2025年1月18日 (土)

『ピランデッロ戯曲集 III』

『ピランデッロ戯曲集 III』斎藤泰弘編訳(水声社)を読んだ。おさめられた作品は、「どうしてそうなったのか分からない」と「山の巨人たち」で晩年の作品と遺作である。

 「どうしてそうなったのか分からない」(1935年)は、これまで日本では紹介されなかった作という。ピランデッロの作品に共通することだが、登場人物たちの関係は、世俗的で、複数の夫婦が出てくるが、配偶者でない異性との間に微妙な感情を抱いている気配があり、しかしそこにある登場人物の狂気が絡んでいる。主人公は、幸せそうな生活を送っていたのだが、自分でも思ってもみない行動を起こし、意識が戻ってその責任をどう負うかで錯乱してしまったのだ。錯乱に、嫉妬が絡み、前衛的な部分はあるのだが、ゴシップ的興味にひきずられながら読むことも十分可能だ。

  「山の巨人たち」は未完の遺作だが、山の巨人たちファシスト政権を示唆するものとなっており風刺的要素が強い。第三幕が未完で、ここでは作者の息子ステファノ・ピランデッロが父から聞いた構想を記したものが記されているが、それとは少し異なるバージョンがジャーナリストのエンリーコ・ローマにより報告されており、それは本書にぬかりなく収められている。さらに、作品中で劇団の人々が一部を演じるオペラのリブレット「取り替えられた子供の話」も訳出されている。解説でもあらすじを含め訳者の解釈が開陳されており、読者は自分の読みを導いてもらえるし、あるいは自分の解釈とつきあわせることが出来る。

 ともすれば難解というイメージで語られることが多いピランデッロだが、この2作を読むと、読み応えはあるが決して難解ではなく、ゴシップ的な関心を持ってぐいぐいと引き込まれる作品でもあることがわかるだろう。

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2025年1月 9日 (木)

『全ての叡智はローマから始まった』

藤谷道夫著『全ての叡智はローマから始まった』(さくら舎)を読んだ。

本書は著者の思いがストレートに詰まった本であると思う。通常の学術書では、客観性を重んじて著者の思いは後景に退いて淡々と記述されることがほとんどである。この本は違う。著者は、古代ローマをどう捉え、ユリウス・カエサルはどこがどう偉大であったのかを雄弁に論じる。さらに後半では、ローマの建築技術や都市設計について、技術の深掘りを丁寧にしていく。

筆者は遅まきながら、カエサルの偉大さに、はじめて心底納得がいった。古代ローマについても共和制の部分から説明がされていて、元老院があるのは独裁をゆるさないという意味で優れたシステムなのだが、やがてそれが堕落し、既得権益を守る集団と化してしまう。政治家が、民衆派と元老院派に別れ、頂点についた側は、敵対する側を徹底的に粛正する。粛正の度合いは、まさに血まみれで恐怖のほかはない。しかし敵を粛正しなかった唯一の政治家がカエサルなのだ。彼の目的は、広大な領土を持つようになったローマが、属州の民をも統合する政治システムを作ることだったのだが、既得権を重視する人間から観れば、それは市民権の安売り、ばらまきと映ったであろう。

筆者は、バロック・オペラで何度もカエサル(チェーザレ)が出てくるのに出会ってきた。ヘンデルの『ジュリオ・チェーザレ』やヴィンチの『カトーネ・イン・ウティカ』、昨夏観たジャコメッリ作曲の『チェーザレ』(ヘンデルとはリブレットが異なる)。いずれの場合も、オペラなので、歴史的事実に脚色が加えられているが、チェーザレが敵を赦す、あるいはだまし討ちを良しとしないのは、一貫している。18世紀のリブレッティスタたちも、聴衆も、そこは理解していたのだろう。

カエサルは、自らを神格化することはなく、「はげの女たらし」などという批判にも甘んじていた。女たらし、の部分は筆者は気になるのだが、元老院議員の多数の妻と関係を持っていたのだが、誰一人カエサルを恨む女性はいなかったというのは驚きだ。その秘密・秘訣についてはほとんど書かれていない。

本書で、古代ローマの長い歴史を通じて書かれているのは、どういう既得権益(元老院議員は大土地所有者となっていく)が形成され、それを破壊してでも新たな統治システムを作ることが必要と考えるカエサルの統治システムに関する知見の先見性である。

以外な方向での発見は、イエスの教えを先取りしていたのが、カエサルの考え方だという点だ。筆者にその当否を判断する能力はないが、言われてみると、そういう観点から見れば、そうなのかもと思ったのだった。

キリスト教ついでに言えば、コンスタンティーヌス帝のようにキリスト教を国教化した皇帝は、教会側からはありがたい偉大な存在なわけだが、ローマ帝国側からみるとどんな体制変化をもたらしたか(ローマをローマらしからぬものにしたと著者は厳しく判定している)を論じている。

さらに、ローマの建築技術についても、ローマのコンクリートの強さの理由や巨大な石の運び出しと現代のクレーン車の比較なども興味深かった。

ローマの、ローマ帝国の理念が軸のように貫かれているので、一つのパースペクティブが開けてくる本である。著者は、こういう説もある、ああいう説もあるという形の叙述ではなく、自身の見解をすぱっと潔く論じているので、爽快である。

 

 

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2024年11月26日 (火)

