『山猫』
『山猫』を見た。NHKのBSで放送されたものを録画しておいたのである。
久し振りに見て、(以前に見たのは、銀座の映画館で、10年以上前だったと思う)、堪能した。以前には、理解できていなかったことがたくさんあったことが判った。
この映画は、うまく出来ていて、いろいろなレベルで楽しめるようになっていると思う。いくつか挙げてみよう。
1.バート・ランカスターやアラン・ドロン、クラウディア・カルディナーレといったスターが出演している。
2.アラン・ドロンがクラウディア・カルディナーレと三角関係の恋物語を展開する。
ここまでは、小学生でも判るし、その物語が、歴史的な衣装をまとって、リソルジメントの時代に展開するだけでも、大河ドラマ的娯楽として十分楽しめる。後半の、本物の貴族を大勢集めた舞踏会の場面などその最たるものである。
3.リソルジメントの時代に、アラン・ドロン(バート・ランカスター演じるサリーナ公爵の甥で、政治的野心にみちている)が、赤シャツ隊にはいり、その後、イタリア王国が成立するや、王政に素早く順応していく様子も、如実に描かれている。
4.また、その甥を深く愛しながらも、彼とは政治的立場を同じくせず、体制の変化とシチリアの内実の不変化を諦念を持ってみつめている公爵。そのセリフおよび認識は、20世紀イタリア(あるいはシチリア)にも通用するものであることを知ると、ヴィスコンティの世界観がそこに反映されていることを窺わせるものだと言えよう。
5.クラウディア・カルディナーレ演ずるアンジェリカと、パオロ・ストッパ演じるその父カロージェロの低俗さは、克明に描きこまれている。アンジェリカの下品で、周囲への気遣いのまったくない呵々大笑は、見物、聞き物で、パーティに出ていた貴族たちは、サリーナ公爵を筆頭にしらけた様子で、退場してしまう。カロージェロは、いかにも成り上がりという態度、礼装のまったく似合わぬ男として、冷笑をさそう存在である。貴族と卑俗な父娘のコントラストは、これでもかと言わんばかりに、くっきりと描かれている。下品で俗っぽい仕種(たとえば相手の話を聞きながら、指を口にくわえたり)にもかかわらず、カルディナーレのアンジェリカが、まさに輝くように美しく魅力的なのは、言うまでもない。
6.サリーナ公爵(バート・ランカスター)は、カロージェロ、アンジェリカ父娘の野卑さを認識し、さらにアンジェリカの母がまったくの無教養で獣のようであることを知りつつ、かつ愛娘がタンクレディ(アラン・ドロン)に恋していることを知りつつ、最愛の甥タンクレディがアンジェリカと結婚することをむしろ積極的に推進するのだ。タンクレディの政治的野心のためには、多額の持参金が必要なのである。
7.宗教の存在。まず、冒頭で、ロザリオの祈りで、サリーナ公爵の一家全員が、家付きの神父とともに、アヴェマリアの祈りをラテン語で繰り返し、唱えている。そこへ、ガリバルディの軍隊がシチリアに上陸したという知らせが来て、騒がしくなるが、公爵が出かけると、残った女たちは、すぐさま、サルヴェ・レジーナの祈りをラテン語で唱える。この場面も、女性たちの帰依が、感動的であると同時に、一抹のそこはかとない可笑しみも感じさせる。
さらに、興味深く、時にユーモラスな場面をもたらしてくれるのは、家付きのピッローネ神父である。神父と公爵のやりとりは、宗教的権力と世俗権力の対立と対話をシンボリックにも表現しているわけで、これも現在にいたるも続く両者の時に親密で、時にややこしい関係を理解しつつ聴くと一層味わい深い。この国で困ったことはと神父が言うとイエズス会士が多すぎることか、とサリーナ公爵がまぜっかえしたり、サリーナ公爵が愛妾のもとへ通った翌朝 Confessione (懺悔、告解)をしつこく迫る場面など、実にユーモアに満ちていて、ヴィスコンティの映画がこんなに機智に富んでいたかと意外の感にうたれた。
以前に観たときには、「あらすじ」はともかく、宗教、歴史的背景、階級のもたらすドラマ、そのニュアンスを味わいわけることが出来ない部分が多かったのだと思う。
なお、NHKBSの放送は完全復元版で色も美しかったが、190分の放送であった。手元の映画事典を見ると、205分とあるので、15分のずれがある。
| 固定リンク


コメント
いま、岩波ホールで「家の鍵」やってますね。近日中に、見に行く予定です。あと、イタリア映画祭も。就職活動中ですが、誘惑がいっぱいです。
「山猫」って、タイトルしか知りませんでした。山猫といったら、宮沢賢治の「どんぐりと山猫」というわたしですから…。ほのぼの映画なのかと思っていましたが、違うのですね。ゆっくり見てみようと思います。
投稿: azusa | 2006年4月 7日 (金) 00時03分
『家の鍵』も、なかなか良い映画でしたよ。ジャンニ・アメリオ監督の映画は、『いつか来た道』や『小さな旅人』もそうですが、近年のイタリア映画の類型にあてはまらない、ずしんとくる映画ですね。
また、『家の鍵』に出演している女優シャーロット・ランプリングは、ヴィスコンティの『地獄に堕ちた勇者ども』に出ていますね。
『山猫』は、小説が原作で、翻訳も河出文庫から出ています。
投稿: panterino | 2006年4月 7日 (金) 05時57分
「山猫」は傑作ですので、わたしは教材としてよく授業で使います。
15分長いバージョンというのは、最後の舞踏会のシーンがさらに延々と描かれているところが違うという話です。まあ、あのようなことをやっていれば、貴族が没落するのも当たり前という感じですね。
投稿: Shibano | 2006年4月 7日 (金) 10時51分
なるほど、さらに長い舞踏会だったのですね。
フェリーニのサーカスに照応するものが、ヴィスコンティにとっては、舞踏会だったのかな、という気がしています。どちらも、それ自体の楽しみであって、AからBへ事態が進むという展開性はないし、それを求めてもいない。
踊り手(支配階級)は移り変わるけれども、何も変わらない(シチリアの風土、教会と世俗の対立・妥協など)といったアレゴリカルな意味合いも感じます。
投稿: panterino | 2006年4月 7日 (金) 15時43分
ピッコローネ神父とのやりとりは確かにユーモアに溢れたシーンでした。今度はそこのやりとりを注意してみたいと思います。何度観ても発見がある名作ですね。
投稿: マヤ | 2006年4月19日 (水) 11時36分
そうですね。舞踏会のシーンの将軍とのやりとりもそうですが、リソルジメントやイタリアについての理解が深まると、一層味わい深いのですが、そうでなくても、映像的な醍醐味、場面ごとのドラマ性で見せてしまうところが、傑作ですね。また、感情移入も、年齢や人生経験に応じて、異なった登場人物を対象にすることが出来そうですね。
教会に対しても、公爵は、皮肉をまじえつつも、自分たち(の階級)が去っても、教会は残り、自分たちを見捨てるだろう、それで良いのだ、と静かな諦念とともに言っていました。最後の場面も公爵がひざまずいて祈りを捧げていました。
ヴィスコンティも教会に対し、アンビバレントな愛情を感じていたのでしょうか。
投稿: panterino | 2006年4月19日 (水) 22時08分