シュート。

しかしこの後、ザッカルドがオウン・ゴール(autogol)。その直後、あせりが出たか、デ・ロッシが相手方の顔面に肘打ちをくらわせて、レッド・カードで退場。

さらにこの後、アメリカのマストロエーニがレッド・カードで退場。

後半にはいって、アメリカのポープが二度目のイエロー・カードでレッド・カードとなり退場。後半戦は、10人対9人での試合となった。しかしイタリアは人数面での有利さを生かすことができず、ザッカルドに代えてデル・ピエーロ、トーニに代えてイアクィンタを投入したが、追加点を得ることが出来なかった。

これでイタリアの勝ち点は4(得失点差 2)
    チェコ        3(       1)
    ガーナ        3(       0)
    アメリカ        1(     -3) となった。

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クローチェ、ジェンティーレの禁書目録入り

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クローチェとジェンティーレが禁書目録入りしたいきさつを歴史家グイド・ヴェルッチが著わした(コリエレ・デッラ・セーラ、6月13日)。

ベネデット・クローチェ(1866-1952)とジョヴァンニ・ジェンティーレ(1875-1944)は、イタリアを代表する観念論哲学者であるが、歴史家グイド・ヴェルッチが『禁書目録入りした観念論者』(ラ・テルツァ、38ユーロ)でその経緯を著わした。

そもそも20世紀の初頭、イタリアの世俗的(教会寄りでない)知識人たちは、イタリアを何世紀にも渡るカトリック文化のくびきから解放しようと試みていたが、その試みは逆説的なことに、観念論者によって弱体化されていた。

クローチェやジェンティーレは、彼らの嫌う実証主義者の信条よりは、彼らの信条そのものではないとはいえ、カトリック教会を好むことを表明していた。

クローチェは、ヴァティカンがモダルニスモ(科学的進歩と信仰を調和させようという運動)を抑圧したことに喝采していたし、ジェンティーレは、小学校においては宗教教育を義務化するよう求めていた。

15年後の1923年、ジェンティーレはムッソリーニ政権のもとで公教育大臣となり、小学校に宗教教育を導入する。一連のジェンティーレ改革が実施されたのである。1921年に Universita' Cattolica del Sacro Cuore を設立したアゴスティーノ・ジェメッリ神父は、これを歓迎したが、イエズス会などでは、世俗主義のにおいがするといって警戒していたらしい。

教会の側は、中学校段階での宗教教育の義務化を要求し、それは1929年のコンコルダート成立によって実現した。 

教会側の人間として、観念論哲学者を禁書目録に入れようとしたのは、このジェメッリ神父と、エウジェニオ・パチェッリ国務大臣・枢機卿であった。1932年、将来ピオ12世となるパチェッリは、クローチェを非難する。出版されたばかりのクローチェの『19世紀のヨーロッパ史』が問題視された。ここで、クローチェは、人間の自由こそが真の宗教だという意味のことを言ったのである。

ジェメッリ神父とパチェッリ枢機卿は、1934年7月に、クローチェ、ジェンティーレの全著作を禁書目録に入れるよう聖庁内で働きかけ、それに成功した。

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2006年6月17日 (土)

サッカー疑惑、マルテッリーノに捜査

Martellino イタリアのサッカー疑惑は、サッカー連盟の判事であるマルテッリーノにも捜査がおよぶことが明らかになった(コリエレ・デッラ・セーラ、6月13日)。

チェーザレ・マルテッリーノは、Caf (Commissione di appello federale) というスポーツ関係での訴えを受理する機関の会長である。イタリア・サッカー連盟(Figc)もそのもとにある。

Caf には、二人の会長がいて、第一の会長が、マルテッリーノで、第二部門の会長はエットレ・トッリ。副会長がそれぞれ二人ずつついている。

マルテッリーノにかかっている容疑はどんなものかというと、話は1年半前に遡る。ユヴェントゥスの若い外人選手、ゼイチュラエフとブディアンスキの移籍に関わる話である。

彼らは2001年に5年契約をしたのだが、その時点では未成年だったので、3年までの契約しか出来ないはずであった。二人は、それを根拠にウディネーゼに移籍しようとしたのだが、ユヴェントゥスが Caf に提訴したのである。その結果、2004年12月13日に、ユヴェントゥスは2006年までの契約の有効性を確保した。

こうしたユヴェントゥスに有利な判定を下すに際して、マルテッリーノにどんな圧力がかかったのか、またマルテッリーノとモッジ(ユヴェントゥスの総監督)の間で交わされた電話の内容が問題になっている。

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祈りとミサと政治的影響力

イタリア人の約8割は、頻度は様々であるが、お祈りをしていることが調査で判った(コリエレ・デッラ・セーラ、6月13日)。

調査対象は1000人、2006年5月実施されたもの。

毎日、一度あるいはそれ以上祈る 34%
少なくとも一週間に一度祈る     24%
少なくとも一月に一度祈る      9%
一年に何度か祈る          16%
全然祈らない             17%

また、毎週日曜日にミサに行くと答えた人の調査は次の通り。(1956年は1893人が対象、2006年は800人が対象で、2006年4月実施)。

1956年  69%
1996年  32%
2006年  27%

イタリア人で規則的にミサに行く人は減っている。1950年代には、過半数であったものが、今日では27%で、約4分の1に近づいている。

この傾向は、政治の大変化が起こった時期に生じている。かつては、教会は、直接的に影響力を行使した。「カトリックの政党」、キリスト教民主党(DC)を通じてである。

やがて、カトリック世界へ帰属意識を持つ者の数が低下し、キリスト教民主党が危機を迎え、教会は戦略を変えた。

介入の形をより間接的にし、投票でここを選びなさいという形ではなく、さまざまな政治勢力を横断して、テーマごとに影響力を行使したりしている。

近年では、第三段階に入ったという。教会は、特に倫理的問題には、明快な態度を取るようになった。人工授精やモーニング・アフター・ピルなど。

昔は、家族や生殖の問題は、教会の専権事項と考えられていたが、近年では他の勢力も発言するようになった。その一方で、教会は、他の分野にも影響力を行使し始めた、と政治学者のイルヴォ・ディアマンティは考えているようだ。

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2006年6月16日 (金)

イタリア最初のフェミニスト

Smorelli

イタリア最初のフェミニスト、サルヴァトーレ・モレッリについて、セルジョ・ロマーノが紹介している(コリエレ・デッラ・セーラ、6月12日)。

モレッリについては、セルジョ・ロマーノも知らなかったと告白している。

モレッリは、1824年にプーリア州に生まれ、1840年法学を学ぶためナポリに上京する。そこで、マッツィーニ派の若者を知り、「青年イタリア党」に入党する。

1848年2月ブルボン朝のフェルディナンド2世が自由主義に転じるだろうと、モレッリは信じるが、やがて王は7月には議会を停止し、翌年には議会を閉鎖してしまう。

モレッリは、憤慨して、王の肖像画を故郷の広場で焼き捨てたーーそれは当時は犯罪であった。

彼は懲役8年を言い渡され、イスキア島の要塞、ヴェントテーネ島などに幽閉される。

イタリア王国が出来ると、レッチェで新聞を創刊する。そのころ、『女性と学問』を執筆。

1867年下院議員となる。マッツィーニ派で、進歩主義者で、社会改良に積極的に取り組んだ。

彼の法案は、すべて冷たく受け止められたが、彼が熱心だったのは、火葬および墓地の閉鎖、教育改革と宗教教育の廃止、家族の権利の改革ー夫と妻の権利の平等、離婚、嫡出子と婚外子の差別の撤廃ーであった。

彼の提出した女性に関する法案には次のような条項があった。

第一条 女性のアイデンティティが、タイプや能力において男性と同等であることを認め、民法や政治的権利において男性と同じ扱いをうけること。

第三条 女性の権利を制限するすべての法律や付則による規制を撤廃すること。

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セボルガ「公国」の内紛?

