2019年11月30日 (土)

メサイア

ヘンデルのメサイアを聞いた。ウィリアム・クリスティ指揮、レザール・フロリサン(東京オペラシティ、コンサートホール)。

歌手はティム・ミード他。

クリスティは大御所的な指揮で、細かいところで攻めるというよりも、要所、要所をおさえて、手堅くまとめている感じだった。

しかし彼の音楽感はレザール・フロリサンに浸透しており、安心して聴けるものであった。

もう少しスリリングなところも欲しいと思わないではなかったが、これはこれで立派な演奏なのだとも思った。

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『誰も知らないレオナルド・ダ・ヴィンチ』

斎藤泰弘著『誰も知らないレオナルド・ダ・ヴィンチ』(NHK出版新書)を読んだ。

今年は、ダ・ヴィンチ没後500年の記念年なので、NHKでもいくつか特集番組があった。

レオナルドがルネサンス人として画業だけでなく、様々な研究をし、それを手稿に書き留めていたという事実は知っていたが、手稿の中身を深く考えたことはなかったし、どういう点が傑出していたのかも知らず、人体解剖図や水の流れを書いたものがある、くらいの漠然とした知識した評者にはなかった。

本書はその手稿の中身とその特徴に深く分け入りながら、その過程でレオナルドの生涯が紹介されていくものである。

275ページの新書なのだが、実に豊富なカラー図版が掲載されているので、本文の叙述が具体的に何のことを指しているのかに戸惑うことは皆無である。必要に応じて、レオナルド以外の人の絵画もこれまたカラーで掲載されているので、叙述の論理をフォローしやすい。

第1章では、レオナルドがどんな服を着ていたか、そしてそれは同時代の中でどういう意味を帯びていたか、ひいてはレオナルドは自分を誰に擬していたか、などが語られる。第2章では、レオナルドとマキャヴェッリが同時代人でどちらも軍事的な作戦として水攻めを考えたのだが、その作戦の違いが、マキャヴェッリの著作やレオナルドの手稿が引用された上で示される。第4章は、飛行する機械について。第5章では、《岩窟の聖母》がなぜロンドンとルーブルに1点ずつあるのか、この2点の関係はどうなっているのかが、同時代の慣習、注文主の問題から解き明かされる。ここにミラノ公国の実力者ロドヴィーコ・スフォルツァの姪ビアンカ・マリアと神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の結婚が絡んでいるのでは、という視点は評者には新鮮だった。また、ルーブル版の天使の身体が衣の下には獣の身体が隠されている、というのも驚きだった。

7章、8章、9章は、身体や宇宙についてレオナルドが手稿の中でどのような考えを巡らしていたと考えられるかが語られる。レオナルドは学者ではないので論文として書いているわけではない。そこにはメモ的な言葉と、図や絵が書かれている。著者は当時の科学史的水準とレオナルドの探求を比較しながら、レオナルドの斬新さを明らかにしていく。一例をあげれば、レオナルドは太陽は動かないと考えていたのではないか、と。

評者は、美術史やレオナルドに関して全く素人であるので、本書で語られていることのオリジナリティや妥当性について評価することは毛頭できない。しかし、素人として読んだ感想としては、レオナルドについて生涯や手稿について多くのことを新たに知ることができた満足感が大きかった。

 

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チェスティ《ラ・ドーリ》その4

《ラ・ドーリ》の音楽は、オケ、指揮、歌手ともに素晴らしかった。17世紀のオペラは、カヴァッリなどに見られるように、recitar cantando が続くと、メロディーの乏しさに音楽的酸欠感を覚えたりすることもあるわけだが、このオペラでは全くそういう感じがなかった。

 プログラムにはチェスティがメロディーを結晶化させた、という意味のことが書かれている。女声2人のドゥエットなども実に見事だった。舞台上で二人が大きなブランコに乗り、手前と奥で入れ違うように漕いでいるのだが、リズムやハーモニーはぴったりあう。アリアも、かなりの数があり、ヘンデルなどの先駆け的要素がここかしこに見られる。と同時に、この演奏体験の充実、満足感は、演奏レベルの高さに由来する部分も相当あるであろうと感じた。

 オッタヴィオ・ダントーネの指揮、アカデミア・ビザンティーナの演奏。ドーリはフランチェスカ・アショーティ(アルト)。オロンテはルパート・エンティクナップ(カウンターテナー)。アルタクセルセはフェデリーコ・サッキ(バス)。アルシノーエはフランチェスカ・ロンバルディ・マッツッリ(ソプラノ)。トロメオはエメーケ・バラート(ソプラノ)。アルセーテはブラッドリー・スミス(テノール)。エラストはピエトロ・ディ・ビアンコ(バスバリトン)。ディルチェはアルベルト・アッレグレッツァ(テノール)。ゴロはロッコ・カヴァルッツィ(バス)。バゴアはコンスタンティン・デッリ(カウンターテナー)。これらの歌手は、非常にデリカシーを持って、しかも生き生きとしたリズムとテンポでチェスティを現代に蘇らせてくれた。重唱や掛け合いの精度の高さから相当に練習を積んだものと察せられる。その成果は聞き手の喜びとなってしっかり実っていた。