ドニゼッティ《ピーア・デ・トロメイ》

ドニゼッティ作曲のオペラ《ピーア・デ・トロメイ》を観た(日生劇場、11月24日)。

ピーア・デ・トロメイというのは人名で、トロメイ家のピーアということなのだが、実は、ことはそう単純ではない。

ダンテの煉獄第5歌にピーアという人物(煉獄なのでその魂)が出てくるが、この人は「私はピーアです」とは名乗るのだが、名字は名乗っていない。ダンテが生きた時代に近い古註によれば、シエナのトロメイ家のピアだろうということになっていて、そこではピーアは夫(ネッロ・デイ・パンノッキエスキ)により殺された、理由は夫が別の有力家系の女性と再婚するため、もしくは、ピーアが不貞を働いていたため、あるいはその両方となる。実際、ネッロはマルゲリータ・アルドブランデスキという女性と再婚していることは書面で確認できるのだが、そこには前妻の名前がない。しかも、ネッロの時代には、トロメイ家にはピーアという女性が記録上存在していないのだ。

だからトロメイではなくてマラヴォルティ家のピーアではないか、という説もある。この人はややこしいことにネッロ・デ・パンノッキエスキを代理人としてトッロと結婚した。

19世紀になってこの『神曲』に登場するピーアはバルトロメオ・セスティーニによって物語詩に書かれる(1822)。この時、ギーノという人物がこの時付け加えられた。ネッロの従兄弟でピーアに横恋慕する人物である。彼は、煉獄篇の第6歌に登場している(ギーノ・ディ・タッコ)。しかし名前はギーノだが、ネッロの従兄弟ではない。セスティーニの物語詩においては、ギーノはネッロの友人で、ピーアに拒まれたのを逆恨みし、ピーアと弟があっている場面をネッロにみせピーアが不倫を働いていると思い込ませるという仕組みになっている。

細々とした点がわれわれが観るドニゼッティのオペラのピーアおよびその周辺の人物と異なりつつ重なっているわけである。しかしこういったことはそれを専門とする人間以外は大づかみに把握しておけばよいことだろう。

今回、上演の前に藤原歌劇団総監督折江氏の解説があった。《ピーア》がなじみのない作品ゆえあらすじ紹介に注力するとのことであった。そこでなるほどと思ったのは、トロメイ家とパンノッキエスキ家がそれぞれ教皇派と皇帝派に属しており、《ロメオとジュリエット》のような構造を持つとの指摘だった。それならば、ピーアが弟ロドリーゴと会うことを秘密にしていたのもうなずける。ロドリーゴは敵地に乗り込むことになるので、姉を訪れることが知られては危険なわけだ。先行作の観点からすれば、この教皇派(グエルフィ)と皇帝派(ギベリーニ)の要素を取り込んだのはセスティーニより後に彼の物語詩を踏まえつつ戯曲を書いたカルロ・マレンコだった(1830年代)。

ここまでの複雑な経緯を一層複雑にしているのは、ドニゼッティ、カンマラーノが改作・改版をしていることで、つづめて言えば、オペラ《ピーア・デ・トロメイ》にはヴェネツィア版、セネガリア版、ナポリ版があるのだ(これらの版の相違、製作の経緯については、プログラムで小畑恒夫氏による詳細な紹介がある)。

演奏は、期待以上のものだった。舞台の衣装が敵味方で色わけされているし、衣装自体も豪華とまでは言えないものの中世に想いを飛ばす助けとなるものだった。飯森範親(敬称略、以下同様)の指揮が納得のいくきびきびしたものだった。ともすれば、日本では、ロマンティックな要素があるとその情感を丁寧に描こうとしてテンポがずるずると遅くなっていく傾向が見られるのだが、この日の飯森の指揮ではそんなところはみじんも観られなかった。ピーアが独白するアリアで歌手のテンポに合わせるというようなことはあったが、すぐにレクーペロして、戦いや雄々しい歌詞ではヴェルディの《イル・トロヴァトーレ》を想起させる湧き上がる活力にみちた音楽を聴かせてくれた。《ピーア》と《イル・トロヴァトーレ》は、プロットの要素をひろっていくと類似点がいくつかある。主要な女性(ピーアとレオノーラ)が毒を飲んで死ぬ。女性が横恋慕する男に迫られる(ギーノとルーナ伯爵)。登場人物が二つの陣営に分かれていて戦闘がある、などなど。飯森は、勇ましいところから、3拍子や8分の6などに変わるとギアチェンジして、しかも楽しげな浮き立つ感じが良く出ていて、ドニゼッティ独特の高揚感を味あわせてくれた。

ロドリーゴがメゾ・ソプラノなのは、ドニゼッティの作では稀だと思うが、これはヴェネツィアのフェニーチェ劇場からの要請でメッゾのロジーナ・マッツァレッリに主要な役を与えなければならないという大人の事情があった。歴史をちょっと遡れば、ロッシーニのオペラ・セリアにはヒーロー的な役をメゾ・ソプラノが歌うことは、しばしば観られるわけで、そう驚くことではないのだが、ヴェルディの方向へ下っていくと、ズボン役は《仮面舞踏会》のオスカルのようにお小姓役などであって、軽い声の役になっていくのだが、ロッシーニや《ピーア》でのロドリーゴはヒロイックな強い声を音楽が求めていると言えよう。その点では公演での星由佳子はむしろ女性的な声だった。