Seborga Luigino Giorgio_1 セボルガの全景

セボルガの通貨、ルイジーノ

セボルガの君主ジョルジョ1世(左)と、外務大臣(右)

イタリアの西端に位置するセボルガ公国の公女が、領土をイタリアに献上したいと申し出た(コリエレ・デッラ・セーラ、6月12日)。

セボルガ公国が位置するのは、リグーリアの西端で、フランス国境に近い。ここを統治するジョルジョ1世は、元花卉栽培者で、1963年にセボルガの統治者に選ばれた。

ところが、当地の公女ヤスミーネ・フォン・ホエンシュタウフェンは、あのフェデリーコ2世の子孫であると主張し、セボルガの領有権を主張してきた。

彼女は、イタリア共和国大統領のジョルジョ・ナポリターノに手紙を書き、セボルガの領有権を簒奪者(ジョルジョ1世のことだと思われる)に主張させぬことを条件に、セボルガをイタリアに献上したいと申し出た。

しかしセボルガは同意していない。「あの女性は、自分のものでないものを誰にも差し出すことは出来ないのです」とジョルジョ1世。

ジョルジョ1世は、後継者を捜している。少し疲れたのだという。

セボルガ公国の側では、セボルガが1748年に、シトー派修道会からヴィットリオ・アメデオ2世に売り渡された際に、サルデーニャ王国やサヴォイア家に登録されていないし、サルデーニャ王国がイタリアを統一した際にも、セボルガの名は出てこないので、セボルガはイタリアではない、と主張している。

セボルガという名前は、Sepulcri Burgum が縮まって、Seburgumとなり、さらに Seborga となったらしい。ここには聖杯などの聖遺物があると言われている。

ホウエンシュタウフェン家の人は、聖遺物、聖十字架の破片を所有していると述べている。

セボルガをめぐるジョルジョ1世と公女の争いは、公国の「再生」により、観光客が増えたことで、しばらくはおさまっていた。

公国は、ルイジーノという通貨を発行し、切手を売り、国旗やナンバープレートまである。

イギリス人はセボルガが好きで、BBCはジョルジョ1世にインタビューをし、タイムズ紙は、退位の意向を報道した。

セボルガは、人口が362人(320人とする説もある)の小さな集落なのである。イタリア共和国の側は、セボルガを一つのコムーネ(市町村)と考えている。

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2006年6月15日 (木)

スローフード、20周年

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サンレモでスローフード運動20周年を記念した行事が催された(コリエレ・デッラ・セーラ、6月12日)。

この催しには、元農業大臣のジャンニ・アレマンノ、左翼民主(党)のピエロ・ファッシーノら、著名人が参加していた。

創設者のカルリン・ペトリーニによれば、「われわれは、ほとんど冗談で始めたんだ。それがだんだん、食文化の運動として認められるようになり、文化、経済、政治の中心にまで来たんだ」。

20年間の戦いであり、たとえば遺伝子組み換え食品に反対してきた。

サンレモでは、「学校に菜園を」というプロジェクトを打ち出した。教師、両親、祖父母をまきこむ運動である。基本は、学校における食材教育。

土地、種、実から学び、最後に、自覚を持った消費がくる。

カルリンは、会長職をロベルト・ブルデーゼに譲り、鋤を贈られた。

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脳死女性、78日後に出産

Ospedale_niguarda ミラノのニグァルダ病院

ミラノで、脳死状態となってから78日後の女性が出産した(コリエレ・デッラ・セーラ、6月11日)。

出産したのは、クリスティーナという38歳のエステティシャンで、脳の動脈瘤破裂で妊娠17週目で脳死状態となった。
妊娠4ヶ月目で、去る3月24日のことであった。

クリスティーナの妊娠は、脳死から78日間延長された。10日の朝方、母体の血圧低下、胎児の徐脈が見られたため、帝王切開が決定され、クリスティーナ・ニコレが生まれた。

赤ん坊の体重は713グラムで、新生児集中治療室に入った。

出産の後、法で定められた時間が経過したあと、臓器は移植された。両親が臓器提供に同意していた。

脳死女性からの出産は、世界で11例目とのこと。

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2006年6月14日 (水)

102人の閣僚たち

プローディ内閣は、政務次官までいれると102人で、イタリアの内閣史上、最多となった(コリエレ・デッラ・セーラ、6月10日)。

これまでの最高は、1991年4月に成立した第7次(!)アンドレオッティ内閣の101人。

プローディ内閣は、1人の首相、2人の副首相、24人の大臣、9人の副大臣、68人の政務次官からなる。

イタリアが成立したばかりのカヴール内閣は、7人の大臣がいただけだった。

戦後最初のデ・ガスぺリ内閣には、18人の大臣と42人の政務次官がいた。

ベルルスコーニ内閣は、98人であった。

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プロザック、ヨーロッパでも解禁

Prozac

抗鬱剤のプロザックがヨーロッパでも、子供に用いることが解禁となった(コリエレ・デッラ・セーラ、6月9日)。

これを認めたのは、L'agenzia europea dei farmaci(Emea, ヨーロッパ医薬品審査庁)。 アメリカのFDA(Food and drug administration) に相当するもの。Euで、中程度または重度の鬱病の8歳以上の子供に、プロザックを用いることを認めたのである。

ただし、これは心理療法が効果がなかった場合の、第二の選択肢としてのみ認められたものである。

プロザイックは、いわゆる Srri (inibitori selettivi della ricaptazione della serotonina, 選択的セロトニン再吸収阻害物質)の一種で、物質名は塩酸フルオキセチン(fluoxetina, プロザイックの化学物質名)で、大人にはすでに処方されている。

今回の措置は、8歳以上の子供にも処方できるようになった点が新しい。専門家は、「必要性がないのに、処方される危険性がある」と警告している。

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2006年6月13日 (火)

