2018年11月19日 (月)

『宗教改革とその時代」その2

小泉徹著『宗教改革とその時代』の続きです。

ルターの95箇条に先立つ40年間に主権国家が出現した。イギリスではバラ戦争ののちテューダー朝(1485-1603)が成立。ドイツでは領邦単位の統合が進んだ。

 主権国家や領邦と、普遍的(国家を横断した組織である)教会が対立することはままあった。だからルターをザクセン選帝侯フリードリヒがかくまったのは偶然ではない。

 イングランドのヘンリ8世もプロテスタンティズムの神学の細部 には何の関心もなかった。エリザベスもそうで、自国内にローマ・カトリック教会から独立した国家教会を作ることが目的だった。

 カトリック教会から離れると、王権と教皇の権威が離れるので、王権神授説が必要になる。

 イギリスにおけるカトリックの差別は、統治の問題。カトリック神学を信じているのがいけないのではなく、国家教会の儀式に参加しないのがいけないとされた。イギリスではカトリックは1829年まで市民権を剥奪されていた。

 イングランドには1530年には800の修道院があったが1540年には全て解散して(させられて)しまった。修道院の解散は修道院の土地・財産を目当てにしているわけだが、主権国家は恒常的に財政難だったので、ここに目をつけたのはイングランドだけではなく大陸でも同様だった。

 宗教改革以前、民衆は異教に起源を持つ祭り(クリスマスやイースター)も楽しんでいた。が、プロテスタントはそれを攻撃。イングランドでは17世紀には宗教的演劇も絶えた。プロテスタントの一部には「安息日厳守主義」があって、教会での宴会や社交を禁じ、さらには居酒屋の営業も禁じたのでイングランドには「陰鬱な日曜日」が到来した。

(以下続く)

 

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2018年11月12日 (月)

『宗教改革とその時代』

小泉徹著『宗教改革とその時代』(山川出版社、世界史リブレット)を読んだ。

非常に面白かった。面白かったし、蒙を啓かれたのは、われわれは(あるいはわれわれが中高で受けた教育は)ある種の進歩史観に支配されたものだったということに気付かされたことだ。この点は後述する。
教科書では、宗教改革はルターの「95ヶ条の論題」(1517年)からアウクスブルクの宗教和議(1555年)やイギリスのエリザベス1世の「礼拝統一法」で終わる。
しかし小泉によれば、これは宗教改革の入り口に過ぎず、宗教改革はずっと長く続くのだ。
またプロテスタントというとルターとなりがちだが、実際にはカルヴァンやその後継者テオドール・ベーズの影響力が及ぶ領域の方が広かった。
宗教改革の時期は短くとっても1517ー1648年。その政治的背景としてはハプスブルク帝国の興亡がある。ハプスブルク家にとって最大の敵はフランス王のヴァロワ家。
30年戦争には2つの対立項がある。1つはカトリック対プロテスタントで、もう1つはハプスブルク家とフランス王位を継承したブルボン家の対立である。
宗教的対立の背景には思想的対立がある。救済に関する伝統的考え方の1つが「
積善説」で善行を積むと天国に行ける。それに対しルターは、救済は人間の善行や功徳ではなくて、「神の愛」であるとした。カルヴァンはそれを一歩進め、裁く神によって救済があるかどうかは神があらかじめ決める予定説をとった。
プロテスタントの立場に立ちながら、人間には神の救済を拒絶する自由があると説いたのがアルミニウス。アルミニウス主義は、イギリスではカトリック的なものとして受け取られたが、本来は人文主義的伝統がプロテスタンティズムの中に再来したものと考えられる。
(以下次項)

