ヴェルディ協会主催の講演会で、ドナルド・キーンさんの話を聞いた。ヴェルディのオペラ『イル・トロヴァトーレ』についてで、歌手や作品に対する考え方が、大変興味深かった(上野の東京文化会館、11月23日)。
キーンさんは1922年生まれで、83歳であるが、お元気で、語り口も軽妙洒脱、ところどころで会場からも笑い声があがっていた。
たとえば、『イル・トロヴァトーレ』は大変有名な作品ですが、台本はほんとにメチャクチャなんです、といった調子で、率直かつ核心をついた言葉が出てくるのだが、それは決して、名作といわれるもののあら探しをしようという挑戦的あるいは意地悪な態度という感じではなくて、キーンさんの率直な感想をあるがままに伝えているという感じで、まったく嫌味はない。お人柄の功と言うべきか。
さて、講演は、そもそもトロヴァトーレというのは、11世紀末に南仏にいた吟遊詩人のことだったが、この作品ではスペインが舞台であること。スペインはヴェルディにとってロマンティックな舞台であったことが指摘されたあと、主要登場人物ごとに、それを歌った歌手とそのレコードおよびDVDを聴かせたり、見せながらの解説という形で進んでいった。
最初は衛兵隊長フェランド(バス)。この人は、幕が開いた早々、人物の背景説明を兵士たちに説明する(つまり観客に語る)。先代のルーナ伯爵には、二人の子供がいたのだが、弟君をジプシーの老婆がみつめていて、伯爵は老婆が魔術をかけて弟君を病気にしたと思い、ジプシーを火あぶりにしてしまう。しかし弟君は行方不明になり、老婆の処刑場からは子供の骨がでてくる。
まあ、おどろおどろしい話である。これはDVDでホセ・ファン・ダムが歌うのを見た。1978年の映像で、ダムはなかなかの男前。その後、エツィオ・ピンツァのCDを聴いたのだが、これが素晴らしかった。1923年の録音だが、テンポは78年のものより速く、歌いまわしもキビキビとしていて、しかもセリフもこちらの方がよく聞き取れる。ダムが悪いのではなくて、ピンツァがずば抜けた名手なのだ。キーンさんは、ピンツァが20世紀の最もすぐれたバスであると紹介していた。
えっとも思ったが、これは他の歌手の紹介も考えると、キーンさんには、キーンさんのお好みのラインというか傾向がはっきりとあるのだと判った(それは趣味としてオペラを愛好すれば当然とも言えよう)。キーンさんは、商業ベースで音楽評をお書きになるのではないから、有名な歌手だから、売れている歌手だから評価する必要はまったくなく、ご自分の評価をストレートに開陳なさっているのだと思う。
ここからが主要登場人物の4人である。先代ルーナ伯爵の長子ルーナ伯爵(バリトン)は、レオノーラ(ソプラノ)に恋焦がれているが、レオノーラは吟遊詩人マンリーコ(テノール)に憧れているのだ。伯爵は、マンリーコに激しく嫉妬する。
レオノーラでは、紹介されたのは、まずマリア・カラス。カラスがそれまでのソプラノの役作りと比較し、格段にドラマティックな役柄を演技でも声でも表現したと評価。前時代の代表としてテトラッツィーニの1912年のレコードが紹介された。
たしかにテトラーツィー二の時代のソプラノは、彼女に限らずひゃらひゃらとしたコロラトゥーラで、カラス以降のドラマティックなソプラノの歌い方とはまったく別物である。声が震え、余計なビブラートが目につく、いや、耳につくかもしれない。しかし、僕は意外とこういう歌い方もきらいではない。
レオノーラのような強さが求められる役柄、そしてヴェルディの音楽はそれを求めていると思うが、たとえば、ドニゼッティの『ルチーア』などであると、音楽的内容からは、結構軽い声でひらひらと舞うような声で歌ってみたらと思わずにはいられない。ドラマティックな『ルチーア』も良いが、ひらひらとした声の軽やかな『ルチーア』も聴いてみたいのだ。
さて、次は、火あぶりにあった老ジプシーの娘アズチェーナ。シミオナートの声・歌唱は、言うことなし。絶品である。会場のため息に似たどよめきも、そう感じた人が多かったことを示していた。その後、ビョルリンク(マンリーコ)とブルーナ・カスターニャ(アズチェーナ)の二重唱を聴く。こちらは、1941年。
次のルーナ伯爵で、キーンさんの好みはさらに明確に示された。最初に紹介されたのはティッタ・ルッフォ。カルーソと同時代の巨匠であるが、カルーソが時代を考えると歌い回しが驚くほどモダンであるのに対し、ルッフォは立派な声ではあるが、ポルタメントをふくめ時代を感じさせる。キーンさんは、20世紀で最もすぐれたバリトンであると紹介していた。
次に紹介されたルーナは、ロシアのバリトンでリシツィアン(Lisitsian)とかいう歌手で、僕のしらない人。ロシア語で歌うルーナ伯爵ははじめて聴いた。クリーミィーな美声である。1948年の録音。キーンさんは、いたくご満悦。たしかに見事に朗々と響く声で、われたり、かすれてしまうことのない、クリーミーな声である。
次は、と期待したが、マンリーコに移っていく。うーん、そうか、と僕はここで気がついた。キーンさんは、奇を衒っているのではなく、本当に、リシツィアンの声が好きなのだ。自分が好きで高く評価しているものが、世間の人には知られていなかったり、不当に評価が低いと思えば、この人は素晴らしいと宣伝したくなるものだ。
マンリーコはまずドミンゴの1978年のDVD。若い時のドミンゴは、ホセ・クーラに意外と容貌が似ていると思った。
そしてもう一人のマンリーコはビョルリンク。最も名高いアリア「見よ、恐ろしい火を」である。ここで聴いたビョルリンクの声はカルーソに似ているなと思ったら、キーンさんが、カルーソの娘が自分の父の声に一番近いのは、ビョルリンクであると言ったというエピソードを紹介した。ビョルリンクも上から下まで均質でどこにも破綻のない美声である。
ビョルリンクは、イギリスでのオペラ・ファン投票でも史上最高のテノールと評価されたことがあり、英米系の人は、こういう声が好きなのだと思う。
つまり、英米系の人には英米系の人の偏差があって、その中でオペラ愛好家としてキーンさんのような趣味が形成されるのである。
日本のイタリア・オペラ愛好家の多くは、マンリーコなら必ずマリオ・デル・モナコを入れるだろうし、多くの人がフランコ・コレッリの名をあげるだろう。
また、ルーナ伯爵ときいて、エットレ・バスティアニーニをあげないということは信じられない気持ちがするに違いない。
しかし、それはある意味では、日本のオペラ・ファンの偏差なのだ。どこかでたしか柴田南雄氏が書いていたと思うが、日本のクラッシック・ファンは、本場物(つまり、イタリア・オペラならイタリア人が歌ったもの、ベートーヴェンの交響曲ならドイツ系の指揮者の振ったもの)を好む傾向が強いとのこと。
むしろ、いろんな国の批評を読んで、その偏差を味わい、楽しめばよいのではないだろうか。そんなことを考えさせてくれた講演会であった。
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