ピーア役の伊藤晴は、情感をのせロマンティックに歌い上げるタイプで、子音の発音がより明確になれば一層よかった。男性陣は、かなり発音がよく聴き取れ、熱演であった。思えば、日生劇場が上野の文化会館や新国立劇場とくらべて小ぶりであるのも、良い効果をあげているのかもしれない。この劇場は、バロック・オペラの上演にも向いていると感じた。

バロック・オペラの時代であれば、ロドリーゴのようなヒロイックな役柄は、カストラートが歌う場合もあったし、女性歌手が歌う場合もあり、歌手の性別はその時の劇場の事情により柔軟に変えることができたわけだ。

上演機会のまれなオペラを、これだけのレベルの公演で味わえて、満足であった。聴きごたえのある曲がいくつもある放置しておくには惜しいオペラであると感じたし、上演を実現した方々に感謝したい。

 

 

 

 

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2024年9月11日 (水)

ヴィヴァルディ《オルランド・フリオーソ》その3(演奏評)

今回のバイロイトの辺境伯劇場での公演について。

前々項で記したように、オケはイル・ポモドーロ。今回のメンバーは20数人だった(歌手のソロコンサートなどでは数人の編成であることが多い。それはイル・ポモドーロに限ったことではないが)。

指揮は、フランチェスコ・コルティ。当夜、筆者の席は桟敷の一番低い階(日本風に言えば2階)で最も舞台に近い席だったので、オケおよび指揮と舞台が見通せた。観客席から見て舞台の左端が隠れてしまう。コルティは、オケも歌手もぐいぐい引っ張っていくタイプで、そのためアリアの途中でテンポがダレることは皆無なのだが、アルチーナ(ジュゼッピーナ・ブリデッリ)やアンジェリカ(アリアンナ・ヴェンディテッリ)が男を手玉に取って二股をする場面などでは、多少、テンポに自由があってもと思わないではなかった。

序曲などは衝撃的な速さであったが、これは、オルランドの被る運命の苛烈さを思えば相応しいテンポの選択かもしれないし、イル・ポモドーロだからこのテンポで音楽的に柔軟さを保って演奏できるのだとも思う。

歌手人はカウンタテナー(オルランドのミネンコ、ルッジェーロのティム・ミード)、上記のブリデッリ、ヴェンディテッリ、ブラダマンテのソーニャ・ルニェ、バスのホセ・コカ・ロサに至るまで、アジリタが綺麗で、コルティのテンポでも様式感が崩れないのは立派だった。

タイトル役のミネンコは音域も上から下まで、表出すべき感情も嫉妬、愛情から正気を失う状態までこの上ない広がりをダイナミックに、低声部では地声も混ぜて巧みに表現していた。

アンジェリカのヴェンディテッリおよびティム・ミードも見事なカント・バロッコで素晴らしい。

ヴィヴァルディのオペラが音楽的に充実しているのは第一幕、第二幕でこれは文句なく素晴らしいのだが、第三幕はややレチタティーヴォに頼って相対的に弱い面がある。もしかすると、楽譜の残存状況が第一幕、第二幕とは異なるのだろうか。

演出は舞台装置はかなり簡素で、現代の椅子がいくつか並べられたりする。ただし、衣装がよく出来ていて、人物の識別がしやすかった。衣装は現代服ではないが、かといって18世紀風でもない。第二幕では、メドーロとアンジェリカが木々に自分たちの名前を刻むところでは、文字が舞台に投影されそれが移動するという工夫を見せていた。木に刻んでも、客席からはほぼ見えないので何らかの工夫が必要なところだ。オルランドの狂乱の場は、像を倒したりという場面があるはずなのだが、そこはオルランドは舞台を彷徨う形に変形されていた。

このプロダクションはフェッラーラのテアトロ・コムナーレとモデナのパヴァロッティ劇場との共同制作なので、ひょっとすると劇場の装置で使用可能なものが、辺境伯劇場と前記2劇場では演出の細部は異なっているのかもしれない。そちらは見ていないので何とも言えないが。

ともあれ、ヴィヴァルディの音楽の悦びに満ち溢れた一夜であった。感謝。

 

 

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ヴィヴァルディ《オルランド・フリオーソ》その2(あらすじ)

《オルランド・フリオーソ》は前項で記したように登場人物が多い。

アリオストの原作が大長編の騎士物語(詩の形で書かれている)なので、リブレット作者がどのエピソードを取って、あとは全部捨てるという思い切りが必要となる。ヴィヴァルディの《オルランド・フリオーソ》は、ヘンデルの《アルチーナ》などとは異なり、アリオストの原作の主人公オルランドが登場し、彼の狂気が扱われるので、それがなぜ生じたか、どう解決したかが描かれているので、ストーリの複雑さが増している。

簡単にあらすじを紹介しよう。筆者の場合、フルストーリを細かく最初から説明されるとストーリが逆に頭に入らず、簡易版で幹の部分がわかって後から枝葉を付け加える方が理解しやすい。読者によって、最初からフルストーリが頭に入る方もいらっしゃるとは思うがここは簡易版で。

第一幕

メドーロという若者が難破を逃れてある島にやってくる。メドーロはアンジェリカの恋人なのでアンジェリカは喜ぶが、アンジェリカに恋しているオルランドが嫉妬をあらわにするので、アンジェリカはメドーロは兄弟だと嘘を言う。

