2018年5月22日 (火)

《アルチーナ》

ヘンデルのオペラ《アルチーナ》を観た(目黒パーシモンホール)。

二期会ニューウェーブ・オペラ劇場と銘打った公演で、まさに二期会としてはニューウェーブである。日本で、相対的に小さな団体ではバロックオペラの上演があるものの、新国立や藤原、二期会はバロック・オペラに積極的に取り組んでいるようには見えなかった。あるいはすでに取り組んでいるのかもしれないが、それが具体的に成果としてあらわれている部分が大きいとは言えなかったように思う。
今回の上演は、指揮鈴木秀美(敬称略・以下同様)、オーケストラがニューウェーブ・バロック・オーケストラということでピリオド楽器を用いており、指揮者もピリオド楽器やバッハ演奏に通暁した方であり、その点においては日本でこれだけのレベルのものが聞けるのは素晴らしいことだと思った。ないものねだりを言えば、オペラの指揮というのは歌手や演劇的要素が混入するので、テンポや間のとり方も含め、器楽曲や、あるいはカンタータやオラトリオのように声楽曲とも異なるので、どう劇的な緊張をたかめるか、歌手が朗々と歌った場合にどこで元のテンポに戻すかなどオペラならではの工夫が必要なのだと感じた。
歌手についていえば、主役のアルチーナの梶田真未の歌とやや端役ではあるがメリッソのバスの金子慧一のレチタティーヴォがよかった。当たり前と言えば当たり前なのだが、大きな声をはりあげつつアジリタを歌うのはむずかしいのだということを実感した。たとえばピアノならトリルでミファミファと繰り返すのはなんでもないのだが、声はこういった動きを早くやるのはとてもむずかしい。しかしロッシーニやバロックオペラではアジリタがキマる、音階の形がきれいにでることが必須である。ヨーロッパの演奏水準を考えると(それは現状では経験の差が大きいと思うのだが)なかなか苦しい人も見受けられた。
しかし全体としては立派な演奏であり、熱唱であり、それなりに興味の持てる演出であった。

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2018年5月 2日 (水)

《環状線の猫のように》

リッカルド・ミラーニ監督の《環状線の猫のように》を観た(イタリア映画祭2018,有楽町・朝日ホール)。

ローマの中心部に住みシンクタンクで働く父親とその娘が一方にいて、もう一方に、ローマの郊外で様々な人種が混交して住む地区の母と息子がいる。子ども同士がつきあい始めたことで、どちらの親も心配になり、尾行しているうちに親同士が知り合うというストーリー展開。
シンクタンクで働く父親は、大都市の郊外問題を仕事の対象としているのだが、実情は知らなかった。それが娘の交際をきっかけに住民と関わりをもたざるを得なくなる。
コメディなのだが、コメディーを通じて社会問題をストレートに差し出している。イタリアにはこういう社会問題を扱ったコメディでよく出来たものが多いと思う。《やれば出来る》(精神病棟を解放して彼らがどう働き場所を持つかもそうだったし、《明日のパスタはアルデンテ》も、同性愛の問題をコメディータッチで描いていた。プログラムで監督と主演女優が語っていることだが、コメディーのほうがストレートに多くの観客に社会問題を届けることが出来るわけだ。納得。

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2018年5月 1日 (火)

《ザ・プレイス》

パオロ・ジェノヴェーゼ監督の《ザ・プレイス》を観た(イタリア映画祭2018,有楽町・朝日ホール)。

あるバールに座って人々の人生相談に応じている男(マスタンドレア)がいるのだが、相談者に与える答えは、ことごとくほとんど不可能な課題をやりとげよ、というものだ。老婦人に、爆弾をしかけて無関係の人々を殺せなどと言うのだ。
相談者は複数いるのだが、最初はバラバラの相談に見えるのだが、徐々に彼らの間の関係・絡み合いが見えてくる。
一種の室内劇のような映画である。

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2018年4月30日 (月)