ヴァティカン、Pacs と人工授精は、神の衰亡

ヴァティカンの家族のための評議会の出した論文が、事実婚や人工授精を神の衰亡であると強く非難した(コリエレ・デッラ・セーラ、6月6日)。

論文のタイトルは、「家族と人間の生殖」。筆者は、コロンビアのアルフォンソ・ロペス枢機卿。

この中で、現代の家庭に対する攻撃(事実婚、人工授精、中絶)を、 ‘eclissi di Dio'(ecilissi は月食、日食の食。よって、文字通りには、神の食、神のお隠れになった状態)であるとして、激しく非難している。

また、片親家庭、再構成された家庭、ホモセクシュアル、レスビアンの家庭は、家庭のモデルとして認めない。

生殖に関しては、受精卵のあらゆる操作、選択や、その冷凍保存もそれが廃棄され死がもたらされる可能性があるとして認めていない。

中絶に関してもおぞましい犯罪であるとし、犯罪が罰せられないのは考えられないとしている。

性教育に対しては警戒心を持ち、純潔の教えをないがしろにする動きには重々警戒することが望ましいとのこと。

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ゼッフィレッリ、同性婚に反対

Zeffirelli フランコ・ゼッフィレッリは、コリエレ・デッラ・セーラ紙のインタビューに答え、同性婚に反対の立場を明らかにした(コリエレ・デッラ・セーラ、6月7日)。

ゼッフィレッリは、大勢のゲイの友人がおり、彼らが同棲しているケースも知っているが、それを合法化したりするのは、滑稽で、受け入れがたいと述べた。

また、同性カップルが養子をとるのには大反対。むしろ、伝統的な家族をサポートすべきだという。

ゼッフィレッリは83歳。映画監督であり、オペラの演出家でもある。

彼の場合、2人の人物を養子にしている。要するに相続権があるかわり、病気などの際には、世話をしてもらっている。1人は40歳、もう1人は46歳。養子にしたのは、5,6年前である。

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イタリア、ガーナに2対0

Pirlox180x140 ピルロのミドルシュート

ワールドカップ、イタリアは初戦をガーナと戦い2対0で勝ち、良い出だしとなった(この項、corriere.it およびBS1)。

ガーナの選手は、運動能力が高く、よく走り、イタリアはなかなか一点がとれなかった。何度も、コーナーキックのチャンスがあったが決め手を欠いた。

ようやく、ピルロのミドルシュートが決まり、一点を獲得。さらに、イアキンタが追加点をあげ、勝利を確実なものとした。

気がかりな点は、トッティが荒いプレーをうけ、怪我をし、途中退場したこと。骨折をして治ったばかりなので、不安材料であるが、トッティ自身は現在の自分は、70%の仕上がり具合と述べている。怪我も膝下に打撲傷をおっただけで心配ないとのこと。

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ヨハネ・パオロ1世、テレビドラマ化

Papa_luciani Papaluciani_trama_02_1 ヨハネ・パオロ一世(左)

ネーリ・マルコレ演ずるヨハネ・パオロ1世(右)

ヨハネ・パオロ一世の生涯が、Rai でテレビドラマ化される(コリエレ・デッラ・セーラ、6月6日)。

番組名は、《Papa Luciani. Il sorriso di Dio》(ルチャーニ教皇ー神の微笑み)。

アルビーノ・ルチャーニが教皇ヨハネ・パオロ1世になる前、ヴェネツィアの総大司教だったとき、ファーティマに信者とともに巡礼をした。

聖母マリアの出現を見たという三人の羊飼いたちの唯一の生き残り修道女ルチーアと面会すると、彼女は、ルチャーニ総大司教を見るなり Santo Padre (教皇への呼びかけ)と彼を呼んだ。総大司教はうろたえた。

アルビーノ・ルチャーニは1978年教皇に選出されるが、わずか33日で、突然亡くなる。心臓病と言われたが、政治的犯罪の可能性も疑われている。

というのも、ヨハネ・パオロ一世は、ヴァティカンの財政(当時、マルチンクス大司教にゆだねられていた)の根本的な見直しを考えていたからだ。

真相は謎につつまれたままである。

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2006年6月12日 (月)

閣僚の合宿

San_martino_in_campo ロマーノ・プローディ首相を筆頭に大臣たちが、ウンブリアの17世紀のヴィッラで合宿を行った(コリエレ・デッラ・セーラ、6月5日)。

合宿が行われたのは、ウンブリア州ペルージャ近郊のサン・マルティーノ・イン・カンポ。ドニーニ伯爵の17世紀のヴィッラに集まった。合宿は、コンクラーヴェとか ritiro (静修)といった宗教用語を使って語られているのが興味深い。

中道左派のメンバーが、合宿をするのはこれが初めてではなく、1997年と2000年には、アレッツォ郊外のガルゴンザで合宿をした。

プローディ内閣の閣僚たちは、様々な政党からの寄せ集めである。プローディ首相は、そのことを意識したうえで、「いったん内閣に入ったからは、行政府の一員であって、他のなにものでもない」ことの自覚を求めた。

また、クリスマスまでには、政策の転換を示さねばならないとした。

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2006年6月11日 (日)

ヴェルディ 《イル・トロヴァトーレ》

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ボローニャ歌劇団引っ越し公演の 《イル・トロヴァトーレ》を観た。

幕が上がる前から大きな月がでていた。登場人物、ルーナ(月)伯爵に言及したもの。

舞台はやや抽象的で、衣装は、時代をずらしていた。赤い軍服で、時代が明らかに19世紀的である。原作では15世紀なので奇異な感じがするが、プログラムによると、演出ポール・カランの意向で、ヴェルディが生きた時代に「移行」したのだという。しかし目的も判らないし効果のほども、不明であった。15世紀風の衣装の方が、魅力的であるように思う。

歌手は、マンリーコがロベルト・アラーニャ。声の性格からするとどうかと思いきや、見事に性格をとらえて歌っていた。ただ、なぜか元気のないマンリーコで、〈見よ、恐ろしい火を〉でも、ずっとうつむいて歌っていた。演出というよりは、何か個人的に苦悩あるいは問題を抱えているのではないか、という気がした。〈見よ、恐ろしい火を〉の最後のハイC(高いド)であるはずの音は、あっさりと短かった。

レオノーラはダニエラ・デッシ。姿も歌も、一流であったが、指揮者のカルロ・リッツィのテンポがところどころ余りにも遅く、フレーズが息切れしているところがあった。叙情的な歌は、さすがという感じできめていた。

指揮者リッツィは楽譜の縦方向をそろえることに気をとられ、ヴェルディ特有のカバレッタで、うきうきとしたり、気分が高揚して天にも昇る気持ちを出すことが出来ない。歌詞にも、天に昇るという意味の言葉がでてきているのだから、めくるめく、ふっと地上から浮遊する感覚を味合わせてもらいたいものだという感想をもった。

また、最近の演奏にはよくあることなのだが、アッチェレランドがほとんどなく、ゆっくりしたテンポから、いきなり早いテンポになる。そうした変わり目が唐突で、オーケストラと歌が合わない部分が何カ所かあった。

