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2005年11月 7日 (月)

ヴァティカン遷都の可能性

ピオ9世と言えば、イタリア統一の時の教皇で、カヴールやガリバルディの反教皇庁的態度に腹を立て、「ヴァティカンの囚人」として、閉じこもってしまったことは知られているが、実はケルンに遷都することを考えていた時期があるという(コリエレ・デッラ・セーラ、10月30日)。

イタリアがほぼ統一された後、ローマが残っていたのだがヴィットリオ・エマヌエーレ二世は、フランスのナポレオン三世がセダンで敗北したすきに、ローマを奪取した。

当時誕生したばかりのプロシアの宰相ビスマルクは、ピオ9世に対し、彼の庇護を期待してよいし、ケルンのような町を教皇庁のあらたな本拠地とすることも可能だと言ったという。

その後も19世紀の70年代、80年代、90年代と、ヴァティカンのみならず、ヨーロッパの宰相たちは、教皇庁のローマからの遷都を考えていたという。

候補地は、ケルン、マルタ島、オーシュ(フランス南西部)、コルシカ島、カントン・ティチーノ(スイス南部)など。

これは、デヴィッド・カーツァーというアメリカ人のリソルジメント研究者が、これまで軽視されていたかあるいはアクセスすることが不可能だった資料を得て、明らかにしたのである。

教皇庁は、ローマおよび教皇領支配を復活させたいと画策し続けたのである。

ピオ9世は、1870年にはイタリアの支配階級をまとめて破門したし、1873年には、ヴィットリオ・エマヌエーレ二世その人を破門した。

ピオ9世の死後も、レオ13世のもと、ランポッラ枢機卿などが三国同盟をはじめとする国際関係の網の目のなかで、イタリアを窮地におとしいれようとしたそうです。

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