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ナタリア・ギンズブルグ著『小さな徳』

ナタリア・ギンズブルグ著白崎容子訳『小さな徳』(河出書房新社)を読んだ。

この本は「須賀敦子の本棚」(池澤夏樹監修)の1冊だ。つまり須賀敦子にとって、とても重要な本であったということ。
それは一旦置いておくとして、この本は1部と2部に分かれているのだが、1部は無条件に面白い。冒頭の「アブルッツォの冬」ではファシズム時代に一家が流刑にあい、流刑者の家族の日常が淡々と描かれ、しかし流刑の実情を知らなかった評者は、流刑というのは普通に家族で暮らしていること、それどころかお手伝いさんを雇ったりもしていることに驚いた。無論、トリノという大都会からアブルッツォの小さな村にやってくればかつてあったもので無いものだらけになって不自由もするのだが、住めば都で土地の人の風習や料理にも慣れて行く。それが描かれたあとで、「あの頃こそが、私の人生の、何ものにも代えがたい最高の時だったのだ」とくる。アブルッツォからローマに出た夫はレジスタンス活動で逮捕され獄死してしまうからだ。淡々とした筆致が逆に、読者に迫ってくる。
ギンズブルク独特のユーモアというかアイロニーもふんだんにあり、それは彼女のイギリス人観察に現れている。
イギリスの民度の高さ、隣人への敬意を讃えながら、女性店員は Can I help you? と言っても口先だけで、「客が買いたいものを探すために、視線を鼻先2センチ以上先には伸ばそうともしないのだ」といった調子。
パヴェーゼがいつまでも大きな子どもだったという愛情に満ちた苦言も味わい深い。
第二部は、複雑な味わいである。ギンズブルグは自分の価値観、世界観を明らかにして親の世代を否定し、独特の金銭感覚や、文筆業という仕事についての考え、経験を開陳する。貴重な証言であるが、その考え、感覚は、極めてリアリズムに傾斜しており、たとえば19世紀のオペラのような大言壮語的レトリックは大嫌いなのだ。多分そのストイックな感じが須賀敦子のエッセイにも通じる気がする。
訳者と池澤夏樹の解説付き。丁寧な訳注が付されており、時代背景やギンズブルグの家族関係を理解する助けになる。

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2018年11月11日 (日)

『スペインのユダヤ人』

関哲行著『スペインのユダヤ人』(山川出版社、世界史リブレット)を読んだ。

新刊ではないが、非常に興味深かった。漠然とスペインが両カトリック王によって統一された1490年代にユダヤ人追放令が出たのだと思っていたのだが、それは一片の事実としては正しいが全体像としては正しく認識していなかった。
つまり、スペインにおいては中世からヨーロッパの中でユダヤ人の数が多かった。 スペインのユダヤ人はセファルディームと呼ばれ、ドイツを中心としたユダヤ人はアシュケナジームと呼ばれた。セファルディームの中からは出世して宮廷ユダヤ人となるものも出た。
11世紀末のムラービト朝、ムワッヒド朝では反ユダヤ政策が取られる。
各都市におけるユダヤ人はアルハマと呼ばれる自治組織を持っていた。
14−15世紀にキリスト教徒のユダヤ人観が根本的に変わった。それまでユダヤ人は理性的手段でいつの日かキリスト教に改宗する「潜在的キリスト教徒」と見なされていた。ところが14−15世紀になると高利貸しや徴税請負によってキリスト教徒を収奪する非道なユダヤ人のイメージが浸透。
14世紀末から大規模な反ユダヤ運動があり、コンベルソ(改宗者)を産んだ。
コンベルソには心からの改宗者と表向きの改宗者と両者の間で揺れ動く改宗者がおり、キリスト教徒、ユダヤ教徒、コンベルソの間には複雑な相互不信があった。
1492年のスペインからのユダヤ人追放令により、イスタンブルが世界最大のユダヤ人居住区となる。
コンベルソの中に内部的な相互不信、緊張があったが、フェルナンド・デ・ロハスの『ラ・セレスティーナ』やマテオ・アレマンのピカレスク小説にはその内面的緊張が反映されている。ロハスの父は異端審問裁判で火刑にされている。
バロック美術で有名なサンタ・テレサ(聖女)は、その祖父が有罪判決を受けたコンベルソだった。火刑とされたのではなくて微罪で教会と「和解」したのだった。
血の純潔規約というものがあって、3代−4代遡ってユダヤ人やイスラム教徒がいると排除されるという規則が各地で採用されたが、これが黄金世紀のスペイン演劇を代表するローぺ・デ・ベーガの演劇で名誉が中心テーマとなるのに深く関与している。
以上挙げたように、ユダヤ人およびコンベルソをめぐる問題は、スペイン文学と深く関わっている。