 

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チェスティ《ラ・ドーリ》その3

前回の項目でチェスティのオペラ《ラ・ドーリ》のプレヒストリー、即ち、幕が開くまでの前史・事情を書いた。これが複雑で長い。

第一幕のあらすじ

ドーリは、アルシノエ(今お仕えしている女主人)への忠誠心と、オロンテへの愛の間で揺れ動き、身投げして死のうと決意する。彼女の家庭教師だったアルセーテが説得してやめさせる。ここでコミカルな場面が入る。オロンテの乳母ディルチェ(テノール)はゴロ(バス)を口説いている。このオペラでは、劇の内部でメタシアター的に女性が男装したり、男性が女装したりするのだが、それとは別に男性歌手が女性を演じたりして、ジェンダーの越境が頻繁に起こる。文字でずらずら書いていくとややこしいようだが、実際に見るとそこに演じる演者(歌手)が肉体を伴って現前しているのでそれぞれの二重性は一瞬で看守できる。むしろ登場人物が多いオペラを初めて見ると、この人は誰だったっけ、あるいはこの二人の関係性はといったことをフォローするのが一苦労である。

ゴロは王の道化だ。オロンテはディルチェに、ドーリへの愛を伝えてくれと頼む。ドーリは男のフリをしておりアルセーテにエジプトからの逃亡、バビロンへやって来たこと、そこでオロンテの忠実な愛、アルシノエの嘆きを知ったことを話す。

ディルチェはアルシノエに、オロンテは彼女と結婚する気はないと告げる。アルシノエはオロンテが彼女と結婚してくれたら何をしても良いと言う。エジプトの王子トロメオ(ソプラノ)は、彼女の不幸な愛に同情し、「チェリンダ」という女性に化けておそばにつかえる。アルシノエはチェリンダには恋人がいるのかと好奇心を持つ。

こんな具合にとても登場人物が多く、しかもその人物が異性に身をやつす。その異性に扮したことに気がつかず恋してしまう人が出てくる。

性の対称性、入れ替わり、惹かれあい、と戯れるストーリーだ。

 

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チェスティ《ラ・ドーリ》その2

チェスティのオペラ《ラ・ドーリ》 についてやや詳しく書くと前回述べてからえらく日が経ってしまった。生来怠け者ということもあるし、妙に雑事が集中して、疲弊していたという面もある。ご寛恕を乞う次第。

さて、《ラ・ドーリ》のあらすじ。オペラには時々、第一幕が始まる前にこういうことがあった、というプレヒストリーのあるものがあるが、このオペラもそうだ。ニケーアの王女ドーリとペルシアの王子オロンテは親同士が決めて将来結婚することになっていた。二カ国間の友好関係を確かなものにするためである。ところが、ドーリは子供の時に、海賊にさらわれて行方不明となる。結婚の約束を変更しようということになって、ドーリの妹アルシノエがオロンテと結婚することになる。結婚の前にオロンテは、エジプトに派遣されるが、オロンテはエジプトの王女ドーリに恋してしまう。

 ドーリが二人出てきてもうややこしいのだが少しの辛抱を。エジプト王テルモドンテは、ドーリが生まれるとその養育を部下のアルセーテに委ねた。しかし不注意からドーリ(エジプトの)は死んでしまう。

 アルセーテは罰せられるのを恐れエジプトを逃れ海賊の一味となる。海賊たちがニケーアの海岸を略奪していると、ドーリという名前の少女に出会う。その少女は亡くなったエジプトのドーリと同じくらいの年齢だった。そこでアルセーテは(ニケーアの)ドーリをエジプトに連れ帰った。彼の妻がニケーアのドーリを育て、成長して王の元へと連れて行った。王は、彼女を自分の子だと思っている。

 このドーリとオロンテが出会って恋に落ちるのだが、オロンテは父王に呼び戻されペルシアに戻る。戻ってみると王はすでに死んでいる。王によって摂政役を仰せつかったアルタクセルセは、オロンテに、ニケーアの王女アルシノエと結婚しなければならないと告げる。

 この間、ドーリは将軍エラスト(オロンテがドーリのためにエジプトに置いてきた)とともにエジプトから逃げるが、ドーリは男装している。逃げる途中2人は海賊に捕まり、逃げようとして海に飛び込むが離れ離れになってしまう(なんと複数の要素がシェイクスピアの「十二夜」に似ていることでしょう。シェイクスピアはイタリアの様々な物語をタネ本にしていることがよくあるので、もしかすると、このオペラとシェイクスピア作品は遠い親戚のような関係にあるのかもしれない)。

