2017年3月24日 (金)

『図解雑学 バロック音楽の名曲』

宮崎晴代著『図解雑学 バロック音楽の名曲』(ナツメ社、1650円)を読んだ。
良い本だと思うが、残念ながら古書でしか入手できない。本来CDが2枚付属しているのだが、古書のためCDが欠けているものもあるので、購入の際には注意が必要だ。
こういった音楽の本にCDがついているのはとても便利で親切だと思うし、この本の場合、CDにはいっている楽曲が必ず本文で紹介されているので対照する甲斐がある。
欧文の本で僕が経験したものだと、テクストは古楽器を紹介しており、CDも古楽器演奏なのだが、その両者の間にタグ付けがなくて、CDを聞いていてこの楽器の記述はどこにあるのかなと思ってもとても探しにくい構造になってしまっているというものがあった。
幸い、この本はまったくそういうことはない。見開きで、左側に曲の背景や解説、右側には、作曲家はこんな人というコンセプトのもとに写真や肖像画、簡略な年表と地図が掲載されている。この地図が親切で良い。ドイツの作曲家なら1つにまとめてしまうのではなく、各作曲家ごとに必ず出てくるので、左のページでリューベックがでてきて、どこだっけと思ったら、必ず右ページに地図がのっているのである。この親切さは、受験参考書に似ているような気がする。
第一部の名曲および作曲家紹介がメインなのだが、第二部以降でバロック期の楽器の紹介や、時代背景の解説もあり、構成としてしっかりしていると思う。普段は、通史的性格のものは読まない(必要な部分だけ拾い読みすることはあるが)ので、たまにこういうものを読むと、ふだん親しみのない作曲家、たとえばヴァイスがリュート曲の作曲家としては重要なのだとわかったりするのだった。

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2017年3月20日 (月)

寺西肇著『古楽再入門』

寺西肇著『古楽再入門』(春秋社、2800円)を読んでいる。

個人的に、ここ数年来、バロックオペラを熱心に観たり、聴いたりするようになって、その時のオーケストラは古楽器が比較的多く、しかし時にはモダン楽器のこともあって、自分の中の感性の何かが変わった気がする。
1980年代にアーノンクールやピノックやホグウッドをCDで聞いた時は器楽曲中心で、バロックの演奏法も昔と変わったし、音の感じもシャカシャカ軽いなあという受け止めであった。
しかし、バロックオペラを聴き出して、まずは歌手の唱法がヴェルディ、プッチーニを歌う人たちの典型的な歌い方と、ヘンデルやヴィヴァルディの歌う人たちの典型的な歌い方では異なることに気がつく。無論、中にはレパートリーが広い人もいて、両方歌っている歌手もいるわけだが、概ね住み分けがあって、一方のレパートリーに他方を専門とする人が混じっていると違和感を生じる場合もある。カウンターテナーでバロックレパートリーをメインとする歌手にヴェルディ、プッチーニを歌う女性歌手が唱法を調整しないで混じった場合には、様式感が合わない。歌舞伎に新劇の役者がたとえ衣装だけ身につけても溶け込めないのと同様だ。
やがて声だけでなく、楽器の音の響き方やフレージングの違いも気になってくる。古楽器やピリオド楽器とモダン楽器が違うというのは昔から知っていたのだが、細かいところは判らない。例えば、ストラディバリウスは何百年も前に製作されたのだから古楽器なのになんでモダン楽器として演奏されているのか?この本はそんな疑問に明快に答えてくれる。ヴァイオリンはバロック時代と現代ではネック(棹)の角度が浅く、魂柱は華奢にできている。それは演奏会場が貴族の館などであり、聴衆の数は少なく、大音量が必要とされていなかったからだ。また、標準ピッチも低かった。それが時代が下るにつれて、ガット弦に遅い銀線が巻かれ(知らなかった!)ついにはスチール弦も使われるようになった。大きな弦の張力に耐えられるように本体も改造された。ストラディヴァリやグァルネリも大抵の場合、改造されて表いたと裏板が別の楽器のものになってしまったケースもあるとのこと。
さらにはバロックヴァイオリンといっても地域差があって、バッハ時代のライプツィヒはネックの角度が浅いが、ヴィヴァルディ時代のヴェネツィアのピエタ修道院で使われていた楽器はネックの角度がモダン楽器と大差がなかったというのだ。
このほか弦に関してガット(羊の腸)弦では、地域によって羊が食する資料や生育環境の違いで腸の品質に影響し、音が変わるという。
弓についての記述も極めて興味深い。単に聞いているだけでもモダン楽器の奏者は均質さを重視し、どこで弓がかえったかわからないような弾き方をするが、バロックではダウンボウでは重みがかかり多く圧がかかり、アップボウでは解放されて軽くなり、両者の対比が明確、呼吸するようなフレージングとなる。
モダン楽器は、音の均質さを追求していることがわかりやすいのはピアノだろう。鍵盤楽器の中でもそれまでは撥弦楽器だったのに、打楽器的性格になってしまったわけで、これは楽器だけの問題ではなく、西洋近代というのが目指した方向性を象徴的に現れていると思う。
本書はもちろん、ヴァイオリン系列とヴィオラ系列の違いも明快に説明してくれるし、フォルテピアノやチェンバロについての話もある。
最初に楽器についての章を紹介したが、実は第1章はメンデルスゾーン以降の古楽復興の歴史であり、第2章は概ね20世紀以降の各国での古楽復興に際して活躍した人・団体の紹介である。
それぞれの章に「読む・聞く・観る」という参考文献・ディスクのコーナーが註釈つきであるのも大変親切だ。