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ロベルタ・マメリのマスタークラス(2)

マメリのマスタークラスの続きです。

カッチーニの'Dolcissima sospiri'では現代化された楽譜のエディションを歌い手が使っていたのだが、全音符の上に時々〔tr〕と書かれている。普通に解釈すれば、ここはトリルなんだな、ということになるが、マメリによると、これはトリルと書いてあるが実はメリスマである。
トリルとメリスマは何が違うか。
トリルの場合、全音符が書かれた最初からドレドレドレドレと言った感じで音を規則的に動かす、しかしメリスマの場合、ド〜〜レドレドレと言った感じで、最初の音はある程度伸ばしてから(何拍分という規則的なものではない)音を動かす。しかも、メリスマの場合は、歌詞に合わせて(歌詞の内容に合わせて)情感をこめて音を振るわせるので、場合によってはテンポを揺らして良いのだ。この時代の曲では、歌詞が音楽より優先なので、あくまで音楽は歌詞にあわせてつけられている、ということもマメリは強調していた。これはモンテヴェルディの時も同じである。
 モンテヴェルディは歌劇オルフェオから'Signor, quel infelice' と’Voglio di vita uscir' が歌われた。マメリは、モンテヴェルディはfuturista (ここでは、未来を先取りした人、ぐらいの意味か)だから、ここはスイングするのよ、とリズム、テンポの揺れ(言葉の意味に応じてだが)を積極的に推奨していた。
   A.ノターリの'Ahi, che s'accresce in me'を歌う人もいた。
 マメリのアドバイスで興味深かったのは、自分がいきなり音(声)を出すのではなく、もう自分の後ろから音は鳴っていてそれに乗せて声を出すような感じで歌い始めよ、というもの。歌い始めのところで、たいていの歌い手は緊張して体の一部がかたくなってしまうので、もうすでに鳴っているという意識を持って歌い始めよ、ということらしい。
 母音に関しては、ウの音の注意があった。日本語のウよりもくっきりと唇を突き出して固めてウと発音するわけである。
 最後に彼女は受講生の健闘をたたえた上で、やろうと欲することが出来るにつながると言い、彼女は歌手を志したのが23歳と遅く、歌手になったのは30歳だったという。彼女の先生は彼女の進むべき道を示してはくれなかったから自分で探すしかなかったとのこと。古楽を志した人の苦難であろうか。
 

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ロベルタ・マメリのマスタークラス

ロベルタ・マメリのマスタークラスを聴講した(旗の台のえびらホール)。

えびらホールは個人のお宅的なホールで、天井は高いが椅子は30−40くらいが固定ではなく並べられていた。2日間のコースなのだが、私が聴いたのは2日目。午前中から夕方6時過ぎまで長時間のレッスンである。8人がレッスンを受け、最後は発表会。
レッスンを受けていたのは、乙顏有希、山口紗知、椿山芳、長島麻衣子、樋口由佳里、渡邊有希子、井ノ上歌歩、他お名前非公開の方が一人(敬称略)である。
このうち四人がカッチーニ(1545?-1618)を歌った。あのアマリリが有名なカッチーニである。モンテヴェルディが1567-1643 なので、1世代上で大雑把にいえば同時代人である。取り上げられた曲は 'Dolcissimo sospiro' と'Torna deh torna' と’Amarilli, mia bella' で、最初の 'Dolcissimo sospiro'を歌った人が2人いた。レッスンを聴講してわかったのだが、カッチーニの曲は楽譜を見るとシンプルに出来ているのだが、実際に歌うと難しい。マメリも、この曲は難しいのよ、でも選んだのはあなただから。と笑いながら言っていた。フレーズも長かったりする。息つぎについては、マメリは必ず歌手のお腹をさわってここは柔らかくして、しかしここまで息を入れてと。胸で呼吸するのではなく、お腹の底の部分から入れ、だんだん吐いたら、脇腹から出せという。実際、彼女が歌ってみせると、長い長いフレーズを一息で歌ってしまうのだ。その上で、もし息継ぎをするのだったら、この1音を2音のように歌い直し、そこで息を継げという実践的アドバイスもあった。
 シジスモンド・ディンディアの’Da l'onde del mio pianto' を歌った人もいる。僕はこの作曲家はじめて聴いたのだが、半音階を多用してアヴァンギャルドな感じがする。マメリもこの作曲家ははじめてだと言い、気に入ったと言っていた。
以下、事項に続く。