 岸にたどり着いたエラストはドーリは死んだものと思い込む。彼はオロンテの元に戻り、ドーリは死んだと報告する。アルタクセルセにアルシノエと結婚しなければいけないと言われるが、オロンテは、死んでもドーリを思い続けると宣言する。アルシノエと結婚しないと王位を失う、と脅されてもひるまない。

 実際には生き延びたドーリは、盗賊に捕らえられ、男装したままニケーアで奴隷として売られる。あることからドーリは死刑を宣告されるが、アルシノエが「彼」を救い、アリという名で自分の召使いにする。

 アルシノエはアリ(実はドーリ)に、自分のオロンテに対する報われぬ愛を語る。

 アルシノエは予定されていた結婚のためアリを連れてバビロンに赴く。ドーリ(アリ)は、オロンテの彼女に対する変わらぬ愛を知り、自分の本当の姿を明かして彼と暮らせるようにしようか、あるいはまた、アルシノエは命の恩人であるから、自分の正体を隠し、アルシノエとオロンテが結婚するのを認めようか、迷う。

 その間、エジプトの王子トロメオ(ドーリの兄ということになる)はドーリがペルシアにいると思って探しに来る。トロメオはここでアルシノエに恋してしまう。彼女のそばにいるために、彼は女装して、自らをチェリンダと名乗り、アルシノエの召使となる。

 ドーリとトロメイがエジプトを去ってから、王テルモドンテは、ドーリの教師アルセーテに行方を探させる。

 ここで第一幕が開く。

 

 

 

 

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2019年9月 4日 (水)

チェスティのオペラ《ラ・ドーリ》その1

チェスティ作曲のオペラ《ラ・ドーリ》を観た(インスブルック、州立大劇場)。

 

ピエトロ・アントニオ・チェスティ(16231669)のオペラ《ラ・ドーリ》は今回数百年の時を隔てて蘇演されたのであり(今回の上演は2回で、著者が見たのは2回目の8月26日の上演である)、作曲家、リブレッティスタ、作品、上演について数回に分けてやや詳しく紹介したいと思う。

というのも、今回初めて作曲家チェスティのオペラの上演に接してみて、曲として非常に楽しめたし、リブレットのストーリー展開も複雑かつ興味深かったし、上演の質も極めて高く、稀に味わう満足感を得たからだ。

作品名は正式には《La Dori o’ vero La schiava fedele》(ドーリまたは忠実な奴隷)という題名だ(editionによって別のタイトルもある)。チェスティは決してよく知られた作曲家とは言えないだろうが、モンテヴェルディやカヴァッリ(16021676)の次の世代の作曲家である。今回の上演を観て、聞いて、彼の音楽が随分とメロディーの喜びに満ちていることを知った。カヴァッリと比較して二重唱やアリアの際に、メロディーラインがくっきりしている。プログラムの解説にはメロディーの結晶化という意味の言葉があり大いに納得した。レチタティーヴォの部分ではモンテヴェルディやカヴァッリを想起させられることがしばしばあったのだがアリアや二重唱になるとむしろヘンデルやヴィヴァルディらを先取りしている感じなのである。

リブレッティスタはジョヴァンニ・フィリッポ・アポッローニ(c.1620—1688)。この作品が作られた時期、チェスティはインスブルック(ハプスブルクの宮廷があった)の宮廷作曲家であり、アポッローニは宮廷詩人であった。二人ともアレッツォの出身で、かつフィレンツェで同じグループに所属して活動していた時期があり、チェスティの引き、あるいは彼らのパトロンであったジャン・カルロ・デ・メディチの推薦によって、インスブルックの宮廷詩人となった。

《ラ・ドーリ》のあらすじは続きで。

 

 

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2019年8月29日 (木)

《タンホイザー》

ワーグナーのオペラ《タンホイザー》を観た(バイロイト祝祭劇場)。

指揮者ゲルギエフ。演出はトビアス・クラッツァー。読み替え演出で、これほどピンときたものは珍しい。つまり演出が非常に面白かった。そのことによって超多忙ゆえに、練習時間不足の令名高いゲルギエフの細部のアラ(具体的には合唱とオケのちぐはぐなど)がさほど気にならなかったと言える。

ゲルギエフの指揮も、クラッツァーの演出も、鮮やかといえば鮮やかで、あざといと言えばあざといもので、それが現代においてワーグナーを上演するということの意義を鮮やかに照らし出しているのだった。

序曲の部分で、サーカスの一団のような連中(実はウェーヌスと小人のオスカー(ブリキの太鼓)と黒人のドラーグ・クイーンとピエロの格好をしたタンホイザー)が風がわりなトラックに乗ってドイツの森を疾走しているのだがガス欠になり、ドライブインで無銭飲食をし、警備員を轢き殺してしまう。タンホイザーはショックを受けこの一味から離脱しようかと悩む、という感じ。