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2017年3月 7日 (火)

バリトンという楽器

バリトンといえば通常はある音域の歌手をさすが、最近テレ

ビでヴィオラ・ダ・ガンバの一種であるバリトンという楽器

を見た。

 

これは、イタリア語ではヴィオラ・ディ・ボルドーネという

らしい。

 

テレビというのは、NHKのドイツ語番組で、旅するドイツ

語という。2016年度からイタリア語もスペイン語も旅する

〇〇語という風にタイトルが変わったのである。タイトルの

変化に応じて、それぞれの語学の地に行ってオールロケにな

っている。旅するドイツ語の場合は、ヴィーン及びその周辺

の町が舞台なのだが、その中で、エスターハージ宮殿が紹介

され、その宮殿を建て、ハイドンの雇い主であったエスター

ハージ侯爵に言及があった。調べてみると、ドイツ語だとエ

スターハージでハンガリー語だとエステルハージのようだ。

 

名前もドイツ語ではニコラウスだしハンガリーだとミクロ

ーシュ。この侯爵がバリトンという楽器が好きで、ハイドン

は彼のために約160もの曲を作った。

バリトンはヴィオラダ・ガンバに似ていて床につけずに膝

に抱えて弾くが、棹(ネック)の裏に共鳴弦があるところが

大きく異なる。表の弦を弾きながら、裏の弦をはじいてもよ

いのだ。共鳴するので表の弦だけ弾いた時にも音色、響きは

独特である。

興味を持って4枚組のCDを買ってみた。ほとんどがヴィオ

ラ、チェロとのトリオ(三重奏)なのだが、中には八重奏の

曲もある。また、トリオには主題がキラキラ星を用いている

曲もあった。曲は概ね親しいもの同士の打ち解けた会話とい

った風情で、激しく攻めるような曲ではない。

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《デイダミーア》

ヘンデルのオペラ《デイダミーア》を観た(東京文化会館小ホール)。

セミステージで、バロック劇場の装置を模したように襖のような装置が何枚かある。衣装はドレスを着て、バロックジェスチャーにのっとった動き。バロックジャスチャーは、様式美があり、ヘンデルの音楽に合う。オケは弦、木管、金管合わせて13人ほど。小ホールだとこれで十分の人数であり音量だ。
歌手も声を大きく張り上げることに注力する必要が相対的に小さいし、オケに埋もれてしまう心配もほぼない。ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバス、チェンバロの他にオーボエ、ファゴット、そして金管のトランペットとホルンがいたので音色の変化に欠けるところは全くなかったし、原雅巳氏の指揮、コンサート・ミストレスのリードよくキビキビとした音楽とゆったりとしたところでは表情豊かな細かい味わいを享受することができた。
この日のホルンはナチュラルホルン(ピストンがない)で音程はピストンが無い分、不安定になりがちだが、音色は独特のものがあり、ナチュラルホルンの音色はピリオド楽器によくマッチすると感じる。
ストーリは、バロックのオペラではままあることだが、トロイ戦争をめぐる話が元になっている。長い長い話の中でこの《デイダミーア》で扱われているのは、ある1つのエピソードだ。すなわち、アキッレ(将来の英雄)が生まれた時に、アキッレが参加しないとトロイ戦争に勝てないが、アキッレは戦場で死ぬ、という予言がなされた。そのため親は、スキュロス島のリコメーデ王にアキッレを預け、アキッレは念を入れて女の子として育てられる(女装している)。トロイで苦戦しているギリシア軍は、ウリッセ(オデュッセウス)とフェニーチェ(アルゴスの王子)を派遣して、この島にアキッレがいるのではないかと探らせる。リコメーデ王は否定するのだが、ウリッセが一計を案じて、狩をするのだが、お礼の品を持ってくるとデイダミーア(リコメーデの娘でアキッレの恋人)やその友人は宝飾品に目がいくのだが、アキッレは女装しているけれど、剣やカブトに夢中で正体がバレる。この正体がバレる場面は、つい最近まで気がついていなかったのだが、様々な画家が絵画の主題として描いている。
ヘンデルはこの場面、つまりアキッレがギリシアの勇者として祖国を守る戦いに行くぞ、という音楽と、それを聞いてデイダミーア(出征したらどういう運命が待ち受けているか知っている)が悲しむ音楽、そしてウリッセがこれは運命のなせるわざなのだと感慨を漏らす音楽、三者三様なのだが、この3つの音楽が明らかにこのオペラのクライマックスである。
ここでアキッレを歌ったのは民秋理(敬称略、以下同様)は、女性歌手であるが、男が女装しているという感じをストレートな歌いまわしに実によく表現していて見事だった。それを受けて悲しみを表出するデイダミーアの藤井あやは、前述のようにバロックジェスチャーにのせて悲しみを音楽的表情豊かに歌い上げるのだが、決してロマン派風にはならず典雅な歌に心うたれた。それに続くウリッセは佐藤志保で、声はやや細身であったが歌のスタイルは様式感を保っていた。
デイダミーアの親友ネレーアを歌った加藤千春の歌、演技も好演であった。ネレーアの部分はデイダミーアとはほぼ対照的で後のオペラブッファにつながって行くようなユーモラスな場面や歌が多いのだが、その性格を演技でも歌でも的確に表現していたので、デイダミーアとのコントラストが観客にもわかりやすく、それによって舞台・ドラマ自体の光と影がくっきりと浮かび上がるのだった。この上演では男性歌手はフェニーチェとリコメーデ、春日保人と藪内俊弥で、どちらも堂々たる歌。特にリコメーデはこの劇が単なる恋愛劇ではなく、政治的な劇(アキッレを参戦させたくない人と参戦させたい人の綱引き)の面があることを聴衆に示す役割を果たしており、そういった含蓄を歌に表現していた。
この上演はヘンデル協会によるもので、以前にこの作品にまつわるレクチャーなどもあったのだが、こうやって見てくるとこのオペラを恋愛ものと見ることも可能なのだが、同時に、アキッレやウリッセが、ヘンデル当時の誰を表象しているのかという政治的な読みをすることも可能だろうと思う。これはレクチャーで三ケ尻正氏が解説していた通りである。

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2017年3月 1日 (水)