ルーナ伯爵は、アルベルト・ガザーレ。アリアは良いのだが、マンリーコ、レオノーラと一緒の三重唱や他の重唱でほとんど声が聞こえないのはいただけなかった。ソットヴォーチェの表情づけをしているのは判るのだが、もう一歩、情熱と気品が欲しいというのは、贅沢すぎる要求だろうか。

アズチェーナのマリアンネ・コルネッティは熱唱。がんがん声が出る人で、演技でも暴れまくっていた。最終章は、なぜか金属製の檻の中だが、動物のように檻につかまってゆすぶっていた。声が十分にドラマティックなのだから、もっと演技をおさえた演出の方がかえって効果的だったのではないか、という気がした。観客も熱唱にこたえ、もっとも拍手が多かった。

フェッランドは、アンドレア・パーピ。この人も声は堂々としているが、ややビブラートが過剰。

《イル・トロヴァトーレ》は、名作であり、DVDでも、マリオ・デル・モナコ、エットレ・バスティアニーニ、レイラ・ジェンチェルの名盤(ただし、画像は古い)をはじめ、CDにもカラヤン指揮のライブ録音、セラフィン指揮のスタジオ録音を含め名盤に事欠かない。つい、厳しい評価になってしまったようだ。

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ファシズム期のホモセクシュアル

La_citta_e_lisola ファシズム期におけるホモセクシュアルについての本が出版された(コリエレ・デッラ・セーラ、6月6日)。

著者は、ジャンフランコ・ゴレッティとトンマーゾ・ジャルトジオで、『都市と島ーーファシズム期イタリアにおける流刑地のホモセクシュアル』(Donzelli, 13,50ユーロ)。

たとえば、カターニャのホモセクシュアルは反ファシズムではなく、大多数は政治を無視し、あるものはファシスト党員であったという。都市部においては、相対的な寛容さを享受していたのだ。

抑圧の大波がやってきたのは、1939年のはじめで、彼らは大量にアドリア海の小島、トレミティ諸島やサン・ドミノ島に流された。

これはほとんど知られていない事件で、著者のゴレッティとジャルトジオは生き生きと描き出している。

島では受け身の役割のホモセクシュアルは、女性風のあだな('a Francisa,  'a Leonessa,  'a Placidina--'a が何を表わすかは、筆者には不明なのでご教示いただければ幸いです)がつけられた。女性役の男 (arrusi) は、正統的変態と考えられていたが、〈男役〉の方は、正式に結婚していることがしばしばあり、社会的非難の対象とはなっていなかった。

統一前のイタリアでは、南イタリアのブルボン朝支配のもとでは、北イタリアのサボイア朝とは異なり、同意があればホモセクシュアルの関係は罰せられなかった。

この相違は、1860年の国家統一以降も、1889年までは存続していた。1889年に、国全体で、処罰の対象からはずされたのである。だから1931年のファシスト法典が出来るまでは、刑罰に処せられなかったのである。

1930年半ばに大転換がおこり、カターニャの警察署長のアルフォンソ・モリーナは容赦なく取り締まり、ついには流刑に処してしまう。

ところが、受け身役のものだけを島流しにしたことで、逆説的な効果が発揮されてしまう。彼らは最初は、自分自身であることを隠す必要がない自由を享受したが、男役がいないので、看守たちを口説きはじめる(成功したものもいる)。

さらには、彼ら同士で口説きはじめ、受動的な立場と能動的な立場の区別が消滅し、大混乱になったという。

彼らは1940年6月、より危険な人間を入れる場所を提供するため、釈放された。

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ナッシリアでイタリア軍、攻撃される

Nassiria ナッシリアのイタリア軍

イタリア軍がナッシリアから約100キロの地点で攻撃を受け、1人が死亡、4人が重軽傷を負った(コリエレ・デッラ・セーラ、6月6日)。

ナッシリアから約100キロのところで、爆弾が爆発し、1人が死亡、4人が重軽傷を負い、そのうち1人は重体。

亡くなったのは、アレッサンドロ・ピビリ、25歳、上級伍長。重体なのは、ルーカ・ダーガ、28歳、上級伍長。他の3人は、生命の危険はない。全員、サッサリ旅団所属で、サルデーニャ出身である。

イタリア軍の隊列は、イギリス軍の物資を輸送する車両の護衛をしていた。ナッシリアの近辺は、数ヶ月前までは、平穏な地域であったが、今年の一月から様変わりした。

4月の攻撃と同様に、道路にしかけられた爆弾が爆発した。

これで、2003年以来、イラクで死亡したイタリア人は、38人。軍人31人、民間人7人である。

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2006年6月10日 (土)

アフリカでのボランティアをめざした銀行家、マラリアに死す

Bellaveglia

投資会社Hopaの会長であったベッラヴェリアは、アフリカへボランティアへ行くことを計画していたが、マラリアに倒れ死亡した(コリエレ・デッラ・セーラ、6月4日)。

ベッラヴェリアはトラジメーノ湖のそばのパッシニャーノ生まれで、シエナの人となりニッキオという地区(コントラーダ)に入り、二人の娘がいた。

1997年、モンテ・デイ・パスキ・ディ・シエナ銀行の理事となった。同銀行の頭取候補にもあがっていたが、Hopaにとどまった。

コンゴに旅行し、関心をもって、学校や農業経営会社などを設立し、さらにその活動を拡張すべく、イタリアで資金集めをしているところだった。

マラリアに倒れた有名人には、他に、自転車競技のチャンピオン、ファウスト・コッピがいる。

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カンナヴァーロとトレゼゲの取り調べ

セリエAのスター選手、カンナヴァーロとトレゼゲが取り調べをうけた(コリエレ・デッラ・セーラ、6月4日)。

カンナヴァーロは、インテルからユーヴェに移籍した。「インテルではうまくやっていた。役職者たちがやってきて、ユヴェントゥスに行くことになった」というのが本人の弁。

トレゼゲに関しては、2002年にアントニオ・カリエンドという代理人からGea(モッジの息子が会長をつとめるマネージメント会社)へ移る際に、さまざまな圧力をうけなかったか、という質問。「僕は全部一人で決めた。というか、父が手助けしてくれた」というのがトレゼゲの弁。

検察は必ずしも、彼らの説明に満足していない。

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2006年6月 9日 (金)

イスラエル・ゾッリの秘密

ユダヤ教徒からカトリックに改宗した元ラビのイスラエル・ゾッリの伝記が出版された(コリエレ・デッラ・セーラ、6月3日)。

『ゾッリ事件ー信仰、文化、民族の間で揺れたインテリの道程』という本で、著者はガブリエーレ・リガーノ。出版社は Guerini e Associati 。

ゾッリは1881年生まれ、ローマの主席のラビであったのだが、カトリックに改宗し、物議をかもした。

ユダヤ人の共同体からは、裏切りととられたが、カトリックの側では、彼が戦争中にヴァティカンがユダヤ人をかくまったことに感謝したため、ピオ12世がナチスのユダヤ人虐殺に対して沈黙を保ったとして非難されるとその反証に用いられたのだった。