ウェーヌスのエロスが一人の女性歌手ではなく、エレナ・ツィトコーヴァ演じる生身の女性のウェーヌスと黒人で女装したドラーグ・クイーンのガトー・ショコラ(これが彼・彼女の芸名)と異界性を帯びた小人のオスカーに分散して表象されている。第一幕が終わった後の長い休憩時間にもパーフォーマンスは野外の庭(池のほとり)で続き、ガトー・ショコラが中心になって、ウェーヌス、オスカーと歌と踊りのショーを繰り広げるのだった。その部分は一般市民にも公開。

二幕になると舞台が上下に区切られていて、上はスクリーン、下が歌合戦の行われる(演じられる)舞台で、歌合戦は一幕からすれば意外なほどまともな衣装、まともに進行するのだが、上のスクリーンは楽屋からの視点で、歌手の楽屋での様子や舞台に出る瞬間や、様々なキューが出される現場を見せ続けている。タンホイザーの世界が芝居ごとなのだ(それは言われなくても分かっているわけだが)という点を強調しているのだろう。しかし最終的にはそこに第一幕のウェーヌス、ガトーショコラ、オスカーが闖入する。その部分は彼らがバイロイト祝祭劇場が上演中のため外部の者が入れないようになっているのに無理やりハシゴをかけてさらに楽屋口から舞台に出てくる様子が映し出される。

クラッツァーが上手いのは、彼らの動きと音楽の進行の合わせ方で、楽想が変化したり転調したりする部分を巧みに利用しているので本来リブレットにない人物、ない動きが違和感がない。むしろ自然でぴったり合っていると思える箇所が多い。                                                               

 第三幕は例のトラックがドアも取れボロボロになっているどこともつかぬ野原。オスカーがスープのようなものを飯盒で作っているところへ、エリーザベトがやってくる。読み替えが最も強烈なのは第三幕だ。もちろん、序曲からの仕掛けがあってのことだが。エリーザベトはオスカーからスープをもらう。その後、エリーザベトを慕うヴォルフラムがやってくる。エリーザベトが倒れているのを見て、ヴォルフラムはタンホイザーが着ていた道化服をきてエリザベスを元気づける。エリザベスが熱く接吻をした後、ヴォルフラムは自責の念を感じたのかカツラをとって自分がタンホイザーではなくヴォルフラムであることを明かすが、エリーザベトは自らヴォルフラムにカツラをかぶせ、トラックの後部座席に引っ張り込みセックスらしき行為に及ぶ。これは従来のエリーザベト像を全く覆す読みである。清らかでタンホイザーのために自己犠牲するエリーザベトだったはず。この変化はなぜ生じたのか?筆者の解釈(無論、絶対的なものだとか、他の解釈がありえないというつもりは毛頭ありません)はこうだ。現代の欲望(エロスにおいても物欲においても)の世界に迷い込んだエリーザベトはオスカーのスープを飲むことで決定的に現代社会の欲望に染まり・汚染され、清らかさを失い、欲望に支配されるようになる。あるいは抑圧されていたおのれの欲望を自覚するようになる。その結果、自分をじっと慕ってくれていたヴォルフラムの好意に応じ、肉体の喜びに進んだのではないか。この女性像の変更は、相当に挑発的で、刺激的であると思う。というのも、エリーザベトの清らかさはイメージとして聖母マリアと重ね合わされおり、この変更はその重ね合わせに大きな亀裂、不協和音を生じさせるからだ。ウェーヌスも第二幕で、儀式的儀式的場面で、皆と一緒に儀式的行為をすることに非常な違和感があるということを身振りで表現していた。

 しかし、現代において、欲望の象徴のウェーヌスと貞潔の象徴のエリーザベトを揺れ動くタンホイザーをストレートに描いても、時代遅れというか、ピンとこない恐れが濃厚なのに対し、今回の演出では現代のロードムービー的要素やLGBTQ的な要素を取り込み、現代におけるエロス、欲望の意味を根源的に問うと同時に、そもそもワーグナーの相対化、バイロイト祝祭劇場およびそこに巡礼する人々への痛烈な批判的眼差しを露出させたものになっている。こういう演出をする演出家も大したものだし、またこれだけサーカスティックに扱われても多少のブーイングはあれど圧倒的に支持の多い拍手の嵐を浴びせる観客層も懐が浅くないと感じた。

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《ニュルンベルクのマイスタージンガー》

《ニュルンベルクのマイスタージンガー》を観た。(バイロイト)

指揮はフィリップ・ジョルダン。クラウス・フローリアン・フォークトがヴァルター。彼はほぼ50歳だが驚異的に滑らかで大音量の高音が出る。表情・演技もある。良い意味での怪物だ。