魔女アルチーナは、騎士ルッジェーロを気に入り、魔術を使って彼の妻ブラダマンテを忘れさせ、アルチーナを愛するようにさせる。男装してやってきたブラダマンテはルッジェーロの「心変わり」を知る。ルッジェーロは妻を認識できない。

第二幕

森の中。アストルフォはアルチーナを愛しているのに、アルチーナはつれないと嘆く。アルチーナは一人の恋人では満足できないし、それをアストルフォは受け入れるべきだと言う。

ブラダマンテはルッジェーロに指輪を見せると、アルチーナによる愛の呪縛がとけ、ブラダマンテが誰かがわかり、今までの自分の行為を悔いる。ブラダマンテはすぐにはゆるさない。

アンジェリカは、オルランドを追い払うために洞窟に行ってある薬を取ってきてくれと言う。オルランドはそこで魔術にかかる。

アルチーナはメドーロとアンジェリカの結婚を取り計らう。二人は愛を誓う言葉をあちこちの木に刻む。苦労して洞窟から逃れでたオルランドはこの木に刻まれた言葉を読み、アンジェリカに騙されたことを悟る。怒りのあまり彼は正気を失う。鎧兜を脱ぎ捨て、彼は木を抜き始める。

第三幕

ルッジェーロ、ブラダマンテ、アストルフォは、オルランドが死んだものと思っている。彼らはヘカテの神殿の前で、復讐を誓う。神殿の中のメルリンの灰を奪ってアルチーナの魔力を奪おうとするのだ。彼らの会話を盗み聞いていたアルチーナは激怒する。アルチーナは魔力を増そうと思い神殿に入るが、そのすきに三人も入る。アルチーナは男装したブラマンテ(アルダリコ)に惚れている。そこへオルランドが現れるが正気を失ったままで、暴れまくり、結果的にメルリンの像を倒して、アルチーナの魔力を奪う(この場面は演出のため具象的に描かれてはいなかった)。

島は一瞬で荒野へと変わり、アルチーナを取り囲んでいた豪華な建物は全て消え失せる。

オルランドは眠りに落ちる。

アルチーナは醜い姿に変わっているが(今回の演出では特になし)、復讐のためオルランドを殺そうとする。ブラダマンテとルッジェーロが彼を守る。

目が覚めるとオルランドは正気に戻り、アンジェリカへの恋心も解消している。アルチーナは彼らを呪い、去っていく。アンジェリカは騙したことを悔いるが、オルランドは許し、アンジェリカとメドーロを祝福してめでたしめでたし。

原作を読むと、奇想天外なところがいっぱいあって、オルランドがアンジェリカを怪物から救う(西洋絵画にはオルランドやその他の登場人物を絵画化したものが多くある)のだが、アンジェリカはお礼を言うまもなく、他の男のところへ行ってしまうし、オルランドの狂気は、モノとして存在し、そのありかは月なのである。まあ、この辺りは、ヴィヴァルディでは出てこないのであるが。

アリオストの『オルランド・フリオーソ』はイタリアでは、日本で言えば『平家物語』くらい有名で、平家と異なり作者は一人であるが、それを元にいくつものオペラや絵画作品が作られたのである。つまりかつてはヨーロッパ中でよく知られた物語であった。

近代の演奏ではクラウディオ・シモーネが1978年に蘇演したわけで、その功績は実に大きいと思うが、彼はかなりカットや順序の入れ替えをしているので注意が必要である。CDやDVDを聴き比べ、見比べるとすぐに気づく。今から見れば、楽器や奏法が古楽でないことが気になる面もあるものの、マリリン・ホーン、ヴァレンティーナ・テッラーニ、ヴィクトリア・デ・ロス・アンヘレスの歌唱は素晴らしい。テンポはやや遅め。

 

 

 

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ヴィヴァルディ《オルランド・フリオーソ》

ヴィヴァルディのオペラ《オルランド・フリオーソ》を観た(辺境伯劇場、バイロイト)。

イタリア語で歌われ、字幕はドイツ語と英語。

指揮はフランチェスコ・コルティでオケはイル・ポモドーロである。演出はマルコ・ベッルッシ。このプロダクションはフェッラーラのテアトロ・コムナーレおよびモデナのテアトロ・パヴァロッティとの共同制作。

配役は、

オルランド・・・ユーリ・ミネンコ

アルチーナ・・・ジュゼッピーナ・ブリデッリ

アンジェリカ・・・アリアンナ・ヴェンディテッリ

ブラダマンテ・・・ソーニャ・ルニェ

ルッジェーロ・・・ティム・ミード

メドーロ・・・キアラ・ブルネッロ

アストルフォ・・・ホセ・コカ・ロサ

合唱・・・アッカデーミア・デル・サント・スピリト合唱団(フェッラーラの合唱団で、名前は1598年に創設されたフェッラーラのアッカデーミアに由来。作曲家のフレスコバルディやレグレンツィもメンバーだった)