《トスカ》

《トスカ》を観た(東京文化会館)。

二期会、指揮はルスティオーニ。彼の指揮は実に見事だった。スカルピアの「行け、トスカ」はオケが単調になりがちだが、彼が振ると同じリズムの繰り返しにスイングする部分が生まれ、リズムが生きてくる。
彼の指揮は、テンポ設定が巧みで、歌手が伸ばしてテンポが遅くなった時に、次のフレーズでさっと元に戻す、その戻し方が決してギクシャクしないですっと元に戻っている。また、弦の鳴らし方が、プッチーニが手放しで歌わせているようなところでも抑制の効いた上品な響きになっているので、通常の指揮者のプッチーニよりも幾分上品な感じになる。またその結果、弦と管楽器のバランスがよくなり、管楽器の音がよく聞こえるし、オケ全体の音色の変化が聴衆によく伝わる。
歌手はいずれも熱演だった。舞台は、いかにもイタリアの教会やサンタンジェロを思わせるオーソドックスなものであるところが良かった。

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《冥土の飛脚》

文楽の《冥土の飛脚》を観た(国立劇場)。

作者は近松門左衛門。文楽の場合、オペラと異なり、一作の全部を上演することはむしろ稀で、通して上演するときは通し狂言とわざわざ断るほどで、今回も淡路町の段、封印切の段、道行相合かご、が演じられた。
梅川忠兵衛という飛脚屋の若旦那が遊女梅川にいれあげ店の金を使い込み、破滅の道へという文楽にはままある話。淡路町の段とあるが、東京の淡路町ではありません。忠兵衛は、友人に渡すはずの金をごまかし遊女の身請けの金の一部にあててしまう。忠兵衛が三百両を持って取引先に届けようか、色街へ行こうか迷う場面が見せ所。金を「おいてくれう、いてのけう」と何度も繰り返す。置いてこようか、(色街へ)行ってしまおうか、という意味であろう。義太夫の台詞回しが見事。封印切の段は、場面が廓。忠兵衛は、見栄っぱりで、金があるところを見せようとして、金貨の封を切ってしまう。
道行きは、駆け落ちの場面。形式的には身請けの金を払ったものの横領した金であることはいつかバレる。二人は死を覚悟で、忠兵衛の故郷へ向かう。

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《ベルファゴール》

レスピーギのオペラ 《ベルファゴール》を観た(初台、新国立劇場、中劇場)

カンディダという女性とバルドが恋仲なのだが、地獄からやってきた悪魔ベルファゴールは、カンディダの父に大金を渡し、カンディダとの結婚を申し込む。
ベルファゴールは人間の女性というものとの結婚がどんなものかを知るために地獄から派遣されたのだ。金を渡されたカンディダの父は、それなら私の妻をどうぞ、などと言うセリフがあって、冒頭からオペラ・ブッファの雰囲気が濃厚である。
形式的には結婚した後もカンディダはベルファゴールの愛を受け入れない。それどころか、スキを見つけてバルドと駆け落ちをする。
前半の喜劇的な部分では音楽は雄弁に状況を語っている。しかし後半、カンディダとバルドの恋愛感情の表現になると、ヴァーグナー以降の悪弊で、アリア的な曲がなく、メローディアスな快感が得られない。レスピーギももったいないことをしたなあ、と言う感じを勝手に抱いた。しかし、演じようによって相当、面白い劇であり、特にブッファなところは音楽的にも聞きがいがあると思った。
CDは入手困難であるし、Youtube にも画像なしの演奏が1つ上がっているだけであまり録音状態も良くない。やはり日本語字幕付きで見ると、音楽劇の劇の部分はとても良くわかる。つまり、どんなセリフのところにどんな表情の音楽が付されているかが分かるので、ありがたい。レスピーギのオペラはもっと見直されて良いのかもしれない。このオペラの初演は1923年であるから、プッチーニの《トゥーランドット》やベルクの《ヴォツェック》と近い訳である。20世紀のオペラの浮沈を考える際にも意義深い公演に出会った。

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2017年2月15日 (水)