《メイド・イン・イタリー》

リガブーエ監督の《メイド・イン・イタリー》を観た(イタリア映画祭2018,イタリア文化会館および有楽町・朝日ホール)。

イタリア文化会館で観たときには仕事の関係で最初の30分を観そびれてしまったため、ストーリーがなかなか飲み込めなかったが、朝日ホールでは最初から観たので納得がいった。
リガブーエはポップスの歌手であり、本人によれば、歌をつくるのはまったく日常茶飯事なのだが、映画はまったく別のジャンルなのでやりがいはあるが大変だという。この作品の場合、同じタイトルのCDというか音楽アルバムがあって、出来上がったあとで、このアルバムの主人公リコを映画に出来ると思ったという。リコは歌手にならなかった場合のリガブーエでもあるという。
主人公はハム工場で働いて、妻とはぎくしゃくしている。そこからいろいろあって、自分の置かれた状況をあらためて見直すというストーリーである。

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2018年4月29日 (日)

《シチリアン・ゴースト・ストーリー》

アントニア・ピアッツァ、ファビオ・グラッサドニア監督の《シチリアン・ゴースト・ストーリー》を観た(イタリア映画祭2018、有楽町・朝日ホール)。

マフィアの司法協力者(ペンティート)の息子が誘拐され監禁され殺された実話に基づく映画。この事件はイタリアでは有名な事件で新聞でも繰り返し取り上げられている。
2人の監督は基本的な骨格は事件のままに、その男の子のガールフレンドを設定し、彼女だけがこの失踪事件を真剣にフォローしていく(しかしそれは幻想を通じてでもある)という仕組みを取っている。そのため、怖い話なのだが、一種のラブストーリーにもなっている。そこに観客にとっては一抹の救いがあるとも言えるのかもしれない。

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イタリア映画祭、始まる

恒例のイタリア映画祭が今年も4月28日に開幕した(有楽町、朝日ホール)。

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2018年4月22日 (日)

イタリア語で読むウンベルト・エーコの『いいなづけ』

ウンベルト・エーコ著白崎容子訳・解説『イタリア語で読むウンベルト・エーコの『いいなづけ』』(NHK出版、1900円)を読んだ。

複雑なタイトルなので言わずもがなの説明をしておくと、『いいなづけ』はもちろん、アレッサンドロ・マンゾーニの古典。イタリアでも最も有名な小説である。ただし、これは長い長い小説なので、エーコが少年少女向けに要約した版の翻訳である。エーコの要約は、エーコによる作品へのコメントがところどころに入り、最後にはエーコからマンゾーニに対する究極の質問まであって単なる通り一遍の要約ではない。
さらに、この本の構成として、エーコの文章が日伊対訳になっていて、丁寧な語注がついているのだが、それだけではなく、章ごとに訳者白崎容子氏によるマンゾーニとエーコ版の相違や時代背景に関する解説・説明があって、マンゾーニ作品に対する二段構え、三段構えの噛み砕いた解説書となっている。エーコは現代イタリア語で書いているので、読み物として楽しみながら語学を学ぶという目的にも使えるし、てっとり早く『いいなづけ』のあらすじを知りたいという人にも役立つと思う。
エーコの文章をマルコ・ズバラッリ氏が朗読したものがダウン・ロード出来るようになっている。
これをきっかけにマンゾーニの『いいなづけ』を読んでみる人が増えるといいと思う。原作もナレーションの仕掛けが面白いし、この小説を読むことは、イタリア人やイタリア理解にとって欠かせないと思うし、小説の味わいとして、善悪優劣ではなく、イギリス小説などとは違った味わいを持つと思うからだ。

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2018年4月15日 (日)