ヴィヴァルディとアリオストの『オルランド・フリオーソ』の関係はちょっとややこしいので整理しておこう。

簡単に言えば、ヴィヴァルディのオルランド関係は3作品ある。

1713年11月にジョヴァンニ・アルベルト・リストーリ作曲、グラツィオ・ブラッチョーリ台本で《オルランド・フリオーソ》(RV.anh.74)が初演される。これは純粋なヴィヴァルディ作品ではないが、リストーリの曲に加えて彼の曲が加わっている。彼は劇場支配人としてこの作品を上演したのだ。好評であった。
翌1714年に、ヴィヴァルディはヴェネツィアでのデビュー作として《オルランド・フィント・パッツォ》(RV727)を初演する。これはオルランドものではあるが原作はボイアルドの『恋するオルランド』。しかしこれが大失敗だった(というのが通説で、そうではなかったという異説もある。資料が十分でないため決定的なことが言えないようだ)。

大失敗説を一応採っておくと、そのシーズンの穴埋めをするために、大急ぎで、前年の《オルランド・フリオーソ》を元に彼の曲を加え、台本にも手を入れて彼とリストーリの曲が混在した《オルランド・フリオーソ》を作った。これにはさらにヴィヴァルディの曲が加わっている(RV819ー近年になって作品番号がついた)。

そこから10年以上が経過して1727年にサンタンジェロ劇場のオペラ監督だったヴィヴァルディが作曲したのが《オルランド》(RV.728)である(通常、《オルランド・フリオーソ》と呼ばれるのはアリオストの原作によるものか)。これは以前のリブレットに手が加わり(それが誰かは不明なのだが、ヴィヴァルディ自身ではないかという説もある)、今度はすっかりヴィヴァルディによって作曲された。これが今回バイロイトで上演された《オルランド・フリオーソ》である。ちなみにフリオーソでもフリオーゾでも同じ(どちらの発音も正しい)。

 

 

 

 

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2024年9月10日 (火)

クリストフ・ルセのランチ・コンサート

ルセのランチ・コンサートを聴いた(エルミタージュ、バイロイト)。

バイロイトのはずれに離宮があって、そこでのランチ・コンサート。実はディナー・コンサートもある。

ルセもオペラ、カンタータ、独奏と3日連続でご苦労様である。

この離宮でのランチ・コンサートは毎年開催されている。離宮のカーブした長い回廊(ウィング)で食事をし、その後、礼拝堂に移ってミニコンサートがある。

演奏者は数人のこともあれば、今回のように一人(チェンバロ独奏)のこともある。

ルセのプログラムは、クープラン(1668−1733)、ラモー(1683−1764)、Antoine Forqueray (1672-1745) でフランス・バロックを短い時間だが堪能した。

クープラン、ラモーはともかく、Forqueray は初めてだったが、彼の音楽は二人に比べて、少し優美さ、華麗さを落とし、むしろドイツ的というかオスティナートで押してきたりして異なる味わいがあり、たいへん面白かった。ほぼ同世代で、埋もれた作曲家の中に未来を予見させる要素があったのかもしれない。今、wikiを調べてみると、彼の音楽は激しい表現の衝動から「悪魔のフォルクレ」と言われたという。なるほど。ひたすらにエレガンスを追求するという意図は本人にそもそもなかったということなのだろう。

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2024年9月 9日 (月)

サンドリーヌ・ピオのリサイタル

フランスのソプラノ歌手サンドリーヌ・ピオのリサイタルを聴いた(バイロイト、オルデン教会)。

オルデン教会はバイロイトのややはずれにある。18世紀にはこの裏手に大きな池というか湖が広がっていて、バイロイトの領主は船を浮かべて模擬戦争をやったという。今は埋め立てられてその池・湖はない。

カンタータがメインなのでプログラムを参照しつつカンタータについての整理を。

筆者自身も数年前までカンタータといえばバッハの宗教カンタータが思い浮かぶ状態だったので、それはある意味で極端なパースペクティヴだということが最近は実感できている。

カンタータは大まかにいえば1630年代くらいにイタリアで出てきた。初期のカンタータは、歌の旋律と通奏低音だけが記されている楽譜も多いそうで、貴族の館などで演奏されることが多かった。せいぜいそこに一丁か二丁のヴァイオリンが加わる程度だった。

バッハのようなフルオーケストラのカンタータ(宗教カンタータ)はドイツのプロテスタンティズムに特有の現象なのである。

イタリアでは、貴族の当主やその妻の誕生日や聖名祝日、子供の結婚など、お祝いに際してカンタータを作って祝うというジャンルであった。18世紀に入る頃から、レチタティーヴォとアリアの連なる曲であるという形式が固まってきた。カンタータの生産地としては、ヴェネツィア、フェッラーラ、ボローニャ、ナポリそしてローマが挙げられる。

ローマの名家、オットボーニ、ボルゲーゼ、パンフィリなどは、カリッシミ、チェスティ、ストラデッラ、ヘンデルらにカンタータを書かせてきたのだ。とりわけ、ローマでは、時の教皇がオペラ上演を禁ずることがあったので、世俗カンタータが栄えた。要するに小型のオペラ、ミニチュア版オペラとしてもてはやされたのだ。

1699年シャルル・アンリ・ド・ロレーヌがミラノに入城する。この人ロレーヌ公国の貴族なのだが、スペイン・ハプスブルク家に軍人として仕えていた。1701年にスペイン継承戦争が起こるので、このあたりのヨーロッパの領主は単に世代交代だけでなく、入れ替わりや移動が激しく、またそれに音楽家も間接的な影響を受けていることが多々ある。シャルル・アンリは、音楽家として、ミシェル・ピニョレ・ド・モンテクレールを連れてきた。結論からいえばミシェル・ピニョレはこのミラノ滞在により、イタリア風カンタータの影響を受け、オケにコントラバスを持ち込むことになった。リュリとラモーの間の人である。ただし、1706年にジャン・バティスト・モランのカンタータ集が出版されている。

