「ナポリのマラドーナ」
北村暁夫「ナポリのマラドーナ:イタリアにおける「南」とは何か」(山川出版社)を読んだ。
イタリアにおける南部の問題が、どう論じられてきたかが、200ページほどの本に、実に手際よくまとめられている。
しかも、学術書にともすればありがちな、文体の鈍重さがない。結構、重い話も、すらすらと頭に入ってくるのは、ありがたい。
構成としては、1990年のワールド・カップでのアルゼンチン対イタリア戦が、新聞でどう報じられたかをきっかけに、著者はイタリアにおける南が何を意味するのかを探っていく。この試合には、最終章でまた帰っていくというサンドイッチ構造をとっている。音楽的ともいえる構成である。
二章では、ゲーテやプロシアの歴史家ハインリヒ・レオがどうイタリア南部を捉えたかからはじまって、イタリア統一以降、中北部の人間が、南部をどう評価したりどんな言葉をもちいて記述してきたか、またそれは何故かが明らかにされていく。
この辺は、実に興味深い(著者は、より深い情報を知りたい人間には、参考文献を紹介している)。
また統一後、「遅れた」南部の抱える問題をどう解決するかがどう論じられてきたかも、たどることが出来る。僕は、これまで自分が、断片的に読んだり、聞いたりしたことのある情報が、イタリア史の中でどういう位置づけられるのかを知り、非常に目を開かれた。
南イタリアが統一後、なぜ工業発展が遅れたかも、通説と、それとは異なる見方(一言で言えば、南部は一様ではなくて、南部の中に多様性があることをとらえなければ、南部を理解することは出来ないということ)が紹介される。
さらに、イタリアの移民が特に南米にどう入っていったか、どんな階層を形成していったかなどが紹介される。これはまさに著者の専門領域であり、僕などは初めて知ることが多かった。
「マルティン・フィエロ」といった叙事詩のなかで、ガウチョ(パンパの牧童)と移民の接触がどう描かれているかとか、「グリンガ」という喜劇での、イタリア移民に対するネイティヴのまなざしといったものも解説されている。
ロンブローゾの犯罪人類学もトピックとしては興味深いし、それが南米でも応用?されていたことは驚きだった。移民集団をアングロサクソン系、ラテン系、ユダヤ系などに分別し、重大犯罪は「ラテン系」に、売春は「ユダヤ系」女性に多いなどということを調べていたのだ。
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