《セミラーミデ》

メトのライブビューイングで《セミラーミデ》を観た。

約25年ぶりの再演ということで、プロダクションは同じだが、当然歌手は入れ替わっている。1992年の上演では、手元のヴィデオ資料を見ると、ジェイン・アンダーソンがセミラーミデ、マリリン・ホーンがアルサーチェ、サミュエル・レイミーがアッスール。
今回は、セミラーミデがアンジェラ・ミード、アルサーチェがエリザベス・ドゥショング、アッスールはイルダール・アブドラザコフ、高僧オローエはライアン・スピード・グリーン、インドの王イドレーノはハヴィエル・カマレナ。
《セミラーミデ》の原作はヴォルテールの『セミラミス』だそうだ。セミラーデは女王で、15年前にアッスールと組んで前王を毒殺している。その時王子ニニアは行方不明となっている。実は名前をアルサーチェと変え家臣に育てられ今は若き武将となっている。
セミラーミデはアルサーチェの正体を知らず、息子に恋し、結婚して彼とともに王国を統治しようとするが、アルサーチェには恋人がいる。アッスールは自分がセミラーミデと結託して王位につけると考えてる、という結構込み入った話だ。
セミラーミデが息子と結婚しようとすると、前王の亡霊が現れる。亡霊は何度か現れるし、アッスールに対しては目に見えない形で働きかけたりするので、《ドン・ジョヴァンニ》や《マクベス》(無論作られた順番はこちらが後だが)を想起させるような場面がある。
アンジェラ・ミードは渡辺直美を思わせなくもない豊かな体格のアメリカン・ビューティで存在感があるし、声もあるし、アジリタも満足。アルサーチェ役のドゥショングは丁寧な歌唱で歌詞も聞き取りやすい。歌詞の聞き取りやすさで言えば、オローエのライアン・スピード・グリーンも最終場面の一箇所を除いて実に立派だった。最近はアメリカ人の歌手でもイタリア語の発音がしっかりしている人が増えたのは好ましい。アブドラザコフはアジリタの器用さはともかく声も演技も堂々たるもので格調のある悪役である。
ただし、ロッシーニの音楽では、ブッファの場合など明らかだが、一つ一つの単語が聞き取れるかどうかよりスピードが大事な場面がある。ベニーニの指揮はところどころ緊張感を欠く場面があった。緊張している場面なのだが、中間部でリラックスした音楽になるところ、そこで楽しげに舞いあがるようなリズムとテンポで行って欲しいのだが、という場面がいくつかあった。
全体として見れば、ロッシーニのオペラ・セリアの演奏レベルは確実に上がっているし、聴きがいのあるものになっているのだと思った。

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コンサートのお知らせ

シエナの友人からコンサートのお知らせ。

シエナのキージ音楽院で、5月12日18時からバッハのコンサートがあるという。演奏は
Turin Baroque Orchestra と Ensemble  Sol Invictus でJ.S.バッハの音楽の捧げ物を演奏する。
1747年に5月17日に、プロシアのフリードリッヒ大王がバッハを長年招待していたのだが、やっとバッハがそれに応えた。バッハはテーマを与えられそれに基づき6声のフーガを作った。これは一種の論説のような音楽で、中身が濃い。
入場は無料だそうです。この時期、シエナにいらっしゃる方はどうぞ。

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2018年4月11日 (水)