モンテクレールは1667年生まれで、1686年にパリに出てきた。ミラノ滞在を経て1702年か03年にはパリに戻ったのだが、作曲家としては遅咲きだった。彼の書いたカンタータの一つが当日演奏された《ルクレツィアの死》である。

続いて演奏されたのはコレッリのコンチェルト・グロッソ第一番。

ドメニコ・スカルラッティの 《Tinte a note di sangue》

アレッサンドロ・スカルラッティの4声のソナタ。

ヘンデルの 《Agrippina condotta a morire》

世俗カンタータの本場イタリアを中心にしつつ、フランスのカンタータ(ただし歌詞はイタリア語)、作曲されたのはスペインのD.スカルラッティのカンタータとよく考えられたプログラムである。

オケは、クリストフ・ルセ指揮のレ・タラン・リリック。このオケは2024年はバイロイト・バロック・フェスティヴァルのレジデンス・オーケストラなのである。

サンドリーヌ・ピオの歌唱は文句なく素晴らしかった。ここで演奏されたカンタータはどれも生きる、死ぬ、別れなど激しい主題なのだが、彼女は一声で音楽に緊張感が走るのだ。決して大声をあげるわけではない。ピアノでもフォルテでも必要なテンションが音楽に表出するのだ。しかも情熱的になったときに、様式感が崩れないのが素晴らしい。フレーズのおさまりがきれいなのだ。古楽器の演奏がフレーズをパッと切り上げるのと平仄が合う。迸るパッションとカント・バロッコの様式感は両立するのである。勢いにまかせて歌ってしまうところは皆無であり、アジリタもきれいだった。

アンコールはヘンデルのオペラ《ジュリオ・チェーザレ》から 'Se pieta di me non senti'  ともう一曲(詳細は不明)ヘンデルだった。

ちなみに会場のオルデン教会は、沢山の蝋燭が灯されていて独特の雰囲気だった。蝋燭型の電球ではなく、本物の蝋燭である。2台テレビカメラが入っていたので、後日なんらかの形でネットでも見られるようになるかもしれない。

 

 

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2024年9月 8日 (日)

ポルポラ《アウリデのエフジェニア》その2

ポルポラ作曲のオペラ《アウリデのエフジェニア》を再び観た(バイロイト、辺境伯劇場)。

さすがルセとレ・タラン・リリクである。初日の時より、ポルポラ節を掴んできた。

強弱やリズムのきれ、緩急に確信を持ってやってくるようになった。ルセとレ・タラン・リリクの場合、これまでのオケより練習時間が取れなかったようだ。ポルポラへの慣れが少ないから、実演を通して慣れる余地があるわけだ。

本番になってしまうと二重唱や三重唱は伴奏の部分に磨きをかけることは可能でも、二人、三人の掛け合いのテンポやアッチェレランド、リタルダンドは変えるのがむずかしかろう。

現代においては、練り上げられた重唱を聴くのは贅沢な経験なのである。

演出は衣装を含めほぼギリシア神話およびリブレットに沿っているのだが、3体の胎児らしきものが、木枠で囲まれたガラスの中に入って出てくるのはどういう意味だったのか。演出家ツェンチッチが我々に投げかけるオープンクエスチョンだ。

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2024年9月 7日 (土)

ルシル・リシャルドのリサイタル《バロックの魔女たち》

ルシル・リシャルドのリサイタルを聴いた(バイロイト、シュロス教会)。シュロス教会は、位置的には辺境伯劇場の真向かいで、階段をのぼった少し高いところにある。

リサイタルのタイトルは Baroque magicians でバロックの魔術師たちが直訳となる。

チェンバロ伴奏は Jean-Luc Ho.

プロフラムは3つの部分からなり

メデ(メデア)に関するものが、ヘンデル、カヴァッリ、Juan Cabanilles (1644-1712), シャルパンティエのオペラから。

アルミードに関するものが、リュリとダングルベールから。

チルチェ(キルケ)に関するものが、William Webb (1625-1680) , パーセル、クープラン、Francois Collin de Blamont (1690-1760)からという具合。

音楽祭のプログラムは、既知の有名作曲家とあまり知られていない作曲家が組み合わせられることが多い。今回もその例に漏れない。この方法だと聴く側は、既知のものを基準に、未知の曲をそれなりに位置づけることが可能だし、それによって自分の音楽世界の地平を広げることができる。未知の作曲家、楽曲に出会うのも楽しいものであるし、またそこから有名な作曲家が時代を超えて残った理由もほの見えることもある。

ここからはプログラムの Judith Altmann の解説を参照しつつ。

オペラに出てくる魔女はなかなか面白い存在で、一方で人間を超えた力を発揮しつつ、他方で、人間同様に恋に落ちてそれゆえに苦しんだりもがいたり、その恋の感情に飲み込まれてしまったりする。

バロック時代の劇場には宙づりや、奈落があって、天上世界や地獄を舞台上に現出させることができたのだ。前述の通り、魔女には多面性があるので、歌手としても歌いがいがあるというものだ。