アンサンブル・レ・フィギュール「愛のかけら」

アンサンブル・レ・フィギュールという古楽アンサンブルのコンサート「愛のかけら」を聞いた(東京・初台、オペラシティ内の近江楽堂)。

近江楽堂というのは、初台のオペラシティの3Fにある小さなホールで、丸天井で、天井には十字の切れ込みがあり、さらには、アルコーブには舟越保武氏のマグダラのマリア像があり、明らかに礼拝堂などをイメージした作りである。座席120ほどでこじんまりとしており、演奏者と観客が親密な空間を共有できる。
アンサンブル・レ・フィギュールは、バロック・ヴァイオリン、ヴィオラ・ダ・ガンバ、チェンバロ、フラウト・トラヴェルソの4名の古楽器(ピリオド楽器)奏者からなり、この日は、フランス人カウンターテナーのポール=アントワーヌ・ベノス・ディアンが加わり、フランスのカンタータを歌った。
なぜフランスのプログラムかという点については、アンサンブル・レ・フィギュールの面々が日本出身だがパリ在住で大半がフランスで学んだ経験をもつということもあるのだろう。
曲目は第一部が
N.ベルニエ 序曲 カンタータ「夜明け」より
M.ランベール 宮廷歌曲「優しく誠実ないとしい人」(いとしい人というのが女羊飼い、という牧歌の伝統を踏まえている)
N.ベルニエ 「アマントとリュクリーヌ」
休憩10分を挟んで
第二部は
L.クープラン 前奏曲ト調
M. ランベール 宮廷歌曲「私の瞳よ、どれほどの涙を流したのだろう」
L.N.クレランボー ソナタ ラ・フェリシテ
L..N.クレランボー「ピュラモスとティスベ」
クープランなどは、チェンバロの独奏だったりするが、主となるのは、カウンターテナーが出てくるカンタータである。
ベノス・ディアンの声、発声は実に自然で、引っかかるところが感じられないし、表情づけ、音楽的なアクセントも完成度が高い。ヴァイオリンやフラウト・トラヴェルソも弾むむところはは弾み、リズム、音色ともに音楽的楽しさを享受できた。ヴィオラ・ダ・ガンバは、小ぶりのチェロという感じだが、脚の間に挟み楽器が床についていない。また、弓の持ち方が下からもつ感じで異なっている。もっと多人数の中では別として、この日は奏者は4人だったので、これがヴィオラ・ダ・ガンバで、その音色(案外低い音が響くーもしかするとホールのせいでもあるかもしれないが)がはっきりと認識できて興味深かった。通奏低音を担当することが多いが、対位法的な受け渡しで、ヴァイオリンやフラウト・トラヴェルソと同じ旋律を軽やかに弾くこともあるのだった。チェンバロは楽器がkubota 2006 と書かれたもので、京都でのコンサートで使用された楽器(ネットで拝見)とは異なるようだった。
個人的には、クープラン以外、これまで馴染みのない作曲家だったが、ベルニエもランベールも17世紀、18世紀の音楽であり、ヘンデルやヴィヴァルディ、あるいはそれ以前の作曲家と共通の音楽語法を持っており、親しみを感じた。バロック音楽の領域の広大さを感じたし、 プログラムに対訳で歌詞が掲載されていたのは大いに役にたった。
また、楽曲の演奏前にフラウトの石橋氏が簡潔な解説をしてくれたのもとても良かった。
この演奏会の存在を知らせてくれた知人に感謝。
この日、配布されたチラシを見て、今更ながら驚いたが、バロックや古楽器のコンサートは東京圏に限っても随分多いのだ。個人的には、ごく簡単な装置のセミステージで良いのででバロックオペラがもっと上演されるようになったらなあ、と思う。フランス・バロックで言えば、できれば、バロック式のバレエが伴えば言うことなしであるが。。。
それはともかく、この日のコンサート、素敵でした。           

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2017年2月 1日 (水)

