« 「オベルト」日本初演 | トップページ | 教会と犯罪組織 »

2005年10月31日 (月)

「曾根崎心中」上演

新国立劇場でオペラ「曾根崎心中」を観た(10月30日)

「曾根崎心中」と言えば、近松門左衛門作の文楽だが、これは、近松を原作とし、現代作曲家の入野義朗が作曲したもの。

演奏は、室内合奏と数人の歌手。室内楽といっても、題材の性格を生かすため、ヴァイオリン、フルート、ピアノといった西洋の楽器のほか、太棹の三味線、尺八、そして吉原すみれ演奏するところの様々な打楽器群がはいる。ピアノも、鍵盤を弾くだけでなく、様々な現代音楽でもちいられる特殊な奏法(ピアノ線をこするなど)を駆使していた。

しかし、全体の響きとしては、意外なほど、フルートと尺八、ヴァイオリンと三味線などが溶け合い、アンサンブルとして不自然さというか無理矢理作った感じがしない。おそらく、作曲者の技量と、演奏者がこういった組み合わせの楽曲演奏に習熟しているというレベルの高さゆえだろう。

ストーリー:(第一場)恋仲の遊女お初と醤油屋の手代徳兵衛をめぐる世の不条理。徳兵衛は、友人に一日だけの約束で金を貸すが、貸した友九平次は返さぬどころか、借りたこともないとうそぶく。

(第二場)お初のところへ、九平次が来て、徳兵衛はにせの証文をつくったと言いふらす。お初は、隠れている徳兵衛に尋ねると死ぬ覚悟というしぐさをする(お初の足を喉笛にあてる)。

(第三場)夜更けに店から抜け出し、曾根崎の森で二人は帯を身体にまきつけ徳兵衛がお初を殺し、自害する。(この場面は、舞台では、殺し、自害する場面のあとで、二人の身体が帯らしきものでまきつけられ一体化するという演出であった)。

歌手は、みな素晴らしい出来であった。お初の田島茂代は演技、歌唱、容姿すべて言うことなし。オペラということもあってか、本当の着物ではなく、うちかけらしきものの下に、プリーツのドレスを着ているのだが、まったく違和感なく、遊女の世界に引き込まれる。恋する女のせつなさが、表情、歌、しぐさに表現されている。妖艶であって、下品でない。

これほど日本女性の歌手が素晴らしいと思ったのは、はじめてなので、田島茂代の功績の大きさは言うまでもないのだが、それ意外の要素も考えてみた。まず、日本の女性が、時代は異なるとはいえ、日本人を演じていること。メイクが自然(逆に言えば、西洋人とまじって、日本人が西洋人を演じるときには、鼻筋とか際だたせたり、ある種のがんばり、というか、背伸びが必要で、観る方も、これは、東洋風の顔だけど、ヴィオレッタなんだと思いこむプロセスが必要なわけだ。)

そういった無理がまったくない。また、顔の造作だけでなく、顔の表情というものも、微妙に文化を反映しているし、感情にともなう仕草、ジェスチャーは日本人とたとええばイタリア人では相当に異なる。

以上あげた点は、徳兵衛の平良栄一、九平次の鹿野由之、語りの太田直樹にもあてはまる。日本の男が燕尾服などを着た時、やはり身体が華奢なので、西洋人にくらべともすれば貧相に見えてしまうのだが、今回は変形した着物なのでまったく問題がない。

テノールの徳兵衛の平良は、落ち着いたきれいな声で、全体のこの曲はほとんどがレチタティーヴォ風なのだが、言葉も非常によく聞き取れた。

悪役の九平次は、衣装、髪型がポップで良かった。九平次とその仲間は、格好、色遣いが派手なので、わかりやすい。演技も納得のいくもの。

語りの太田(バリトン)は、実に器用な人。義太夫ばりの語りをやるかと思えば、直接お初に語りかける。直接お初に語りかけるときには、カウンターテナーのような高い声にかわる。しかも、どちらの時も言葉、音楽の表情ともに、めりはりがきいている。

演出も説得力が非常に高い。舞台は、奥から手前にむかってさがるように傾斜している。そこにやはりスロープのついた併のようなものがあるが、色は黒が主で、赤い線がひかれている。

特に第三場、道行きの場面で、お初と徳兵衛が舞台の両端から観客席に歩き出て(緑の照明が二人とその周囲の客席にあたっている)、一階の客席のまんなかの通路で歌う。僕の席は、前から三列目なので、前からは管弦が、左うしろからはお初の声、右うしろからは徳兵衛の声がするというしかけ。

これは二人の存在が額縁から出て、自分たちの中にいる。そしてそれは身体的にいると同時に、声として存在する。声としての存在は、舞台上よりはるかに生々しく感じられた。

こういう演出を以前にロッシーニの「ランスへの旅」でも経験したことはあるのだが、あちらがブッフォな話なのに対し、道行きだったせいか、今回は中劇場で小屋が小さめなことが効いたのか、ずっと生々しく、身体に声が直接触れる感じがした。田島、平良両氏の歌唱、演技は、それだけ迫真のものであった。

虚実皮膜の間とはよく言ったもので、観客であるわれわれは、舞台が舞台にすぎないことを知ってはいるが、もう一方でそこに本当らしさ、迫真性をもとめている。オペラの場合、台詞もメロディーやレチタティーヴォであるから、様式にのっとった迫真性とでも言うべきものだが。

今回の舞台は、その迫真性を堪能することができた。これは希有な経験である。そして、語りの太田、九平次の鹿野両氏のときにユーモラスな演技のおかげで、舞台が一面的、平板にならず、緩急、おかしみと悲しみ、余裕と緊張といった観客の生理にかなった充実した舞台を観ることができた。

入野は、日本で最初に十二音技法を駆使した作曲家として有名だが、この「曾根崎心中」は、無調的ではあるが、十二音技法にとらわれている感じはない。むしろ、語り手も主役も言葉がはっきりと聞こえ、かつ、言葉のイントネーションにあまり無理のこない旋律となっているようだ。

この日本独自の純愛物語をオペラ化したものは、共同制作のイタリア・スポレートだけでなく、モスクワ、サンクト・ペテルブルグ、韓国でも上演されたという。これからも、世界各地で是非上演しつづける価値のあるレベルの高い舞台だと考える。

|

« 「オベルト」日本初演 | トップページ | 教会と犯罪組織 »

コメント

先生がご覧になるのはイタリアっぽいものばかりではないのですね。オペラならわたしはこんにゃく座の作品を何度か見たことがありますが、ご存知ですか?

投稿: azusa | 2005年10月31日 (月) 18時32分

こんにゃく座、林光さんも、名前は存じ上げているのですが、観たことはありません。
そうですね。
昔から、NHKの番組の主題曲なんか、いいなあと思うと林光さんの作曲だったりしたんで、一度観てみようかな。

投稿: panterino | 2005年10月31日 (月) 21時11分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/144339/6767033

この記事へのトラックバック一覧です: 「曾根崎心中」上演:

« 「オベルト」日本初演 | トップページ | 教会と犯罪組織 »