バロック時代の悲劇的主人公として筆頭に上がる一人が王の娘で、魔女でもあるメデアである。彼女の悲劇はエウリピデスやセネカにまで遡るが、中世にもさまざまなヴァリエーションが生まれた。

最初に挙げられるのは、カヴァッリ作曲の《イル・ジャゾーネ(イアソン)》で、1649年にヴェネツィア初演。黄金の羊毛を探しに行くジャゾーネが、メデアの故郷に上陸し恋に落ちる。メデアの力を借りて羊毛を獲得したジャゾーネは、メデアと元々の婚約者イシフィレの間で葛藤する。しかし何故かハッピーエンドで終わる。カヴァッリのオペラの中ではメデアが地獄の霊を召喚する場面がある。

シャルパンティエの音楽悲劇《メデー》は、トマ・コルネイユのリブレットで1693年パリのパレ・ロワイヤルで初演。カヴァッリの作品と比較するとより後の時点の話となっていて、ジャゾーネとメデーは結婚し、子供が数人いる。二人はコリント王クレオンの庇護下で暮らしている。ところがジャゾーネはクレオンの娘を好きになってしまい、メデーを追放する。彼女は第三幕で自分の悲劇的運命をアリア'Quel prix de mon amour'で歌う。その後、凶行に及ぶのだ。クレオンを狂気に追いやり、その娘を殺し、自分の子供たちも殺してしまう。ヘンデルも《テゼオ》でこの題材を扱っている。1713年ロンドンのクイーンズシアター初演。第二幕の 'Dolce riposo'が有名。

それとは対照的に魔女アルミーダの話は、古代から伝わったものではなく1575ねんに書かれた騎士物語タッソー作『解放されたエルサレム』

から来ている。エルサレムを征服しようという十字軍の騎士が途中で魔女の魅惑に屈してしまう話だ。アルミーダはキリスト教徒の勇者たちを動物に変えてしまうが、自分もリナルドという勇者に恋してしまう。リナルドが解放されてついにアルミーダはキリスト教に改宗する。これを音楽化した最初の一つがリュリの《アルミード》である。1686年、パレ・ロワイヤルで初演。二幕のアルミードのモノローグ’Enfin, il est en ma puissance' で恋の虜になった苦しみを表現する。この曲は人気が出たので、ダングルベールはこれを用いてチェンバロ組曲を作った。

チルチェ(キルケ)ですらも、愛の呪縛から自由になることはできなかった。孤島に住み野獣に囲まれ、人が近づくと魔術をかけるのだが、彼女も恋に落ちた。オデュッセウスが通りかかった時のことだ。オデュッセウスは故郷のイタカに帰るのだが、チルチェは留まり嘆く。William Webbやパーセルは彼女の誘惑する力を描いている。

リシャルドの歌唱は思ったほどバロック歌唱ではなく、実際、プログラムを見ると彼女のレパートリーは中世から現代までということで、プーランクやストラヴィンスキ、ブリテンなどともにヘンデルも歌っている人なのだった。音楽が盛り上がってくるとロマンティックな歌い方になり、どの時代のものも歌うヴァーサタイルなスタイルなのだと納得。

 

 

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ブルーノ・デ・サのリサイタル その2

リサイタルの追加情報。

ブルーノ・デ・サが歌う歌と歌の間に器楽曲が演奏されたことは前項で記した。

その曲は、もともとオルリンスキーのリサイタルの時に演奏されるはずの曲だったのではないか、という示唆をある人よりうけ、なるほどと思い、以下にオルリンスキーのプログラムに掲載されている器楽曲を紹介する。イル・ポモドーロにしてみれば、歌は歌手の都合で変わるけれども準備してあった器楽曲を変更しなければならないとは考えなかったであろうからだ。

ちなみにオルリンスキーが歌うはずだった曲は、モンテヴェルディ、カッチーニ、フレスコバルディ、バルバラ・ストロッツィ、カヴァッリ、ジョヴァンニ・チェーザレ・ネッティ、アントニオ・サルトリオなどで17世紀中心のプログラムである。

器楽曲として掲載されているのは Biagio Marini (1594-1663) パッサカリオ、Johan Caspar von Kerll(1627-1693) の2丁のヴァイオリンのためのソナタ、パッラヴィチーノ(1630−1688)シンフォニア である。17世紀の曲ですね。前半でたぶんマリーニのパッサカリオが演奏されたのだと思うが、随分、思索的な対位法を駆使した曲だという印象があったが、ヘンデルとヴィヴァルディにはさまれて実は17世紀の器楽曲が流れていた(可能性が濃厚な)わけだ。

当初のオルリンスキーのプログラムでは歌も器楽も17世紀だったのに対し、ブルーノ・デ・サのコンサートでは結果的に18世紀の歌と17世紀の器楽曲が対比的に演奏されることになったわけだが、個人的には味わいが変わるので、不思議な感じにつつまれると同時に大いに楽しめた。

 

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ブルーノ・デ・サのリサイタル

ブルーノ・デ・サのリサイタルを聴いた(バイロイト、辺境伯劇場)。

このリサイタルはオルリンスキーのリサイタルが予定されていたのだが、彼の体調が悪くなり、急遽ブルーノ・デ・サに変更となったものなのだが、結論から言えば、大変素晴らしいもので、ブルーノ・デ・サの成長を感じるものだった。