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2018年11月10日 (土)

日本音楽学会

日本音楽学会に行った(桐朋学園大学、調布)。

日本音楽学会に入会し、初めてその大会に参加してみた。まず驚いたのは、発表数の多さ。2日間に渡って4部屋で午前午後とある。4教室で同時並行だから60以上の発表・報告があるわけだ。僕が知っている学会でこの規模は日本英文学会くらいのものだ。
中身であるが、議論の緻密さ、精密さに驚いた。一々発表者のお名前をあげるのは差し控えるが、たとえばピアノのハンマーヘッドに使われていたフェルトおよび皮がどのように変化していったか、通説と、実際の調査で判明したこと、楽器修復家への調査で判ったことが写真つきのプレゼンテーションで示される。あるいは、また別の発表では、中世の音名がどのように確定していったかを、写本と写本の端の書き込みをたどりながら跡づける。さらに別の報告では、ケルンのフランコ『計量音楽技法』(13世紀に出現した、後世への影響大な本)の写本6つをとりあげたが、1つは個人蔵でアクセス不可能だったことや、先行研究の誤りなども明るく指摘された。
中世の発表があると思えば、ヴァーグナーの《神々の黄昏》についての発表もある。これは初演楽譜が消失してしまったという通説に挑むもので、実はバイエルン宮廷歌劇場のパート譜がそれだというものだ。その証明は、コピスト(作曲家の楽譜をコピーし、そこからさらにパート譜を作る人)の筆跡を丁寧にたどることで成り立っている。このコピストの同定によっての証明は、モーツァルトについての報告でも見られた。シェイクスピア学で印刷工の癖を論じたりするのと同様の議論である。
午後はモーツァルトのト短調交響曲(K550)の第四楽章の特異性を論じるもの、ハイドンの交響曲における変奏反復について論じるもの、モーツァルトのクラヴィーア協奏曲(ピアノ協奏曲)K.175プラス382の史料伝承ーこれにコピストの問題が出てくる、シューベルトの交響曲のスケルツォ、メヌエット楽章がじょじょにソナタ形式に近づいていく様を論じたものを聴いた。いずれも、緻密かつ実証的なエビデンスに基づいた議論で、圧倒される思いがした。ほとんどの報告者がレジュメに参考文献をあげてくれており、さっそく何冊か自分に関わりのありそうな本を注文した。
これ以外にも興味を掻き立てられる報告はあったのだが、4つの発表が同時並行なので仕方がない。しかし8つの充実した発表を聞くと頭はパンパンになるのだった。

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2018年10月21日 (日)

『悪魔と呼ばれたヴァイオリニスト』

浦久俊彦著『悪魔と呼ばれたヴァイオリニストーパガニーニ伝』(新潮新書、760円)を読んだ。

パガニーニについてはヴァイオリンの超絶技巧の持ち主だったという一般常識と、彼の作った曲を聴いて音楽的にはあんまりなあ、というのがこれまでの評者の極めて貧困なパガニーニ経験であった。
この本を読むと、パガニーニが自分のパフォーマンスをどうプロモートしたか、どうやって演奏会をオーガナイズしたか、などがわかるし、当時の人がどんな具合に熱狂したのかもわかる。
音楽家として、ロッシーニやベルリオーズとは親しくしていて、ロッシーニは『マティルデ・ディ・シャブラン』の初演で予定していた指揮者が具合が悪くなり急遽パガニーニに指揮を依頼しているのだ。また、パガニーニが長年求めていたストラディヴァリウスのヴィオラを入手した時に、それに向けた曲を依頼してベルリオーズが作ったのが『イタリアのハロルド』だった(ただしパガニーニは気に入らなかった)などというエピソードが紹介されている。
若い時に美男子で女性にモテたというのはリストと同じだな、などと思うが、時間的にはパガニーニが先。ただし、パガニーニはとても病弱で後半生は病魔との戦いに明け暮れている。当時の治療法も下剤を大量に用いたり、水銀を使用したりと、今から思えばむしろ身体に悪い治療をしているのだ。
当然のことながら、パガニーニはヴァイオリンをはじめとする弦楽器に関心があり、ストラディヴァリウスを何台も持っていたのだが、本人の使用楽器はグァルネリのカノーネというのも興味深いエピソードだ。
カトリック教会との確執もなかなかに根深いものがあり、死後すぐには埋葬許可が出ず、彼の遺骸は放浪を繰り返す。
単にヴァイオリンが超絶的に上手な色男というのでは全くないパガニーニ像を得た。