『ガリバルディ イタリア建国の英雄』

藤沢

藤澤房俊著『ガリバルディ イタリア建国の英雄』(中公新書、820円)を読んだ。

大変に面白かった。藤澤氏のものは、新書であれ、専門書であれ、独特の語り口を持っている (ご本人がスピーチをする際には一層それが際立つのだが、ここでは省略)。
本書で言えば、「はじめに」に現れているように差し出すエピソードの鮮やかさがまず第一に挙げられよう。ここで挙げられているのは、2つ。1つは、ガリバルディに関する教理問答(本来はカトリックの教えを問いと答えにまとめたもので、これはそのパロディに当たるわけだが、こういうものが存在していたこと自体が驚きである)
質問は ガリバルディとは誰ですか? 何人のガリバルディがいますか? どこにガリバルディはいますか?(正直なイタリア人のすべての心のなかにいます)などなど。ガリバルディを巡る問いは、カトリックの教理問答 における神を巡る問いによく似ているわけなのだ。
もう1つのエピソードは明治期におけるガリバルディ熱で、三宅雪嶺がガリバルディと西郷隆盛を比較したこと、与謝野鉄幹は「妻をめとらば才長けて」で始まる「人を恋ふる歌」の7番で
妻子を忘れて家をすて
義のため恥をしのぶとや
遠く逃れて腕を摩す
ガリバルヂイや今いかん
こうした巧みな導入に誘われ、ガリバルディを巡る人間模様に引き込まれていく。ガリバルディがシチリアに千人隊で乗り込んだのは、クリスピ(後の首相)らシチリアの民主主義者の要請に応じてであったこと。ガリバルディはマッツィーニの影響を受けた共和主義者だったのだが、かなり早い時点からヴィットリオ・エマヌエーレ2世に忠誠を誓っていること。カヴールは、ガリバルディのカリスマや戦闘能力を評価しながらも、自分の指示に従わない厄介者扱いもしていること。ヴィットリオ・エマヌエーレが宰相カヴールとガリバルディの板挟みになっている面があることなどが、場面、場面に応じて描かれる。
さらにガリバルディが戦術には長けていたが、シチリアの農民の要望には考えを巡らしていなかったことや、彼の女性関係も簡潔だが、ポイントを押さえて叙述される。1860年50代前半の英雄ガリバルディは、18歳の侯爵令嬢と電撃結婚をするが、この令嬢がなかなかの食わせ物だった。晩年、カプレーラ島で彼の身の回りの世話をし、彼の子供を複数宿すフランチェスカと結婚するために、侯爵令嬢との離婚(婚姻無効)を獲得すべく苦労している。
ガリバルディは前述のように明治時代の日本でも注目を浴びたが、ガリバルディ熱は日本に留学していた崔南善(チェナムソン)によって、韓国にまで伝えられている。

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2017年1月26日 (木)

