プローディ:ボローニャ市長選には出ない
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週末を農業で過ごす人が増えている(2月2日、Corriere della Sera).
農家自体は減っている。1990年から2000年にかけて、40万人以上農業従事者が減っている。
しかしその一方で、趣味で農業をやる人は増えている。こうした人を hobby farmer と呼んでいる。hobby farmer の職業は、つぎの通り。
年金生活者 47、7%
サラリーマン 12、2%
労働者 9、3%
公務員 5、3%
自由業 4、2%
自営業 3、8%
管理職 2、2%
教師 2、2%
医師 1、6%
企業家 1、4%
商人 1、4%
その他 8、7%
栽培しているものは次の通り
野菜 88、6%
果物 65、0%
葡萄 34、3%
オリーヴ 32、3%
穀物、飼料 16、1%
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イギリスで教皇ピオ12世のホロコーストをめぐる発言を記した文書が発見された(2月1日、Corriere della Sera).
文書はロンドン郊外のキュー・ガーデンのナショナル・アーカイヴのもの。二つの文書があり、1つ目は、1943年10月19日に教皇庁で行われた教皇とアメリカのヴァティカン大使ハロルド・ティットマンの会談の記録である。ローマのゲットーで1000人以上のユダヤ人がナチスのSSにより連れ去られた事件の3日後のことだった。
短い報告書から、ピオ12世はこの悲劇的事件については言及しておらず、むしろ連合軍がローマを戦場にしないよう全力を尽くしてくれと述べている。さらに、ピオ12世は、ローマからのドイツ軍撤退と連合軍到着の間に、共産党の小部隊が暴力行為におよぶのではないかと懸念している。
2つ目の文書はより詳細なもので1944年11月のもの。ピオ12世とイギリスのヴァティカン大使フランシス・ダーシー・ゴドルフィン・オズボーンの会談の記録である。ローマは6月に解放されていたが、戦争は続いており、この時、ドイツ軍はハンガリーから大量のユダヤ人をアウシュビッツ(強制収容所)に送還していた。ハンガリーは、ソ連軍とドイツ軍の戦場となっていたのである。この間、ソ連軍は、バルト諸国を支配下におき、ポーランドで両軍は対峙していた。
ダーシー・オズボーン大使は、イーデン外相の言葉を伝え、ハンガリーのユダヤ人に味方する声明を発してはどうかと教皇にすすめた。教皇は、ここ数日、バルト諸国(エストニア、ラトビア、リトアニア)やポーランドでソ連軍が行った蛮行を非難するよう促されたところだと答えた。
ダーシー・オズボーンは、(当時イギリスの連合国であった)ソ連を非難しないようすすめた。世論にネガティヴな影響があるといけないという理由で。教皇は、具体的な名前はあげないだろうと請け合った。
ダーシー・オズボーンは、東ヨーロッパにおけるソ連軍の蛮行についての情報は得ていないがいずれにせよ、ナチスのなした行為に比較しうるものではありえないとして、ナチスのガス室でのユダヤ人大量殺戮に言及した。この点に関して、教皇は同意した。
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教皇ベネデット16世は、夕べの祈りの後、フィアットやアルコアに、労働者の雇用を守るよう呼びかけた(2月1日、Corriere della Sera).
教皇は、あらゆる人に責任感が必要だと説いた。企業家、労働者、政治家すべてである。教皇は、具体的には、フィアット社のテルミニ・イメレーゼ工場、アルコア社のポルトヴェスメ工場の名をあげた。
労働組合はこのコメントを歓迎している。
フィアットのテルミニ・イメレーゼ工場では、1300人が働いているが、2011年までに自動車の製造をやめる計画である。
アルコアは、アルミニウムを製造する多国籍企業だ。アメリカのピッツバーグに本社があり、6万3000人の従業員がいる。昨年11月20日に、イタリア工場を閉鎖すると決定した。2000人の従業員が関わっている。
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《マッキアイオーリ》展を観た(東京都庭園美術館、3月14日まで)。
副題には、イタリアの印象派とある。また、英語のタイトルには The Macchiaioli, Italian Masters of Realism とある。マッキアとは染みのことで、色の染みで絵を描いたようだという悪口だったのがあるグループの名前になったのは、フランスの印象派と同じである。
しかし、グループの活動時期はフランスの印象派よりも早く、1856年にフィレンツェのカフェ・ミケランジェロで結成されている。
そのためもあって、今から観ると画風はオーソドックスに見えるが、当時は、リソルジメントの時代で、彼らは、新しい美術、新たな国民美術様式の確立を目指していたらしい。
当時のイタリアはいくつかの国に分かれていたわけだが、それぞれの国のアカデミーは保守的であったのに対し、彼らは戸外の風景を描き、絵画の中に光りを取り入れたのである。
初期には歴史画もあるが、途中からトスカーナ地方の田園風景、牛がいたり、農婦がいたりといった絵画が増える。
ジョヴァンニ・ファットーリが中ではもっとも知られているかもしれない。
マッキアイオーリの展覧会は、1979年にも伊勢丹美術館で開かれていたのだが、まったく知らなかった。
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倉科岳志著『クローチェ 1866−1952』(藤原書店)を読んでいる。
クローチェはイタリアでは現在でもしばしば言及される基準点とも言うべき存在なのだが、そのことは日本ではきわめて見えにくい。何より、クローチェを紹介する書物が少ない。翻訳もあるが、クローチェの全体像を伝えるものとは言えない。
このたび、倉科岳志氏によるクローチェについての単著が出版されたことは、その意味で、大変有意義であろう。日本での忘却ぶりを考慮にいれて、本書は、もともとは博士論文がもとになっているのだが、新たに「小伝 ベネデット・クローチェ」という最終章を書き下ろしている。評者のような社会思想や哲学が専門でないものにとっては、これが最もとっつきやすくまた有意義な情報がつまっている。評者などは個人的には、評伝をもっと詳しくしてくれればと思ったほどである。
しかし、本書の眼目となる議論は、クローチェの思想が、ファシスト政権の独裁制樹立を機に転換を示したかどうかをめぐるものだ。倉科氏は、そもそもそういった問題の立て方そのものが、戦後のファシズム対反ファシズムという図式にとらわれたものだとしている。むしろ、クローチェは、「ファシズム期に入っても精神哲学体系における政治と道徳の関係を転覆させたわけではなく、むしろ体系を維持し、精緻化させながら、その上に自由主義を構築したのである」としている。
評者には、この主張がどれほどオリジナリティーを持つのか、またさらに、妥当性を持つのかを判定する能力がない。
個人的には、クローチェの著作のうち意外なほど多くを占める芸術、美学、文学関係の論考を読んでみたいと思った。しかし、こういったないものねだりも、本書のクローチェの作品リストを眺め、また、文献一覧があるから言えることだ。まずは、クローチェについて、日本語で読める単著が生まれた事を素直に喜びたい。
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