こうしたいきさつが、ガブリエーレ・リガーノによって新たな光りを当てられた。今回の著作では、ユダヤ人側の記録書類の利用が許され、きちんとした裏づけがされている。

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2006年6月 8日 (木)

サッカー疑惑をめぐる見解の相違

Adriano_galliani アドリアーノ・ガッリアーニ会長

サッカー疑惑をめぐり、レーガ・カルチョの会長アドリアーノ・ガッリアーニと、新たに捜査の指揮にあたるフランチェスコ・サヴェリオ・ボッレッリの見解は食い違っている(コリエレ・デッラ・セーラ、6月3日)。

ガッリアーニは、モッジ親子を中心としたシステムは、ユーヴェのためだけにあったと主張するが、ボッレッリは、もっと広範囲なシステムで、こうした網の目が、正当なスポーツのメカニズムを覆い尽くしてしまう危険性がある、とした。

マーニ・プリーテと似たところはあるかと問われて、ボッレッリは、「規則に対して、エゴイスティックな利益追求が支配的になってしまったこと」と答えた。

6月半ばには、捜査を終えたいとしている。

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教会に広告

Santantonio_padova

パドヴァのバジリカ・ディ・サンタントニオの修復工事のため、資金を募ったが、そのスポンサーの広告が聖堂内に大きくポスターで飾られていることが問題視されている(コリエレ・デッラ・セーラ、6月1日)。

スポンサーとなったのは、ヴェローナ国民銀行で、9万ユーロを寄進した。

これは諸所の修復、絵画の修復には莫大な金が入り用なので、民間の資金をかき集めたいということらしい。

しかし、神父の中には、当惑を感じているものもいる。コンタリーニ神父は、「広告の世界では、銀行から、ポテトチップスや水着への距離はそう遠くない」と懸念している。

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2006年6月 7日 (水)

高校の改革、中止

前政権の公教育大臣モラッティが政権末期に開始した「実験的改革」は、新大臣のフィオローニによって中止された(コリエレ・デッラ・セーラ、6月1日)。

「実験的改革」は、8種類ある高校(リチェオ)のなかを21のコースに分けるものであった。古典高校、科学高校、言語高校、芸術は3コース、人文科学、経済は5コース、テクノロジーは9コースといった具合。

教員の労働組合はこの措置を「混乱と軋轢」を回避するものとして歓迎している。

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リクッチの隠れた仲間

Ricucci

コリエレ・デッラ・セーラの発行元 Rcs の株式買い占めに関して、ステーファノ・リクッチは、今まで正体のしれなかった仲間について語り始めた(コリエレ・デッラ・セーラ、6月1日)。

一つは、フランスのラガデール・グループ。ただし、彼らは、株式公開買い付けがスタートしてから、参加する予定だったらしい。

もう一人は、ウバルド・リヴォルシで、この人は、1990年代にベルルスコーニのためにメディアセットを創設してやった銀行家である。

リヴォルシも、近いうちに、事情聴取をうける見込みである。リヴォルシによれば、ベルルスコーニをこの件には巻き込むべきではないとのこと。「彼とリクッチはそれほど近い関係のようには思われない」と語った。

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大臣のブログ

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プローディ内閣の女性大臣ランツィッロッティのブログ(http://www.lindalanzillotta.it/)で、内閣についてのアンケートをとったが結果は、「凡庸」や「あまりに党派的」というものが多かった(コリエレ・デッラ・セーラ、6月1日)。

州務大臣リンダ・ランツィッロッティが自らのブログで、プローディ内閣をどう思いますか、というアンケートをとったところ、
凡庸        29%
あまりに党派的 19%
女性が少ない  13%
昨日まではベルルスコーニだったのだから嘆かないでおこう          11%
まあまあ      19%
最高         10%

大臣もこの結果には驚いているが、女性の存在が少ないという点以外は、評価には同意していないとのこと。また、政府に対する評価はすぐに変わると信じている、と述べた(今、7日夜の時点で、このアンケート結果を見ると、「凡庸」という評価は40%にものぼっている)。

プローディは落ち着いたもので、「ブログ参加者は少数で、質は高いかもしれないが、広範な世論を表わしているとは言えない。彼らはつねに大変批判的である」といなした。

他にロジー・ビンディ家庭大臣もブログを持っているが、事実婚に理解を示す発言をしたところ、カトリック系読者から批判が押し寄せたという。

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イタリアの国民投票

イタリアでは、地方分権や上院改革をめぐって、国民投票が6月25,26日に実施される(コリエレ・デッラ・セーラ、6月1日)。

4月の総選挙、5月の地方選挙に続き、6月25日、26日には、憲法改正に関する国民投票が実施される。

この改正案は、中道右派のみの賛成票で可決されたものであり、3分の2以上の賛成がなかったので、国民投票にかけられる。

この場合、法律を廃止するための国民投票とは異なり、50%以上の投票率は必要としない。投票者のなかで、イエス(Si’)が多ければ、すぐに州への権限移譲(devolution) は発効する。

その他の課題、首相の権限拡大や両院の平等性の消滅は2011年を待たねばならないし、連邦上院に関しては、2016年になる。

No が多かった場合、中道左派が2001年に実施した修正憲法が有効のままとなる。

連邦上院となった場合、定員は現在の315名から252名になる。下院は630人から500人へ。終身上院議員の制度は、終身下院議員にとって代わられる。

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2006年6月 6日 (火)

ボンプレッシに恩赦

Bompressi

カラブレージ警視殺人事件で有罪判決を受けていたボンプレッシが大統領から恩赦をうけ、自由の身となった(コリエレ・デッラ・セーラ、6月1日)。

事件の発端は1972年5月17日に遡る。ルイジ・カラブレージ警視が自宅前で二発の銃弾に倒れた。

カラブレージ警視は、フォンターナ事件(ミラノのフォンターナ広場に面した農業銀行爆破事件、多数の死傷者が出た)の容疑者として取調中に、窓から墜落して死亡した無政府主義者ピネッリの死亡に重大な責任があるというキャンペーンで非難されていた。

その後、警察に協力したロベルト・サンダロが、カラブレージ警視殺害は、Lotta continua (闘争は続く)という過激派の犯行であるとした。

Lotta continua は、1969年に結成され、1976年に自己消滅した。

1988年7月28日、ミラノ検事局の命令により、アドリアーノ・ソフリ、ジョルジョ・ピエトロステーファニ、オヴィディオ・ボンプレッシとレオナルド・マリーノが逮捕された。逮捕は、マリーノの自供に基づくもので、その自供によれば、ボンプレッシが殺害の実行犯で、ソフリとピエトロステーファニが、委託者で、彼自身は運転手をしていた。

1990年、ソフリ、ボンプレッシ、ピエトロステーファニは、マリーノとともに有罪判決を受ける。判決は最初に確定し、ついで無効となり、そして再び1995年に確定した(マリーノは時効が成立)。何度も上訴、再審請求がなされたが却下され、2000年に有罪が決定的なものとなった。