この日はベックメッサー役が病気のため、マルティン・ガントナーが代役を勤めた。

この長大な曲はやはり、前奏曲にエッセンスが詰まっていて、その様々な主題が分散して、展開して、繰り返されていく。その前奏曲および枝分かれ部分がもっとも重要な部分であり、飽くことなく繰り返されていくわけだが、時たま、ヴァルターがアリア風の歌を歌ったりもする。

演出はバリー・コスキーで、ベックメッサーのユダヤ性を強調していて、彼がやっつけられる場面でまるで殺されたかのような動きがあった後、天井から巨大なベックメッサーの風船ハリボテが降りてきて、頭にははっきりとユダヤの印(ダヴィデの星)の帽子をかぶっていた。原作のリブレットでは明示されておらず、論争の種にもなるベックメッサーのユダヤ性が強調され、彼を排除することでかえって彼の亡霊に支配あるいは取り憑かれている感じを出していたのかもしれない。儀式で祈るような場面でもベックメッサーだけが祈りのポーズをとらず、周りから強要されて渋々応じる様も演じられていた。

第三幕では舞台が第二次大戦後のニュルンベルク裁判と重ね合わせられていたのもベックメッサーの呪いの表れの1つと言えるだろう。しかし、登場人物の衣装は中世風で壮麗であった。

休憩2回それぞれ1時間なので、4時始まりで10時半過ぎまで。体力勝負である。

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2019年8月23日 (金)

マクシミリアン1世時代の音楽

Maximilians Lieb und Leid と題されたマクシミリアン1世の宮廷あるいはその時代に活躍した作曲家の音楽を聴いた(宮廷教会および民族博物館の中庭)。

マクシミリアン(時代の)愛と悲しみ、とでもいうのが音楽界のタイトルなのだろうが、当然、Lieb Leid で頭韻を踏んでいるし、Leid の文字を並べ替えればLied (リート、歌曲) となるので、言葉遊びが仕掛けられているタイトルであると思う。

扱われる作曲家は

Heinrich Isaac(1450-1517)

Paul Hofhaimer (1459-1537)

Ludwig Senfl(1486-1543)

Costanzo Festa(1490-1545)

Josquin Des prez (um1455-1521)

Francesco da Milano(1497-1543)

Mabriano de Orto (1460-1529) などなど。

ジョスカン・デプレ以外は、ああこの人、とか前に聞いたことがあるといった記憶がない。たまたまFMなどの放送で聞いたことはあったかもしれないが、この人というくっきりとした形を帯びていない。実際、曲を聴いてみても、この時代の曲だなあ、ということはあるのだが、特定化してこの曲という記憶が蘇ってきた曲はなかった。

音楽会は一部と二部に分かれていて(間に小休憩、そこでワインとパンが振舞われていた)第一部は宮廷教会の内部、第二部は、宮廷教会に隣接した今は民族博物館となっている建物の中庭(寒かったです、夜9時過ぎていたので)に場所を移した。筆者はぼうっとしていて薄着で出かけてしまったのだが、周りの人はしっかりパーカーなどの防寒具を用意して着込んでいた。服装としてはこちらとしてはありがたいことに、かなりカジュアルである。

演奏会場が移った意味はあって、第一部は聖母マリアに祈る歌だったり宗教曲が多く、それに対し第二部は世俗曲がほとんどだったように思う(断言できなくて恐縮です)。

演奏団体はEnsemble Vivanteといい、ホームページを見てみると、メンバーは6人なのだが、この日の演奏会ではその内5人と他のゲストが2人の7人で演奏していた。特徴的なのは、オリジナルの6人の場合であれ、この日の演奏会であれ、テノールが2人いること。彼らのホームページによれば、テノール2人という形は、17世紀イタリアで流行って、宗教曲・世俗曲双方に用いられたとのことだが、今回のプログラムは16世紀のドイツ語圏でさらに早い時期からこの形が用いられていたことを示すことになるうのだろうか。この日のプログラム時たま楽器だけの曲もあったが、ほとんどがテノール1人または2人と楽器であった。テノールはErik Leidal Tore Tom Denys. リュートがDavid Bergmuller(uウムラウトです)、チェンバロとオルガンがAnne Marie Dragosits で彼女がこのグループの音楽監督でもある。ヴィオラ・ダ・ガンバとギターがDaniel Pilz, ハープとフルートがReinhild Waldek, ツィンク(角笛のような形)とフルートがMatthijs Lunenburg で彼はゲスト奏者。

作曲家で言えばHeinrich Isaac はオランダ出身だがフィレンツェに長くおり、のちにマクシミリアンに雇われている。

Paul Hofhaimer はザルツブルク近郊で生まれ、オルガニスト・作曲家として有名で、当時、ドイツ語圏以外にまで知られた作曲家はIsaac Hofhaimer のみであったという。彼もまたマクシミリアンに雇われた。