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2018年9月23日 (日)

マテウッツィのマスタークラス(4)

6人目はメゾソプラノのWさん。Mozart の《イドメネオ》からイダマンテのアリア'Il padre adorato' (愛しい父よ)。ここでは、喉が疲れている場合にどんな注意が必要なのかの話。曲に入る前に発声練習を入念にした。ハミングでの発声練習もあった。ミミミミミーという感じで歌うのだ。喉の調子が万全でないときは声を広げないで集める。声はマスケラから出す。ヴィヴラートをかける。

7人目はテノールのSさん。ドニゼッティの《Il duca d'Alba》のアリア 'Angelo casto e bel'.(清らかで美しい天使)。 ここでは息継ぎの仕方の指導。基本的には、しゃべるのと同じ。学生に歌わせたあとで、同じ歌詞を語らせ、それと同じように息継ぎをしないで歌ってみなさいとチャレンジさせた。すると息を大事にして歌うことになるので後半が柔らかい音になったのは見事な変化だった。

ここでも子音の指導は細かく、例えば hanno, fanno の n の二重子音を丁寧に出すようにとのこと。

また息を閉じ込めずに柔らかく歌うというのは、実際に歌ってもらうとよくわかるのだ。マテウッツィがお手本を示す時には、どこにも変な力が入らず、ストレスのない声の出方がどう言うものかが眼前に示される。何人かの学生は、緊張して肩やのどに力が入らないように、試しにここで歩きながら歌ってみるようにと指導があった 。動くことに気を取られ、肩や喉まわりの緊張がほぐれる人もいたし、歩いても緊張したままの人もいた。むずかしいものだ。

マスケラに当てると言うのも、指摘を受けた学生が何度も繰り返して、少し良くなったとか、大体オーケーとか先生に言われているのだが、そう言う変化を聞き、なおかつ先生のお手本を聞くと、ちゃんとマスケラに当たった音がどう言うもので、十分当たっていないとどう言う音・声かがわかるようになってきた気がする。

また何人かの学生が指摘されていたが、i の音の時に、声がくぐもってしまったりすると、すかさず i (キやミなども)も響かせてと言う指摘があり、たしかに、工夫するとイ行でも響く音・声は出るのだった。

マテウッツィが歌うと余計なストレスのかからない声・音が澄んだ響きかが良くわかる。これが基本で、劇的な表情をつける時にはパルランテ(語るように)なって良いわけである。マテウッツィの授業では基本が徹底的に叩き込まれる。

そういえば筆者は文学系であったが、大学院の授業でもひたすら大きな辞書の引き方を徹底的に学ぶような授業があって、それは修業みたいなものなのだけれど、後々役に立つのである。歌手の方々は発声が最重要なのは言うまでもないだろう。

長時間にわたる聴講であったが、興味は尽きなかった。気がつくのが遅く、1日しか聴講できなかったのが残念なくらいだ。

マテウッツィ先生やピアノ・通訳の高島理佐氏、学生、大学院生の皆様、国立音大の関係者の皆様に深く感謝申し上げます。

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マテウッツィのマスタークラス(3)