『近代ヨーロッパとキリスト教 カトリシズムの社会史』

『近代ヨーロッパとキリスト教  カトリシズムの社会史』(勁草書房、4500円)を読んでいる。

編者が中野智世、前田更子、渡邊千秋、尾崎修治(敬称略)の4人。この本は、序で中野氏が書いているように、日本では、西欧近代というと宗教の役割は大きく後退したと思いがちであるが、実際に各国でどのように機能したのかを、極めて具体的な事例に即して論述した本である。
特にカトリック信仰が中心に据えられている。つまり、日本では、プロテスタンティズムの誕生とともに、カトリック教会やカトリシズムへの関心が薄れてしまいがちなのだ。
最近の研究では、カトリシズムをナショナル・アイデンティティーを妨げる敵とみなす見方は19世紀的なものであるという見直しが進んでいるとのこと。
つまりカトリックと近代の関わりは無視できないほど重要なのだ。
例えば第1章、前田更子氏の「神のいる学校 19世紀フランスにおける女性教師の養成」では
○1880年代に一連の政策で公教育が世俗化されるまで、宗教的雰囲気に満ちていた
○3共和制以前は、公立校でも「道徳・宗教」は初等学校の筆頭科目で公教要理に加え、聖史や聖歌を習った。
○フランス革命期に閉鎖に追い込まれた女性修道会を復活させたのはナポレオンである。
○1800〜20年にフランスでは二十の女子修道会が認可されている。1820年〜60年には年平均6団体というペースで女子修道会の認可ラッシュが起こる
こういった具体的なデータに基づき公教育の教員のなり手は女子修道会出身者出会ったことが明らかにされるし、またそれは何故だったかが論じられる。
第7章、尾崎修治氏の「世紀転換期ドイツの赤い司祭 H.ブラウンスとカトリック労働運動」では、第一次大戦後のヴァイマル共和国では、労働者の保護、生活保障、権利の拡大が実施されたが、その時の労働大臣ハインリヒ・ブラウンスはカトリックの司祭だった!彼は8年に渡って社会保障制度の確立に取り組んだのである。
 その背景には、ドイツの西部の工業地帯では、工場労働者を支援する赤い司祭が誕生したこと。その誕生の理由として、工場労働者が信仰を喪失するのではという危機感があったことなどが説明される。つまり労働運動を牽引したのは社会民主党だけではなく、カトリック労働運動もあったということなのだ。
 本の中ではブラウンスの生い立ちから丁寧に説き明かされている。
第10章、村上信一郎氏の「マフィアとカトリック 犯罪と悔悛」も興味深い。20世紀半ばのマフィアの活動の性質の変化、1980年代まではカトリック教会の高位聖職者がマフィアの実態を把握しておらず、シチリア的心性と捉えていたことなどが語られる。
 マフィアの基本的な性格が説明され、マフィアのボスが信心深いことが数々の具体例を伴って明らかにされる。シチリアの司祭がマフィアに対する強い指導力を発揮できなかった理由の1つとして村上氏はスペイン・ブルボン朝支配下のシチリア王国やナポリ王国の教会制度をあげている。イタリア語で chiesa ricettizia と呼ばれるが適当な訳語がなく、氏は在地世襲聖職者任命権を受託された教会としており、その本質は私有教会で、地域の有力家族や地域共同体が教会を建立する一方、その家族ないし共同体が司祭の地位を世襲するものだった。