Ludwig Senfl の場合なかなか複雑な生涯だ。おそらくはバーゼルに生まれ、チューリヒに育ち、Isaac の弟子となり、やはりマクシミリアンに雇われる。Isaacの死とともに宮廷作曲家となるが、マクシミリアンの死により失職する。その後、求職活動をするが、彼は公的にプロテスタントにはならなかったが、シンパシーを抱いており、ルターとも書簡をやりとりしたのだった。やがて、プロテスタント的傾向を持った人間にも寛容だったミュンヘンで職を得る。

Costanzo Festaは名前から推測されるようにイタリアの作曲家。

Josquin Desprezはフランスの作曲家だが、カスティリオーネやルター が言及しているのは興味深い。

Francesco da Milano はミラノの近郊モンツァで生まれ、ローマ教皇の宮廷に仕えた作曲家。

この時代、思えば、宗教改革をはじめとして激動の時代であったわけで、音楽的にどんな形でそれが反映していたり、それを読み込むことが可能なのか、興味をかきたてられた。しかし、そういうことを抜きにしても、この時代の音楽を6人や7人の演奏家が奏でるのを聞くと、古楽器の繊細な響きと声とで実に精妙な音楽の綾が目の前で編まれていく。また、宮廷教会のオルガンは、ストップを変えると、他の教会のオルガン以上に劇的に音色が変わる(ように思えた)のもまことに印象的であった。

 

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2019年8月22日 (木)

ヘンデルのオペラ《オットーネ》

ヘンデルのオペラ《オットーネ》を観た(インスブルック、Theologische fakultat, Innenhof)。場所としては州立劇場の並びだが、小ホールで客席は1階のみ。人数は270名ほど。オケは20名弱だが、ホールが小ぶりであるので十分に鳴る。このサイズになると、リュートにPAを入れなくても、例えばチェロ1丁とリュートがアリアの伴奏をする際に実に良い音のバランスが出現し、この音のバランスは3階、4階があるホールでは無理があるのだと認識せざるを得ない。

弦楽が休んでいたり、他の楽器に先がけてリュートがパラン・パランと導入フレーズを弾くのは時にとても効果的なのだが、音のバランスが成り立っていなければ、聞こえないか、PAの音を聞くかの選択になってしまうのだ。そういう意味で非常に贅沢な音空間である。

指揮者はファブリツィオ・ヴェントゥーラ。オケはアカデミア・ラ・キメーラ。

楽団員は若い人ばかりに見えた。指揮ぶりは、概ね穏やかで、あまりアタック音を目立たせたりはしないし、ドラマティックに盛り上がる曲想においても疾走することはなく、音は古楽らしいが、曲作りは安全運転な感じである。それはオケの能力ということにも関係していると思われる箇所がいくつかあった。歌手もほぼ若手ばかりで、タイトル・ロールのオットーネがメゾのマリー・セイドラー。テオファーネがマリアミエッレ・ラマガット。ジスモンダがメゾのヴァレンティーナ・シュタットラー。彼女が声の成熟度や表現力において他の歌手より優れていた。アデルベルトがアルベルト・ミゲレス・ロウコ。マティルダがアンヘリカ・モンへ・トッレス。彼女は言葉が明快で、これで声に伸びやかさが加わればと思った。エミレーノのヤニック・デブスはバリトンで舞台姿を含めて声の表現力もなかなかのものだった。大物歌手はいないが、若い歌手の懸命の歌唱を聞くのも悪くない。ここでアジリタがもう少し回ればなどと思うこともあるけれど。

この上演はハレやゲッティンゲンでのヘンデル音楽祭(2020年)との共同プロダクションであるとのこと。演出は簡素な舞台で、奥の壁に窓がいくつかついていて、そこから他の登場人物が歌っている登場人物を盗み見ていることがあるという仕組みだが、不満はなかった。衣装も簡素であった。

 

 

 

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2019年8月21日 (水)

《イドメネオ》

クルレンツィ指揮のモーツァルト作曲のオペラ《イドメネオ》を観た(ザルツブルク、フェルゼンライトシューレ劇場)。

 この上演は、クルレンツィスのという冠がふさわしい《イドメネオ》であった。演出はピーター・セラーズで賛否半ば。歌手は色々な国籍の人が入り混じっている点に意味があるのかと思った。

主人公イドメネオはアメリカ出身の黒人歌手ラッセル・トマス。アルバーチェは南アフリカ出身の黒人歌手。イダマンテはポーラ・マリヒーというアイルランド出身の女性歌手。イリアはイン・ファンという中国人女性歌手といった具合。誰かが傑出しているというわけではなく、それぞれにそれなりに歌っているという感じ。