マテウッツィのマスタークラスの続き。

午後の最初、今日の4人目はソプラノのOさん。Mozart の《コジ・ファン・トゥッティ》の'Una donna a quindici anni' (女性も15歳になったら)。デスピーナが婚約者のいる姉妹に自由恋愛をそそのかす軽妙洒脱なアリアだ。マテウッツィはデスピーナは'carattere molto, molto, molto...interessante' と言い、デスピーナのキャラを立たせることを強調。デスピーナのずる賢さをジェスチャーや顔の表情、歌のフレーズでの表情づけで表現するようにと。
 繰り返しになるが、perche の pの音に息が入らないようにという注意。前にも述べたがこれは多くの学生が注意を受けたところであり、語頭のみならず、音を伸ばした時にもそこに h が入っている、入ってはいけないという注意があるのだった。
 また、この歌でもレガートの指示をモーツァルトは1ページで16個も書き入れており、それは書いてある通りにしなければならない。モーツァルトはその手間もインク代も惜しまなかったのだから、という冗談とも教訓ともつかない説明まであった。
 ここでは途中からフィオルディリージとドラベッラ役の学生が参加して掛け合いをやったのだが、マテウッツィはこのやりとりは演技や間合いが大切だとして、実際にやって見せる。フィオルディリージやドラベッラが最初はデスピーナの言うことにとんでもない!とややブリッコなくらい大げさに拒絶反応を示しながら、ドラベッラは興味を示して行く。それを目の表情で示すべき、など。演技は実際に彼が女性を大げさなくらいはっきり演技して見せるので、よくわかるし、可笑しくてオーディエンスも笑ってしまう。これが《コジ》の楽しさだよと心で相槌を打つ。また、見事だったのは、3人ともマテウッツィの演技をすぐに取り入れて、最初とは演技、表情がぐんと変わるし、ドラマとして実に生き生きしてくるのだ。先生も偉いし、学生も優秀で、見ている方も嬉しい。一人で歌うアリアは音楽的な完成度を目指す方向に向かいがちだが、重唱でやりとりがあると、演劇的要素が浮かび上がってくる。それに音楽がどう絡むか、演技がどう絡むかが見どころ、聞かせどころだということを改めて認識した。
5人目はバリトンのSさん。曲はロッシーニの《セビリアの理髪師》のフィガロの’Largo al factotum'(俺は街の何でも屋)。ここでは母音をはっきり発音する指導。Largo al という時に、急いで発音すればラルゴのオと次のアルがくっついてしまいがちだが、ゴをはっきり出せという指示。また、息をまわすという指示も。これは口で言うとわかりにくいと思うが、息が頭の後ろの方に回すと言う感じなのである。フレーズが長くなって息を大事に使い回す時に、積極的に前から息を排出せず頭の後ろの方に回すと言う表現をしている。
 この曲の最後の 'della citta' デッラのラはロで構わないということだった。

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マテウッツィのマスタークラス(2)

マテウッツィのマスタークラスの続編で個別のレッスンの様子を記す。

トップバッターはバリトンのKさん。ヴェルディの《ドン・カルロ》の 'Per me giunto'(終わりの日は来た)。 ロドリーゴが死を前にして、ドン・カルロに語りかける場面である。マテウッツィ(敬称略、以下同様)は自分が歌手であるからだろうが、学生の喉を細かく配慮する。無理な負担がかかる歌い方をすれば、喉を傷めてしまうというわけだ。Kさんの場合は、acuto (高音)はかぶせて歌い、低い方はかぶせずに開いて歌うようにという指示が出ていた。
 多くの学生に対して言っていたこととして、高音になったら母音は何でも良い。aと書いてあっても o や u で良いのだと。つまり'マーと歌うようになっていてもモーと歌って良いのだ。ただし、子音はしっかり出さないとダメだと言っていた。確かに、聞き手としても激しく納得。母音は頭で調整できるが、子音が聞き取れないと何という単語がとっさに思い浮かばない。だから例えば m  の音をきっちりと出すように何度もその場で繰り返させるのである。子音はマスケラに響かせる。
 また多くの学生にハミングで歌わせる。
 少し意外だったのは、学生に誰をCDなどで聞くかと尋ね、カプッチッリやブルゾン、さらにバスティアニーニの名前があがったのだが、マテウッツィはさらに遡ってガレッフィやベーキといったかなり昔の歌手をあげていた。彼らの歌に今でも聞くべき歌唱法があるという意味のことを言っていた。
 二番目はソプラノのKさん。モーツァルトの《ドン・ジョヴァンニ》の 'Mi tradi quell'alma ingrata' (あの人でなしは私を欺き)。この歌では徹底的にレガートにこだわって歌わせていた。マテウッツィは自分はレガートにこだわりが大きいのだと認めていたが、たしかにレガートを徹底するとフレーズの音楽的表情が変わるのを眼前で聞いて軽い驚きを感じた。
周知のようにエルヴィーラは怒りに燃えるところと、今だにドン・ジョヴァンニを思う気持ちが交互に入り乱れて現れるわけだが、その激しい感情を表すため特に子音 r (二重子音の場合もあり)を強調して歌うようにという指示。
 三番目もソプラノのKさん。モーツァルト《ドン・ジョヴァンニ》のドンナ・アンナの 'Non mi dir, bell'idol mio' (どんなにあなたを愛している行ことか)。ここでも子音の発音にはこだわっていた。多くの学生が注意されていたが、子音をはっきり発音しようとして h の音が入ってしまうことだった。例えば、O dio という時に、ディオの部分がディホのようになってしまう(もちろん、これは誇張して言っているのであって、強いて言えばということです、念のため)のはいけない。あるいは Che という時に強く発音しようとすると息が入ってしまいそうになるが、それは多くの学生にマテウッツィはダメ出しをしていた。イタリア語にhの音は一切ないのだ、だからそういう息の音は認められない、と言う。
 性格づけの問題で、ドンナ・アンナやドンナ・エルヴィーラのような貴婦人と、ツェルリーナや《フィガロ》のバルバリーナ、《コジ》のデスピーナのような侍女・召使いはキャラクターが違う(名前にもイーナという指小辞が付いている)。ここでも装飾音をレガートにという指摘。装飾音だけでなく同音を繰り返す時にも、区切りを入れるとバッハのようだと言い、レガートでポルタメントでと強調していた。魚の口という表現は何度も出てきて口はすぼめているが、喉は力が入らずに開いているという状態を求めることがよくあった。
ここで昼休み休憩となった。