 ここにとりあげたのは、ほんの一部にすぎないが近代以降の西欧社会とカトリック教会・信仰との関係を、さまざまなトピックをとりあげて論じた本であり、貴重な視座を与えてくれるものと思う。

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2017年1月23日 (月)

《ヴェルディのプリマ・ドンナたち》

小畑恒夫著《ヴェルディのプリマ・ドンナたち》(水曜社、3200円)を読んでいる。小畑氏はすでにヴェルディの伝記も書いておられるし、訳書で《評伝ヴェルディ》もあり、また、日本ヴェルディ協会の会報には、もう何年にもわたってヴェルディの手紙を紹介する論考を執筆中である。

今回の《ヴェルディのプリマ・ドンナたち》は、ある意味では、ヴェルディのオペラ全作品の解説集なのだ。改作ものは別として、全26作品が時代順に1章ずつ紹介されている。各作品の紹介は3つのパートからなっている。
1.ヒロインからみたあらすじ紹介。通常のあらすじ紹介とちょっと視点をずらして、厳密にではないが、概ね女主人公の立場からのあらすじになっている。
2.第二のパートでは、作品の背景や原作や、ポイントとなるアリア、二重唱が歌詞つきで紹介される。歌詞は通常のアリアの紹介では冒頭の一行ということが多いが、この本では、6行とか8行とか時には10行以上に渡って日本語訳の歌詞(つまりはリブレットの一部)が数カ所引用され、その見所、聴きどころが、ドラマの展開上の役割と音楽的にどんなことが生じているかが、明快に説明される。
 例えば、《イル・トロヴァトーレ》のレオノーラの「これを信じるべきなの?信じてもいいの。(中略)。。。あなたは天国から下りていらっしゃったの?それとも私が天国のあなたのそばにいるの?」に対し、「レオノーラの口からはひと言ずつ確かめるように言葉が漏れ、やがてそれは躍動するフレーズになり、ついには最後の2行で大きな跳躍をを伴う力づよいメロディへ発展する。レオノーラのこの歌から始まる5重唱は、形式としては『大きな驚きの後に来る静止した重唱」の系譜を引くが。。。」といった具合である。
3。第三のパートは、初演の時ヒロインのパートを歌った(創唱した)女性歌手についてだ。彼女がどんな履歴を持っているのか、ヴェルディとどういう関わりがあり、ヴェルディはその歌手のどんな特質を評価していたのか、などなど。
3つのパートから作品を立体的に捉えることが出来る構成となっているが、作品の勘どころの解説は音楽とストーリー展開がどう絡むのかを実に的確に教えてくれる。
ちなみにヴェルディのオペラ全作品の解説本は、永竹由幸氏によるものと、高崎保男氏によるものがある。ヴェルディの演奏を様々な歌手、様々な指揮者で楽しむのと同様に、ヴェルディのオペラを3者3様の解説で楽しむことをおすすめしたい。
 
