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2006年1月10日 (火)

ムッソリーニを捕まえたパルティジャーノの死

ウルバーノ・ラッザロというパルティジャーノ(対独抵抗運動闘士、パルチザン)が死んだ。81歳であった(コリエレ・デッラ・セーラ、1月5日)。

ウルバーノ・ラッザロはパルティジャーノの時には「ビル」と呼ばれていたが、ドンゴ村からスイスへ向かって逃亡するムッソリーニを捕まえた人である。

1945年4月27日、第52部隊ガリバルディの「ビル」がムッソリーニを見逃さなかったのだ。障害物を置いてブロックした場所に、ムッソリーニを乗せた車は止まった。彼は、ドイツ軍の外套を着て、ドイツ軍の高射砲Flackを載せたトラックに乗り、スイスへの逃亡を狙っていた。

ムッソリーニはドンゴ村役場に連れて行かれたが、愛人のクラレッタ・ペタッチとその弟のマルチェッロも捕まった。

ムッソリーニの最後(処刑)については謎の部分が多いのだが、ラッザロは、1962年にピエロ・ルイージ・デッレ・ステッレ(パルチザン部隊の隊長、「ペドロ」と呼ばれた)と『ドンゴ:ムッソリーニの最後』という本を著わし、さらに、1993年に『ドンゴ、半世紀のうそ』という本を書いている。

ラッザロによれば、ムッソリーニとペタッチを殺したのは、「ヴァレリオ」大佐ではなくて、ルイージ・ロンゴであるという。ロンゴはその後、共産党の書記となる。

パルティジャーノ「ビル」によれば、ムッソリーニ統帥とペタッチは二度銃殺されたのだ。28日にボンザニーゴ村で処刑されたのは、16時10分ではなくて、12時半であった。

二人の遺体は、彼らが発見された場所に運ばれて、そこでまた銃で撃たれた。ラッザロの証言は、ムッソリーニとチャーチルの往復書簡が、コモ湖で押収された書類の中にあったことも確認している。

ラッザロがパルティジャーノになったのは、愛国心からであった。しかし同じ村の友人たちで、パルティジャーノになろうというものは彼一人であった。解放後(戦後)、ラッザロはいくども襲われたーー「多くの危険なことを知りすぎた」からである。

戦争が終わって、ラッザロは、Sip(ピエモンテ水力発電会社)で働いた。

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