ボンプレッシは、19年以上の刑が言い渡され、1997年1月24日にピサの刑務所に収監された。1998年健康上の理由で、釈放された。2000年1月、ヴェネツィアの控訴裁判所は、再審請求を棄却。ボンブレッシは、健康がすぐれなかったが、延期の後、2002年に再び収監され、2月には、再び刑の一時停止を獲得し、2003年には自宅軟禁の措置となった。

2006年5月31日、11時に、法務大臣クレメンテ・マステッラが大統領府へ恩赦を求める手紙および恩赦令を送る。午後4時半、ジョルジョ・ナポリターノ大統領が、ボンプレッシ恩赦令に署名。午後7時、マステッラ大臣が副署。ボンプレッシは、自宅軟禁状態であるが、大統領の決定が公表され次第自由の身となる。

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ドラーギ、経済成長が最優先

Draghi

経済を成長軌道にのせることが最優先課題である、とイタリア中央銀行総裁のマリオ・ドラーギは語った(コリエレ・デッラ・セーラ、6月1日)。

イタリア中央銀行の会合の最終報告で、「成長軌道にもどることが最優先」と語った。

また、国家財政の健全化が必要で、それには国内総生産の2%相当の介入が必要であるとの見解を示した。

年金受給開始の年齢を上げる必要性についても語った。

銀行同士の吸収・合併については、当事者どうしで決め、イタリア中央銀行にあらかじめ届け出るシステムを廃する意向だ。

労働組合Cgil の委員長グリエルモ・エピファーニは、年金に関しては、立場が違うとの見解を表明した。

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2006年6月 5日 (月)

リクッチ、本格的自供始める

銀行株の買い占めなどに関わったステーファノ・リクッチは、逮捕後一ヶ月たち、当局に協力しはじめた(コリエレ・デッラ・セーラ、5月31日)。

リクッチは、昨年5月、コリエレ・デッラ・セーラを発行するRcsの株式を2,013%からはじめて、20%を越えるところまで Magiste International を使って買い占めた。今年の4月18日に、株価操作容疑で逮捕された。

当局に協力したいという意向は、10日ほど前にリクッチは表明したようだ。4月18日に逮捕されたので、一ヶ月を獄中で過ごしたことになる。

何度か、ローマの検察官と面会し、株価操作の疑惑をつきつけられた。しかし、30日になって、ようやく、新たな尋問中に、自らの経済行為についての疑問に答え始めた。

これは、偽装倒産罪を避けるためでもあるが、とりわけ、自宅監禁をかちとるために、秘密を打ち明けたらしい。

5月16日に、弁護人から申し立てられた自宅監禁が、証拠隠滅のおそれありとして、却下された。その時点まで、リクッチは、およそ「説得力に欠ける」説明を繰り返していたし、株買い占めに資金を提供した秘密の仲間の存在も否定していた。

検察官は、リクッチの単独行動ではなく、資金提供者がいるものと見ている。

こうした点に関して、リクッチは自供しはじめたようだ。

また、イタリア国民銀行(Bpi)は、30日、リクッチへの債務の取り立てとして、Rcsの株式14,8%を取得した。リクッチは、Magiste International や Garlsson Real Estate を通じ、Bpiから8億3000万ユーロの融資を受けていたが、返済出来なくなってしまったのである。これらの株式は、電光石火の早業で、クレディ・スイスにより、イタリアおよび海外の機関投資家に売却された。

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『イタリア旅行』

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グランド・トゥアーに関する新刊 Il viaggio in Italia が出版された(コリエレ・デッラ・セーラ、5月30日)。

著者は、Attilio Brilli で、英米文学の教授。出版社は Il Mulino, 25ユーロ。

紹介されている例は、文学者のものが多く、たとえば、ディケンズにとっては、マッジョーレ湖に浮かぶボロメオ諸島が優美な島だった。

アンナ・ジェイムスンというバイロン夫人と交流のあった文筆家は、1826年にイタリアを訪れ、この国を訪れなければピクチャレスク(pittoresco, picturesque)という言葉を理解できなかったろう、と語った。

その他、ラスキン、シェリーなど、18世紀、19世紀のインテリのグランド・トゥアーを辿った本である。

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2006年6月 4日 (日)

公共工事、中止のおそれ

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ディ・ピエートロ大臣

イタリア自動車道路公団による大きな公共工事および鉄道工事は、政府の赤字のため、8月には中止に追い込まれる可能性が出てきた(コリエレ・デッラ・セーラ、5月30日)。

中止のある大きな公共工事は、サレルノーレッジョカラーブリア間の高速道路、ローマ大環状道路(三車線への拡張が、中止に追い込まれるおそれあり)、ヴェネツィアの対岸のメストレの道路、そして、トスカーナ地方の高速鉄道の工事である。

8月には、工事中止となる可能性がある。アントニオ・ディ・ピエートロ大臣の発言である。同インフラ整備大臣によると、財務省には、道路であれ、鉄道であれ、工事のための金がない。

不足額は全体で40億ユーロにのぼる。

ではどの工事が中止のリスクがあるのか? 「すべて」であると、Anas (Azienda Nazionale Autonoma delle Strade イタリア自動車道路公団)の代表取締役であるヴィンチェンツォ・ポッツィは答えた。

Anasは工事を中断しないためには、11億から12億ユーロが欠如しているという。

鉄道に関しても状況は同様で、40億ユーロが必要なところ、30億ユーロが不足している。

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ドニゼッティ『連隊の娘』

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ドニゼッティ『連隊の娘』をきいた。ボローニャ歌劇場の引っ越し公演である(渋谷、オーチャードホール)。

上演のレベルは非常に高く、観客の評価も熱いものだった。

『連隊の娘』というオペラは、ストーリーはたわいもない恋愛物語であり、そういうオペラは気楽に聴けて実に楽しい。その最高峰が、同じ作曲家の『愛の妙薬』ということになるだろう。

マリーという娘が主人公(ステファニア・ボンファネッリ)で、この娘は、戦乱の中で、親とはぐれ、連隊にひろわれ軍隊の中で育った。

ところが実は、マリーはベルケンフィールド侯爵夫人(エレーナ・オブラスツォワ)の姪であったことが判る。○○が実は、××であった、というのは、芝居でも、オペラでもよくあるパターンであるが、これはさらに、もう一回実は、マリーはこれこれであったという話がある(ここでは省略)。

連隊に育てられている間に、マリーはすっかり軍楽のいさましい、庶民的なノリの音楽が好きになっている。恋人トニオ(ファン・ディエゴ・フローレス)もチロルの若者にすぎない。

侯爵夫人は、マリーを貴族と結婚させようとするが、最後は、目出度く、マリーとトニオが結ばれる、というお話。

演出家のエミリオ・サージは、なぜか第二次大戦終了後間際のフランスに駐留しているアメリカ軍という設定にしていたが、効果および説得力は、疑問であった。

演技は、やや大袈裟なベルケンフィールド侯爵夫人とシュルピス軍曹(ブルーノ・プラティコ)が巧みに脇を固めて、客席の笑いを何度もとっていた。一昔前に較べると、日本の観客も笑うようになったことに感慨をもった。しかも、反応が結構、敏感なのである。