 この日のオケはフライブルク・バロック・オーケストラだったが、このオケとクルレンツィスの組み合わせが驚嘆に値するものだった。特に前半(この日の上演は休憩1回で第一部と第二部という感じに区切られている)、今までの《イドメネオ》の演奏でこれほどエクサイティングなものはあったかというほどエクサイティングであったがその理由は後述。ただし、無から有が生じるわけではなく、モーツァルトを古楽器やピリオド楽器で演奏すること自体は、30年ほど前からホグウッドやガーディナーらがやっていることで、ガーディナーの《イドメネオ》のCDは個別の歌手はともかく全体は素晴らしく大いに刺激的かつ溌剌とした演奏である。

 そういった古楽器、ピリオド楽器によるモーツァルト演奏を踏まえつつ、クルレンツィスはやはり独自性を豊かに備えていると思う。

 一つはフレーズの変わり目で一息つくのではなく、前のフレーズと次のフレーズの接続が有機的であったり、音楽的なドラマに満ちて聞こえるのだ。さらに彼の手にかかると、歌手がアリアやレチタティーヴォを歌っているときに、例えばバイオリンが音形的な伴奏をしてもそれが非常に音楽的に表情を持って訴えかけてくるのである。そのため、オーケストレーションがシンプルであってもオケがエスプレッシーヴォなので、歌手の歌がのっぺりしていると食われてしまう。決して音量的にオケが圧倒するというのではない。そうではなくて、音楽的表情がメロディー的なフレーズでなくても豊かに繰り出せるので、声の方もうかうかしてられないのだ。逆に言えば、観客はこのアリアが表出した表情はこういうものだとオーケストラの表情・表現から如実に理解してしまうので、それに歌手がふさわしく歌っているか、という聴き方になってくる。そういう意味で通常の指揮者とやるよりは歌手にとってずっと怖い指揮者だと思うが、やりがいがあるのも疑い無いところ。

論争的な問題を引き起こしそうなのは第二部で、2つ上げておく。1つは、第二部の冒頭に、モーツァルトの作品ではあるが全然別の作品を、登場人物でない歌手に歌わせたこと。《エジプトの王、タモス》k .345からで、バス歌手が

2階の脇のバルコニー状の部分で歌うのだが、これはドイツ語の歌詞なのだ。

作曲時期は近いとは言え、《イドメネオ》は全てイタリア語なので、言語的な違和感、なぜこの曲を挿入するのか、という疑問をクルレンツィスが聴衆に投げかけているのだと言えよう。

  さらにこれはこちらが無知であったのだが、劇の進行が終わって(エレットラが死ぬ)舞台上に倒れているのだが、そこで終わりではなくそこから延々バレエ音楽が流れる。調べてみれば、これはオリジナルにあるのだ。ただし、今回踊っていたのは、東洋風というか手旗信号とからくり人形と太極拳を足して3で割ったようなビミョーな踊りをLemi Ponifasio というコレオグラファー兼ダンサーが演じていたが、モーツァルトのオペラの舞台が古代ギリシアであることを考慮に入れても、全然似つかわしいとは感じられなかった。出演者の出身地がさらにワールドワイドになるという点には貢献していたのだろうけれど。Ponifasio のバレエは足の動きが全くエレガントではなく、こまたでチョコチョコと進むのだ。ふう。ピーター・セラーズにブーを飛ばす人もいますわな。

 全体としては、《イドメネオ》が実によくできた部分、ドラマティックな部分を持った作品であり、また他のオペラ作品にはない過激な要素を持ったオペラなのだということを理解させてくれた。レチタティーヴォはかなりカットされていたようだが、それでも、あるいはそれゆえに第一部は濃密な音楽世界の連続で圧倒された。この濃密な音楽世界はまごうことなくクルレンツィス主導のもので、クネクネとした動きとともにくせになりそうである。

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オペラ〈アルチーナ》

ヘンデルのオペラ《アルチーナ》を観た(ザルツブルク、モーツァルト劇場)。

 

ザルツブルク音楽祭(festspiele なので音楽には限らないし、演劇も上演しているのだが慣例に合わせこう呼んでおく)のメイン会場となる3つの劇場はそびえ立つ岩山に接してあるいは岩山をくり抜いて横並びに並んでいるわけだが、モーツァルト劇場(Hause fur Mozart)は一番舞台の幅が狭く、モーツァルトやバロックに向いていると言って良いだろう。岩が露出しているフェルゼンライトシューレも、舞台の幅は広いのだが客席はさほど大きくないので、バロックや現代物が上演される。

(もちろん例外はある)。

 