オケはイル・ポモドーロ。音楽祭では、フルメンバーではないことが多いが、今回はヴァイオリンが Alfia Bakievaで、身体をリズミカルに動かしつつ生き生きとした音楽をする人で、チェロのミナージが通奏低音部の核となっていた。ミナージのチェロは、淡々とリズムを刻んでいることもあれば、朗々と渡された旋律を歌いあげることもあれば、爆発的エネルギーをもって低音部を強調することもあるし、早いパッセージもどこまででもテンポを上げられるといった具合で、超絶技巧が極めて音楽的な闊達さと表裏一体になっているのだった。ある一曲では、ピッチカットのみなので、チェロをギターのように横にかかえてつま弾いていた。同じイル・ポモドーロでもチェロがミナージの時と別の人の時とでは音楽のキレが違っていることは経験ずみなのだが、今回もそれを強く感じた。

急遽決まったリサイタルなので、今回の音楽祭のプログラムは全体が一冊の冊子になっているのだが、それには前述のオルリンスキーが歌うはずだったプログラムが掲載されており、当日はペラの印刷物が配布された。ただしそこに掲載されているのは、デ・サが歌う曲目であり、実際には歌と歌の間に器楽のみの曲がはいりそのいくつかは興味をかき立てられる曲だったのだが、プログラムには書かれていないのだった。

デ・サが歌ったのは前半が2曲。

ヘンデルの Gloria in Excelsis Deo とヴィヴァルディの In furore iustissimae irae で、前者は6曲から構成されているし、後者はアリア、レチタティーヴォ、アリア、アレルヤの構成となっていて、かなり長大なものだ。イル・ポモドーロの音楽的な活気にみちつつ、構成力とデ・サがどう歌ってもきっちりサポートしてくれる安心感が基盤にあって、彼はのびのびと、しかし曲どうしにメリハリをつけて、なおかつヘンデルの最終曲Quoniam tu solus sanctus では嵐のようなテンポでアジリタを歌い抜け、それにイル・ポモドーロもよしきたとばかりに全力疾走し(そこで音楽の形が崩れないのがさすが)会場は興奮のうずにつつまれた。

後半も長めの歌と歌の間には器楽曲がはいったがパンフレットに掲載はなし。後半の歌はバロック・オペラからのアリアで、ヘンデルの《アーチ、ガラテアとポリフェモ》から 'Qui l'augel' .  ハッセの《マルカントニオとクレオパトラ》から 'Un sol tuo sospiro' . ポルポラの《Germanico in Germania》から ’Parto ti lascio'  . 最後はヴィヴァルディの《オリンピアデ》から 'Siam navi all'onde  algenti'. 

ハッセやポルポラのアリアは、難度が高く、難度が高いというのは技巧的にもそうなのだが、曲のつぼを歌手やオケがつかんでいないと練習曲のように響いてしまいかねないのだが、デ・サもイル・ポモドーロもここがつかみのフレーズというのは逃さない。繰り返されるフレーズが単調になることがなく、常に歌手とオケの間にコミュニケーションが成立していて、それは軽妙であったり、掛け合いであったり、緊張をはらんだものであったりする。バロック歌唱で超絶技巧を要するものは、当時はカストラートがいたわけで(女性が歌うこともある)、現在はカウンターテナーが歌うことが多い(女性が歌うこともある)のだが、デ・サの声は目をつむって聴くとカウンターテナーか女性歌手かわからないような特殊な声なのである。ソプラニスタであるといえばそうなのだが、通常のソプラニスタと比較しても、声量がある。彼の声は成長過程にあるようで、柔軟性や必要に応じた声量の供給において目に見える(耳に聞こえる)進化が感じられた。

彼の歌唱スタイルはツェンチッチやファジョーリと較べると、多少カジュアルなところがある。字体でたとえればカチっとした楷書より行書で流していく感じだ。フレーズの細部をつきつめていくとアラがないわけだはないのだが、こういうカジュアルなスタイルの愉しさもある。楽しそうに歌っていて、それがこちらにも伝染するのだ。

アンコールではヘンデル、ヴィヴァルディ、モーツァルトなどが歌われたが、こちらはアンコールでいっそうカジュアル度が増し、踊りながら、身体をスイングさせながら、ステップを踏みながら歌っていた。アンコールの最中に、マイクをとり、オルリンスキーに電話をするから、早く治るようにエールを送ろうと言う話で、最初は携帯を舞台に向けオケのメンバーがエールを送り、くるっと向きを変え観客もオルリンスキーにエールを送ったのだった。また、次のアンコールではオルリンスキーの代わりなのですが、彼のようにブレイクダンスはできません、でもサンバは踊れるよ、と言ってステップを踏んだ。デ・サは若いし、お茶目なところがあるのだ。彼の演奏スタイル、歌唱、キャラクターは世代を超えて、若い人、あまりオペラに慣れ親しんでいない人にもアピールする魅力があると思う。若いオペラファンが増えるといいなあ。

デ・サは去年はインスブルックの古楽音楽祭でヴィヴァルディの《オリンピアデ》で喝采をあびていた。バイロイトでも2年前のヴィンチの《インドのアレッサンドロ》で見事な女装と歌唱で大人気だった。来日はまだなのだけれど、本人は来たいとのこと。

 

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