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2005年10月29日 (土)

マッツィー二とウィルソン

ジュゼッペ・マッツィーニと言えば、リソルジメントの戦闘的思想家であるが、10月21日からジェノヴァでマッツィーニと彼をめぐる絵画展が催されている(コリエレ・デッラ・セーラ10月19日)。

コリエレ紙は、3面ぶちぬきでこの展覧会およびマッツィーニについての様々なエピソードを紹介している。

マッツィーニの思想は、イタリアの独立・統一のため戦いつつ、あらゆる民族の独立を唱えたため、その影響はアジアにまで及んでいる。

政治的には、敗北の連続で、1864年に第一インターナショナルという社会主義者のグループをつくる際に、マルクスと対立して敗れた。

僕としては、オーウェン(幼稚園の創始者!です)なども含め、空想的社会主義者といわれたり、マルクスに否定されたりした人には、結構豊かな可能性が今から考えるとあったのではないか、と思う。

時代は下って、1919年、第一次大戦後、ヴェルサイユ条約が結ばれるわけだが、当時のアメリカ大統領ウィルソンは、ヴェルサイユ会議に先立って1月5日ジェノヴァに立ち寄った。

その日は折悪しく、大雨だったのだが、ジェノヴァのコルヴェット広場で大統領は、ヴィットリオ・エマヌエーレ二世の騎馬像とジュゼッペ・マッツィーニの胸像に敬意を表した。

さらにウィルソンは、マッツィーニの墓を訪れたがったのだが、打ちつける雨に断念せざるをえなかった。

ウィルソンが前年に発表した14条は、ヴェルサイユ会議に大きな影響を与えた、新たな国際秩序を形成する方針となったわけだが、多くの面でマッツィーニ的であった。

ウィルソンは、マッツィーニに敬意を表した理由を求められたときに、大統領になる前にプリンストン大学教授だったときにマッツィーニの思想を研究したことを挙げ、「今は、彼の理想を実現しようとしているのです」と答えたという。そのなかには、国際連盟の構想もはいっていた。

イギリスの歴史学者デニス・マック・スミスによると、1919年6月、当時イギリス首相のロイド・ジョージは、次のように述べた。

「今日、我々が見るヨーロッパの地図は、ジュゼッペ・マッツィーニの地図だ。マッツィーニは、自由な国家の予言者だった。(・・・中略)ビスマルクが建てた立派な建物が、ずたずたに壊されてしまったが、あの若者、イギリスに亡命し、そこで長年貧困のうちに友人の協力でなんとか暮らし、武器といえばペンだけというあの若者の夢が、今やヨーロッパ大陸全体の驚くべき現実となったのだ。」

だから、第一次大戦後に独立した国々はウィルソン大統領だけでなく、マッツィーニの恩恵にもあずかっていることになるわけだ。

また、マッツィーニの影響は、アジアにも及び、インドのガンジー、中国の孫文、梁啓超、さらには中東関係でシオニスト、シリアのバース党の創設者アフラクにも影響を与えているそうだ。

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