今回の《アルチーナ》は、聖霊降臨祭の時にバルトリが中心となってオーガナイズしたプロダクションの再演である。ザルツブルクで催される芸術祭(音楽祭)と言えば夏のものが伝統もあり中心的なものであるが、近年は他のシーズンにも催され、それは厳密に言えば組織体や芸術監督・音楽監督が異なり、バルトリは確か精霊降臨祭の方の音楽監督であったかと思う。。。調べてみると、彼女は2012年に聖霊降臨祭の芸術監督となり、2014年にはその任期が2021年までに延長されたのだった。今回のオケを担当したモンテカルロ歌劇場のオケ(Les Musiciens du Prince-Monaco)も彼女のイニシアティヴで創設されたものである。バルトリはキャリアの初期から独自のレパートリー、新たな音楽シーンを切り開いてきたわけだが、2010年代に入ってからは自分の芸術観を具現化する組織を手に入れ、それを実現していると言えるだろう。プログラムの解説にもある通り、彼女の活動の中心はザルツブルクになってきており、2013年にはノルマ役をここでデビューし、ヨーロッパ各地で歌っている。

さて今回の《アルチーナ》ではタイトル・ロールの魔女アルチーナをチェチリア・バルトリが歌い、彼女の魔術でとらわれの身となったルッジェーロをフィリップ・ジャルスキーが歌う。アルチーナの妹モルガーナは、しみじみとした曲、コミカルな曲があり歌い手にとってお得?な役だと思うがサンドラン・ピオ。バルトリ、ジャルスキーの歌唱レベルが、いや演技も発声も高いレベルにあるので、求める水準が高くなっていることを断った上で言うと、ピオの問題点は言葉、歌詞の言葉が聞き取りにくい点にある。子音がまるまってしまい判別できないのが1つ。もう1つは、曲によるのだが、単語ごとにアクセントをつけて、フレーズとしてのアクセントの位置がわからなくなってしまうことがままあった。ジャンルーカ・カプアーノの指揮とオケは見事に音楽的で歴史的な情報に配慮した演奏が、微塵もカビ臭くないどころか、実に生き生きとしているし、ヘンデルの中でも演奏機会の多い《アルチーナ》では弾き手も聴き手も余裕を持って(いい意味の緊張はある)音楽が進んでいく。

演出はミキエレット。現代服。舞台を2つに区切る大きなスクリーンがあり、そのスクリーンは回転舞台の上に乗っていて、舞台全体を前後に二分していることが多いが、バルトリが老婆(魔女の正体)とそのスクリーンを挟んで向き合ったりする。老婆の他に少女も時々でてきて、これもアルチーナの分身らしい感じ。隣席にいたイタリア人同士が話しているのが漏れ聞こえてきて、少女はアルチーナの魔術の化身(擬人化)と言っているのを聞いてそうかもしれないとも思った。この2人とイタリア人は、休憩時間に延々とリブレットについて語っている。リブレットがイタリア語で書かれているからこそではあろうが、歌手や指揮や演出はそっちのけで、台本について細かいところをここはこういう意味だとか話し込んでいる客を初めて見た。

バルトリに関して個人的に言えば、ギリギリまで叙情性を発揮して観客の感情移入を求める曲よりも、アクロバティックな超絶技巧を披露する方が彼女の本領発揮という感じがする。叙情的な曲では、紙一重のところでやりすぎ感を感じることがなくはない(劇場では満場の大拍手であることを付け加えておかねば不公平であろうけれども)。ジャルスキーの場合は、そこがクールと言えばクールで感情を込めつつ、節度が保たれており、音楽としての形が美しい。叙情的な曲ではほとんどの歌手がテンポが遅くなり、伴奏だけの部分で指揮者がricupero (元のテンポに戻す)してやる必要があり、優れた指揮者はそれをさっとやるのだが、凡庸な指揮者だとそのままテンポがズルズルと遅くなり、曲がだれてしまう。ところがジャルスキーやファジョーリのような音楽性において傑出した歌手になると指揮者がricuperoしてやらなくてもすっと元のテンポに戻れるのである。いずれにせよ、歌手としてはこの2人が傑出していた。ジャルスキーも若いとは言えないし、日の出の勢いという感じでバリバリ歌うというのではなく、最後のircana のアリアでは息継ぎや力の配分がギリギリのところなのだろうと推察された。ついでメリッソを演じたアラステア・マイルズ。声質で魅了されるというよりは言葉がはっきり伝わり、かつ、声の表情にメリハリが効いているので、脇役として場面、場面がピリッとしてくる。

最上階のせいか、リュートやハープの活躍する場面ではPAが目立たないように使用されていたように思う。少年オベルトの歌うところでは使用されておらず、2幕の冒頭でも使われておらずという具合に、PAの使用にオン・オフがあったように思われた(劇場関係者に確認したわけではない)。PAが入ると、リュートの音がはっきり聞こえるのみならず、弦の響きも少し賑やかになるのだ。微妙な差異なので気にならない人には気にならないであろうレベルであった。

指揮・オケ共に技巧も音楽性も卓越し、かつスイングして申し分ない。古楽器奏者、演奏団体の層は着実に厚くなっている。

イタリアの騎士物語の長編詩を基にしたバロック・オペラは今や極上のエンターテイメントとして享受されている。

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