ボローニャのジョット
ボローニャで「ベルトランド・デル・ポッジェット時代のジョットと美術」という展覧会が、2005年12月3日から2006年3月28日まで催される(コリエレ・デッラ・セーラ、11月27日)。
1334年は、教皇ジョヴァンニ(ヨハネ)22世の亡くなる年だ。彼は、アヴィニヨンにあった教皇庁を、穏便にイタリアへ戻そうと考え、ローマではなくて、ボローニャに新たな教皇庁を建てようとして、1330年から立派な宮殿を建築させ、そこに当時最高の画家ジョットのフレスコや多翼祭壇画を描かせたりしたのだが、1334年に民衆の反乱が起こり、宮殿は略奪され、宝物は散逸してしまったのだが、いったんは所在が散り散りになってしまった美術品が一堂に会したのが今回の展覧会である。
この時代は、教皇派(グェルフィ)と皇帝派(ギベリーニ)の対立が激しい。ジョヴァンニ22世は、フランス王を刺激せずに、教皇庁を移動させたかった。そこで、まず1319年、ベルトラン・デュ・ピュジェ(フランス語よみ)すなわちベルトランド・デル・ポッジェット(イタリア語よみ)をイタリアに派遣し、皇帝派を駆逐してボローニャを首都とする教皇領国家を樹立しようとした。
しかしフランス人司教の存在、また高い税金、豪華な宮殿(palazzo di Porta Galliera-教皇庁になるはずだった)の建設は、イタリア人の憤激をかい、その反乱により、教皇庁をボローニャに遷都する試みは崩れ去ったのであった。
| 固定リンク
コメント