 

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2016年11月 1日 (火)

《ドン・パスクワーレ》

ドニゼッティのオペラ《ドン・パスクワーレ》を観た(琵琶湖ホール)。

沼尻竜典指揮(敬称略、以下同様)、日本センチュリー交響楽団。タイトルロールは牧野正人。医師マラテスタ須藤慎吾, ノリーナ砂川涼子、エルネストはアントニーノ・シラグーザ。砂川涼子はコミカルだったり、ずる賢かったり、ちょっと意地悪だったりするノリーナを巧みに演じ、歌いこなしていた。シラグーザは別格の歌。

《ドン・パスクワーレ》というのはかなり妙な曲想のオペラである。一応はオペラ・ブッファに分類できるのだが、ブッファというにしては哀愁にみちた曲、シリアスな曲想が相当に多いのである。また、ストーリ的にも、従来のお金または権力をもった年寄りを若者カップルが出し抜くというパターンを踏襲しながらも、終わり方があまりに唐突で、しかも年寄りに対する説教が長々続き、終わり方がカラっとしないのである。

同じ作曲家の《愛の妙薬》と比べると好対照をなしていると思う。ネモリーノにも「人知れぬ涙」という哀愁を帯びた曲があるがこれはオペラ全体の後半に出てくる。前半はひたすら明るいのだ。しかし《ドン・パスクワーレ》のエルネストは最初から、ノリーナと別れねばならないと嘆くのだが、その嘆きにコミカルな要素は全くない。あるいは、なんとか今の境遇を跳ね返す策略を思いつくぞといった意気込みもないのだ。オペラ・ブッファとしては妙な曲想なのである。

エルネストだけではなく、ドン・パスクワーレの歌もそうだ。彼が結婚したいと思い、友人の医師に紹介される娘は実はノリーナなのだが、医師マラテスタは自分の妹で修道院にいた世間知らずの無垢な娘だと言って紹介し、ドン・パスクワーレはそれをすっかり信じ込む。といった具合なので、ドン・パスクワーレがたとえば《セビリアの理髪師》のドン・バルトロみたいにやっつけてやれ、という存在になりきっていないし、実際に、ノリーナに平手打ちをくらったあとのドン・パスクワーレには観客の同情が集まるようなしんみりとした音楽が流れる。

むろん、これはドニゼッティがそういう類の音楽をわざわざ選んでいるのである。そういったわけで、このオペラは単に歌うということに技巧を要するだけでなく、人物造形をどうするか、という演技や性格・表情の歌いわけの課題が歌手にのしかかる。指揮もそうである。全体をどうとらえるかがとてもやっかいだ。

こうした独自性の強い複雑な性格のオペラを実演で観られてよかった。その経験を基準に、過去のCDやDVDを観ると、さまざまな役作り、表情づくりがあることがよくわかった。

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«レザール・フロリサン、《イタリアの庭でー愛のアカデミア》