先のイタリア映画祭でもヴェロネージ監督の『恋愛マニュアル』が、観客の間ではとても受けていた。これも、恋愛をテーマとしたコメディである。テレビでも久々の漫才ブームが起こっているが、長い暗いトンネルをやっと抜け出しかけて、人々は笑いを様々なレベルで求めているのかもしれない。

歌手としては、トニオのフローレスが抜群の出来。ドニゼッティの様式感を的確に捉え、声も強いところ、柔らかいところ、ともに訴えかける力がつよく、声の表情にも幅があり、さらに、肝心なフレーズでさっとテンポをあげて締めるなど、巧みであり、なおかつ、うっとりとさせる。素晴らしい歌手である。

サービス精神も旺盛で、一幕のアリア〈友よ今日は何て楽しい日〉はハイC(高いド)が何度もでてくる難局だが、完璧に歌い上げ、それまでの拍手とは桁の違う劇場中が地響きのするような拍手に応えて、もう一度そのアリアを歌ってみせた。

ブルーノ・プラティコのシュルピス軍曹も、実に愉快な歌と演技を披露してくれた。彼が優れたロッシーニ歌いであるというプログラムの解説は、納得がいくもので、是非、ロッシーニでもその歌を聴いてみたい、観てみたいと思う。(追記:その後、調べてみると、1993年にシャイー指揮ロッシーニの『チェネレントラ』でドン・マニフィコ役を聴いていました。13年前とはいえ、ザル記憶力がお恥ずかしいかぎりです)。

ベルケンフィールド侯爵夫人のオブラスツォワは貫禄で、わざと気取ってフランス語の発音を誇張して、観客の笑いをとっていた。歌・演技ともにベテランらしくつぼを抑えたもの。声量もさすがといったところ。

タイトル・ロールのマリー(連隊の娘)、ステファニア・ボンファデッリは、美貌、容姿が文句なかった。軍服姿でも、格好良いし、花嫁衣装(といってもとてもシンプルな衣装なのだが)それも可憐で、素敵だった。

歌も誠実に歌っていて、相当高いレベルにあるのだが、無いものねだりをすると、ドニゼッティ特有のふっと叙情的になるアリア(たとえば《愛の妙薬》の〈人知れぬ涙〉)では、軍隊で勇ましい時のマリーと、せつせつと心情を吐露するマリーの間の落差、声の表情の落差がもう一歩欲しかった気がする。さらに言えば、ドニゼッティは、曲の途中で、不思議な転調や半音階がはいるのだが、そこの表情づけ、声の音色の変化、間の取り方が絶妙であると、聴衆の心に訴えかける力が何倍にもなり、これこそドニゼッティだ、という醍醐味を味わえるのにと、という感じをもった。とはいえ、非常にレベルの高い歌唱と演技力で、私の望みは、非常に贅沢なものに違いない。

指揮はブルーノ・カンパネッッラ。オーケストラはボローニャ歌劇場管弦楽団。驚くほど厚い響き(私の席は一階の後ろ)で、丁寧な指揮振りだった。個人的な好みでは、軍楽のらっぱの部分などは、もっとお気楽な感じで、ノリよくやって欲しかった。そうすることによって、侯爵夫人が体現するお上品文化とのコントラストが音楽的にもよくわかるからだ。

ただし、第二幕の中盤からは、けっこうノリがよくなっていた。

全体としては、極めて完成度の高い上演であった。観客の拍手も熱く長く続いた。ドニゼッティは、これから上演の機会が増えるのではないか、という希望を持った一日だった。

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2006年6月 3日 (土)

シエナの市長選

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左がマウリツィオ・チェンニ

右がピエルルイージ・ピッチーニ

シエナの市長選は、現職で、左翼民主(党)、マルゲリータ党などが支持するチェンニが当選した(コリエレ・デッラ・セーラ、5月30日)。

5月28日、29日に実施された統一地方選挙で、多くの市長選が実施されたが、注目の選挙の一つがシエナ市長選であった。35,802票の重みは、通常の市長選挙と異なるのである。

シエナの選挙民の5年ごとの投票は、誰が市を統治するのかだけでなく、イタリア最大の銀行の一つ、モンテ・デイ・パスキ・ディ・シエナ銀行の行方を左右することになるからだ。

市(コムーネ)は、銀行を支配する基金を通じて、最大株主であるからだ。おそらくは、こうしたこともあって、シエナの市長選は、つねに予想された結果、つまり、中道左派が勝利をおさめてきた。市長は、左翼民主(党)で、かつ、モンテ・デイ・パスキ・ディ・シエナ銀行の出身だった。

ところが今回は、挑戦者が元市長のピエルルイージ・ピッチーニだったから、緊張感があった。ピッチーニは、左翼民主(党)を出て、市民の4グループ(La Mongolfiera, Impegno per Siena, Progressisti per Siena, Libera Siena) を率いて、現職のマウリツィオ・チェエンニに挑んだわけである。

ところが、ふたを開けてみると(開票途中ではあるが)、チェンニが55,7%、ピッチーニが30,3%と、現職が圧倒的であった。中道右派の候補、アレッサンドロ・マンガネッリは、12,8%。

この結果をうけ、モンテパスキ銀行の基金のトップにはガブリエッロ・マンチーニ(マルゲリータ党)が就き、銀行の総裁には、ジュゼッペ・ムッサーリ(左翼民主)が就くことに変更もない。ムッサーリは、チェンニの同意を得れば、自由に銀行の戦略を決定できることになる。

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ビアンカ・ピッツォルノ『木の上の家』

木の上の家

ビアンカ・ピッツォルノ『木の上の家』(長野徹訳、汐文社)を読んだ。

ピッツォルノの作品は、長野徹氏の翻訳により、『ラビーニアとおかしな魔法のお話』(小峰書店)、『ポリッセーナの冒険』(徳間書店)がすでに日本の読者に届けられている。

ピッツォルノという人は、一作、一作かなり作風が違うが、ファンタジーのあるお話という点が共通しているようだ。

『木の上の家』は、ビアンカ(大人)とアグライア(8歳の女の子)が木の上に住み始める、というところから話がはじまる。トム・ソーヤとハックルベリー・フィンを思い起こさせるが、ピッツォルノはパロディというか有名作品の換骨奪胎も好きなようだ。

『ラビーニアとおかしな魔法のお話』は、ラビーニアがマッチ売りの少女なのである。アンデルセンを下敷きにしているが、中身は、まったくことなり、妖精から魔法の指輪をラビーニアはもらうのだが、それが、とてつもないもので、あらゆるものをウンチに変えたりもとに戻せたりというもの。痛快な騒動がそこから起こるのは、想像できよう。