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マテウッツィのマスタークラス(1)

ウィリアム・マテウッツィのマスタークラスを聴講した(国立音大)。

今さらではあるが、国立音大は現在のキャンパスは玉川上水(モノレールまたは西武拝島線)が最寄り駅で、筆者はモノレールで行った。
 東京都は地下鉄がはりめぐらされた都心部は別として郊外は南北の移動が相対的には不便だ。線路は都心部に向かって(東西に)走るものが多い。
 このマスタークラスの存在は、知人がFacebook でアナウンスしているのを見て初めて知ったのだが、何年も前からやっているらしい。しかも一週間毎日長時間やっているのである。月曜日から金曜日までは10時45分から6時まで。土曜日が午前レッスンで午後公開マスタークラス。
 筆者は木曜日、まるまる聴講させていただいた。結論から言えば、個人的には非常に多くのことを学べ収穫が大きかった。
 レッスンは1人45分。午前3人で、昼食時間が入り、午後は2人レッスン、休憩ののちさらに2人で合計7人。長丁場である。それを毎日一週間やるのはすごいことだと思うが、逆に言うと、これは観客に見せるためのマスタークラスではなく、音大生(院生も含む)のためのマスタークラスなのだ。だから、ほとんどの人が1曲のアリア(レチタティーヴォを含む場合や、3人での掛け合い部分含む場合あり)を45分かけてじっくりと習う。発声に不具合が生じた場合、何度も何度も、繰り返して学生・院生にやらせる。マテウッツィの場合、自分が歌手なのでどうマスケラに響かせるのかを実演して見せるので実にわかりやすく、かつ納得がいく。
 マスケラというのは、仮面という意味があるように、口より上、鼻、目、額のあたりであるが、ここを響かせるようにと何度も指摘がある。しかしそこに注力して鼻声になりすぎてはいけないのだった。
 マテウッツィは当然イタリア語で語るのだが、ピアノ伴奏の高島理佐氏が的確に訳して学生(以後、大学院生も含めて学生と呼ぶ)に伝えてくださる。
 会場は、講堂の第一リハーサルというところなのだが、小ぶりの体育館くらいの広さで、さすが音大だと思ったのは、壁も天井も木で実に響木が良い。かつ、天井も壁も平面ではなく、例えば天井は4つの山ができる形でウネを作っている。壁も同様で、平らではなく、かつ1つおきに細かく孔のあいたパネルを配しているのだった。
 個別のレッスン内容は続きで。

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