チェチーリア・バルトリのリサイタル
チェチーリア・バルトリのリサイタルを聴いた(東京オペラシティ・コンサートホール、3月27日)。
バルトリの歌、有名かつ優秀な指揮者のチョン・ミョンフンがピアノ伴奏である。ただし、筆者としては、この二人のリサイタルを「チェチーリア・バルトリ&チョン・ミョンフン デュオ・リサイタル」と名付けるのはいかがかと思う。チョン・ミョンフンがピアノで独奏曲を弾くことはなく、伴奏者に徹しているのである。私は、チョン・ミョンフンが独奏曲を弾かないのが不満なのではない。伴奏者に徹しているのだから、これはチェチーリア・バルトリのリサイタルに、あの有名な指揮者のチョン・ミョンフンが伴奏をしている!という驚きがあれば十分で、それをデュオ・リサイタルとしてプロモートするのは、いささか羊頭狗肉のおそれがあるのではないかと思うのである。
さて、バルトリの歌は、驚くべき高度な技巧を惜しげもなく披露するもので、圧倒された。
プログラムは前半が、スカルラッティ(1曲)、グルック(1曲)、パイジェッロ(1曲)、モーツァルト(3曲)、ベートーヴェン(1曲)、シューベルト(2曲)、ロッシーニの歌劇『チェネレントラ』から〈私は苦しみと涙のために生まれ〉。
バロックからヴィーン古典派、ロマン派への流れを歌曲でたどり、締めくくりにロッシーニのオペラで華やかにしめるというよく考えられたプログラム。しかも、モーツァルトやベートーヴェン、シューベルトも通俗名曲は1つもなく、新たなレパートリーを聴衆に提供する意欲に満ちあふれている。それはポリーニのようなピアニスト、アッバードのような指揮者にも通じることだが、商業主義に流されない強い知性を感じさせるイタリアの超一流の芸術家に共通する性質なのである(イタリアの音楽家にも、そうでない音楽家もたくさんいる)。
後半は、ビゼー(3曲)、ベッリーニ(3曲)、ロッシーニ(4曲)で、ややロマンティックな曲想のものとなる。
バルトリは、技巧と古典的な様式をしっかりと確保した上で、歌詞を考えたフレージング、表情づけをしていく極めてバランス感覚のすぐれた演奏を聴かせる。しかも高度な、時に超絶的な技巧は決して破綻することがない。
しかも声の音色が高い方から、低い方までトーンがそろっている。ここまで完成度の高い歌手は、ほんとうに稀であろう。
筆者は個人的には、ロッシーニで装飾音符が、快適なテンポにもかかわらず、少しも省略されずにメロディーに飾り付けられていくのだが、それがどこまでも続く息の長さ、音楽的持続に、息をのむ思いであった。
アンコールは、まず、モーツァルトの『フィガロ』からケルビーノのアリア〈恋とはどんなものかしら〉。完璧。モーツァルトの様式感と、ケルビーノの哀切な心情とのバランスが、これほどとれている演奏を聴いたことがない。つまり、ヴェルディなどを歌いなれている歌手はたいていの場合、あまりにもロマンティックに歌いたがるのである(シミオナートのようにモーツァルトやロッシーニを歌わせても、最高の演奏をする歌手もいますが、これは例外的別格)。
次は、ロッシーニの『セビリア』のロジーナのアリア〈今の歌声は〉。これも、文句なく素晴らしい。会場も総立ちであった。バルトリも、観客の熱い拍手に、感じるところがあったように見えた。
3曲目はデ・クルティスの〈忘れな草〉であった。これも悪くはないのだが、こういうどっぷりとロマンティックな曲よりも、古典的な様式の中に踏みとどまりつつ、様々なテクニックを駆使しながら、表情豊かに歌うときに、バルトリの美点が最も良く表れると思う。
チョン・ミョンフンのピアノ伴奏は、ロッシーニや後半のロマンティックな曲想のものの方が、本領を発揮していたと思う。オペラ・アリアの伴奏では、指揮者らしいめりはりがきいていて、オーケストラのダイナミズムを彷彿とさせた。それに対し、バロック期のものは、ややリズムが平板に感じられた。
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コメント
はじめて書き込みます、もうすぐ3年生になる(予定)の、オペラ好きなゼミ生です。
『チェネレントラ』はフレデリカ・フォン・シュターデのビデオを見て好きになりました。高音を楽々出してたのを覚えています。
今度バルトリも聴いてみます。
投稿: Raimondi | 2006年3月29日 (水) 01時09分
こんにちは。
『チェネレントラ』のビデオ、アッバード指揮、スカラ座、脇役もデズデリ、モンタルソロといった芸達者な脇役が固め、聴き応えがありますよね。ポネルの演出も納得がいくし、王子役のアライサ、チェネレントラ(シンデレラ)役のフレデリカ・フォン・シュターデともに美男・美女で役柄にぴったりだと思います。
アライサの甘いマスク、フォン・シュターデのやや憂いのある清楚な面持ちといったものは、オペラが音楽だけでなく、演劇の喜びを味あわせてくれるものだと、再認識しますね。
一幕最後のいかにもロッシーニらしいクレッシェンド、アッチェレランド(競馬でいうと最終コーナーを曲がって、ゴールに向かって一気にスパートという感じ)もアッバード+スカラ座はお手のものだし、ロッシーニの醍醐味を思う存分楽しめますね。
バルトリのLD(たぶんDVDになっている)は、1995年のライブで、アメリカのヒューストン歌劇場のものです。先日の演奏会での終幕のアリアとヒューストンでのそれを較べてみると、10年の間にバルトリは、音楽の柄が大きくなったという印象を持ちます。
バルトリは、フォン・シュターデと較べると、装飾音を、きっちり、くっきりとフレーズします。フォン・シュターデが行書・草書になるところでも、楷書でいく感じです。それで、テンポはいくらでも速くできるのだから驚きです。
というわけで、楽譜を見なくても、バルトリの場合、装飾音符がすべて聞き取れるわけですが、それはうまく音楽を組み立てないと、細部にばかり聴衆の注意を引きつけることにもなりかねないわけです。しかし、それでは曲の流れが見えなくなってしまう。その背反する要求・課題を、先日のリサイタルのなかでは、見事に解決していたと思いました。
バルトリの容姿や雰囲気は、明るくお茶目な表情にも富んでいるのですが、少し固めのところがあって、極端な話、ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』的な世界とは無縁な感じがします。
だから、ロッシーニもバロックや古典的な方向からのアプローチからのものと親和性を持ち、ロマン派的な方向からのアプローチにはそぐわないと思います。(フォン・シュターデは逆です)。
投稿: panterino | 2006年3月29日 (水) 10時56分