『ポリッセーナの冒険』もシェイクスピアの『テンペスト』やホメロスを思わせる冒険譚である。

『木の上の家』は、きっかけは樹上生活だが、そこには、意外なことに先住者のおじさんがいたり、こうのとりが赤ん坊(通信販売なのだ!)を配達途中にもかかわず、置いていってしまったり、超現実的なことが起こるのだが、雰囲気はどこか牧歌的である。動物の登場人物が多い(『ドリトル先生』シリーズを思わせますね)のも、それに一役かっているかもしれない。

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2006年6月 2日 (金)

「ポンペイの輝き」展

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「ポンペイの輝きー古代ローマ都市 最後の日」展を見た(渋谷、Bunkamura ザ・ミュージアム、6月25日まで)。

ポンペイだけでなく、エルコラーノ、オプロンティス、テルツィーニョ、ポンペイと分けて、展示がなされていた。

ポンペイは、ヴェスヴィオ山の東南に位置し、いうまでもなく、もっとも有名な遺跡であるが、エルコラーノ(ヴェスヴィオの西南、海ぎわ)、オプロンティス(ヴェスヴィオのほぼ南)、テルツィーニョ(東)にも、それぞれ興味深い発掘品がある。

今回の展示では、人が集団で埋もれていた様子を再現していたのが目新しい。エルコラーノの人々は、海岸の船倉庫に集団で避難していたのだが、そこへ熱の灰雲(サージ)が襲った。熱雲は400度にも達していた可能性があり、通り過ぎたあとには、1,5メートルの火山灰が堆積した。

その人々が折り重なるようにして亡くなった時の様が、発掘時の再現という形で展示されていた。

また、剣闘士が闘技場に入場するときに身につける兜、肩当ては、初めて見た。兜には、ローマの擬人化された像が浮き彫りになっており、肩当てにも、胸像が浮き彫りになっていた。実際に戦うときには、もっとシンプルな兜、肩当てを着用したのだそうだ。

文字入りの壁画「居酒屋の場面を表わした壁画」も面白かった。ある客が水を「ここにもってきてくれ」というと隣の客は「いや、私だ」と反駁する。すると、給仕の女性は、「欲しい人が飲みなさい」といっている。

他にも、さいころ遊びをしていて、出た目が3ではなく2だったなどと言って争っている場面もある。

宝飾品も、立派なものから、普及品と思われるものまで、多様なものが見られた。

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Cisl の書記長、減税は非正規雇用を減らすために

Cisl(イタリア労働者組合同盟)の新書記長ラッファエーレ・ボナンニは、減税は、非正規雇用を減らすためになされるべきであるとの考えを明らかにした(コリエレ・デッラ・セーラ、5月29日)。

これは、労働大臣チェーザレ・ダミアーノの提案に応えた最初の労働組合側からの返答となる。

ボナンニは、TG3(ニュース番組)でインタビューに答えて、「以前から Cisl は、減税は、ばらまきではなくて、選択的に実施されるべきだと主張してきた。女性や50歳以上の労働者の雇用に有利になるように用いられるべきだ」と語った。

Cisl のリーダーは、非正規雇用者の賃金を引き上げる交渉に入るべきだとも述べた。

課税を5ポイント下げるためには、財源として100億ユーロ(1兆4000億円)が必要である。外国との競争によりさらされている部門から減税を実施するという案もある。

また、労働大臣は、減税の恩恵は、会社と労働者が50%ずつ享受すべきであると考えているが、経営者側のConfindustria (イタリア産業総連盟)は、比率を3分の2対3分の1とすべきであると考えている。

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2006年6月 1日 (木)

ダレーマ、イラク撤兵準備のためワシントンへ

ダレーマ外相は、イラクからイタリア兵を撤退させる準備のため、ワシントンへ赴くことになった(コリエレ・デッラ・セーラ、5月28日)。

ダレーマ外相は、6月12日に、ライス国務長官と会見する予定。イタリア軍撤兵の具体的期日については、治安の観点からも言及しないと、外相。

イラクには、人道や経済支援のための人的支援は行う予定で、約1000人がナッシリアに集中して滞在する。

現在、ナッシリアには、イタリア軍約2600人が配置されている。

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アマート内相、移民受け入れ増加の方針

アマート内相は、2006年度の移民受け入れの数を増加させる予定であると発表した(コリエレ・デッラ・セーラ、5月28日)。

ベルルスコーニ政権のもとでは、上限が17万人に設定されていた(ボッシ・フィーニ法)。

アマート大臣は、イタリアに住む場所と仕事を持っている移民に対しては、その上限を越えた人数に、滞在許可証を出そうという方針を示した。

これに対し、野党のマウリツィオ・サッコーニは、いったん不法移民で入ったものを、正常化すると、不法移民を助長することになると批判的である。

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カルロ・スカルパ生誕百年

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ブリオン家墓地

イタリアの建築家カルロ・スカルパの生誕百年を記念して各地で展覧会などが催される((コリエレ・デッラ・セーラ、5月26日)

カルロ・スカルパはヴェネツィアで1906年に生まれた。建築デザインを学び、1926年からヴェネチア建築大学校で教え始める。1948年には、ヴェネツィアのビエンナーレに参画。

作品としては、ヴェローナのカステルヴェッキオ博物館やサン・ヴィート・ダルティヴォーレのブリオン家墓地などが有名。

亡くなったのは、仙台のホテルで、眼鏡を取り忘れ、階段をころげおちたための事故死であった。1978年のことである。日本はお気に入りで、20歳以上年下の友人アルド・ブジナーロと来て、京都や富士山を見たりした。また、建築家ライトを尊敬していて、ライトの日本への情熱を共有したいと考えてもいたようだ。

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財務警察、ミラン、インテルの本部を捜索

25日、財務警察は、セリエAのミラン、インテルをはじめ、ヴィチェンツァ、カリアリ、トリエスティーナ、パドヴァ、メッシーナの本部を捜索した(コリエレ・デッラ・セーラ、5月26日)。

この捜索は、トリノ検事局の指示によるもので、ユヴェントゥスの「粉飾決算」疑惑に絡むもの。

ブルーノ・ティンティ検察官は、2000年から2005年の間の、ユヴェントゥスと他チームの間でやりとりされた選手のトレードに注目している。

詳細を調べられている契約は41ある。特に注目されているのは、カリーニ、ダマート、ベレッタ、チンゴラーニの4人の移動である。

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プローディ、減税と投資について語る

プローディは、Confindustria(イタリア産業総連盟)の会合で、減税と投資について語った(コリエレ・デッラ・セーラ、5月26日)。

プローディは、先の総選挙のキャンペーン中に、労働から徴収する税金を5ポイント下げると約束した。その約束は守るが、経営者たちに、ただし投資をしてほしいと注文をつけた。

つまり、減税をただちに会社の利益としてしまうのではなく、投資に回してほしいと述べた。さらに、減税は、選択的に実施し、非正規雇用を減らすための政策に用いたいとの方針を明らかにした。

プローディはまた、景気回復の兆しを確認したが、そのような時にこそ、構造改革に取り組むチャンスであることを強調した。

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