フランコ・ファジョーリ『ヘンデル・アリア集』

カウンターテナーのフランコ・ファジョーリが歌う「ヘンデル・アリア集」というCDを聴いた。

オーケストラはイル・ポモドーロ(コンサート・マスターはゼフィラ・ヴァロヴァ)。CDの解説書で不思議なことが1点ある。イル・ポモドーロのメンバーは第一ヴァイオリンは誰と誰、第二ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバス、オーボエ、ファゴットと書いてあるのに、チェンバロは書いてない。ゲスト出演なのかもしれないが、その名前が書かれていない。CDでは明らかにチェンバロの音はしている。
カールスルーエで聴いたファジョーリのコンサートでもオーケストラはイル・ポモドーロであったのだが、この時は女性のチェンバリスタが弾いていた。
このCDはカールスルーエに行く前に予習として数度聴いていたが、コンサートとは曲目が結構入れ変わっていた。そしてまたこのところ何度か聴いてみたので感想を書いてみる。
1つ思うのは、CDというのは媒体としては1980年代に出来たのだからもう30年以上経過して最近はハイレゾというものが出てきて規格としては古びたものとも感じられるようになってきた。いやハイレゾうんぬんと言う前にスーパーCDとかDVDオーディオが出てきて規格として
はCDより優れたものだったのだが、普及しなかった。今はまた、ブルーレイに音だけを入れるブルーレイオーディオがあるのだが、どうなることやら。どうなることやらというのは、ブルーレイを本格的なオーディオと接続する手立てが容易ではないのだ。テレビに接続するのはいとも簡単なのだが。。。
そう言いたかったのは、CDは規格は古いが、2000年以降の録音のものは音が良くなっている気がする。詳しいことはわからないが、録音現場および機材がCDの技術を完全に消化した結果、音がよくなっているのではないだろうか。
というわけで、ファジョーリとイル・ポモドーロという黄金のコンビを間近で何度でも繰り返し聞けるCDというのはありがたい。収められている曲目はオペラ名をあげると、《オレステ》、《セルセ》2曲、《リナルド》2曲、《イメネオ》、《忠実な羊飼い》、《ロデリンダ》2曲、《エジプトのジュリオ・チェーザレ(=ジュリアス・シーザー=カエサル)》、《アリオダンテ》2曲、《パルテノペ》で全14曲。静かなしみじみした曲あり、劇的に盛り上がる曲あり、緩急をうまく組み合わせてあって飽きさせない。ライブと比較すると、ライブにはムラがあって最初は身体があったまってなくて慎重に歌い出すが、だんだん身体にエンジンがかかってくるとテンポやリズムもノリノリになってくる。このCDはスタジオではなくて、イタリアのヴィッラ(別荘)で録音しているが、CDにする録音という意識があるから慎重でお行儀のよい演奏となる。ライブとの違いはそこである。ライブは一回切りということで、失敗をおそれずノリで突っ込んでいくところがあってワクワク感は大きい。CDは繰り返し聴かれることが前提で破綻のない演奏をしようという意識が強まる傾向がある。これはファジョーリやイル・ポモドーロにかぎらず一般的にそうである。だから、ファジョーリが各地でやっているコンサートのライブ録画・録音が出ることを切望する次第である。オペラでもそうだが、ライブにはライブの良さがあり、録音セッションには録音セッションのよさがあるのだと思う。
ファジョーリの声はマイクがオンなのか、息づかいや声のこまかな震えまでものすごく細かくわかる。楽器間のバランスも、ライブでは会場によって限定されてしまうが、録音では細心の注意を払ってバランスが取られているだろう。ヘンデルのアリアは全曲の中で聴くのが一番だとは思うが、こうしたアリア集にも独特の魅力があるものだ。

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『ベルルスコーニの時代』

村上信一郎著『ベルルスコーニの時代ー崩れゆくイタリア政治』(岩波新書)を読んだ。

274ページの新書であるが、非常に情報がきめ細かく読み応えがある。しかも、村上氏の書くものは他のものでもそうなのだが、政治学の専門家、イタリア政治の専門家でない者にはわからない可能性の高い言葉、人名には懇切丁寧な説明がついているので、いちいち辞書やインターネットで引く必要がない。それどころか、ややむずかしい漢字にはルビ(よみがな)が振ってあり、一般の大学生などにもとっつきやすいものとなっている。個人的には、漢字がやたらと平仮名に変わってしまうのには抵抗があり、最近の文庫、新書は少しずつ活字が大きくなっているので、ルビを振るのはとても良い考えだと思う。
肝心の中身であるが、第一章ではベルルスコーニがどう成り上がっていったかが事細かく描かれる。最初は不動産業者として、次にはテレビ業界の覇者として。
次の第2章が僕としては一番読み甲斐があった。ここで扱われるのは、ベルルスコーニだけでなくイタリア政界全体を巻き込んだP2と呼ばれるフリーメーソンの関わる事件なのだが、P2はイタリアの新聞などで現在でも言及されることが多いわりには、全体像を把握・理解することがとてもむづかしいのだ。今回、村上氏の痒いところに手がとどく懇切丁寧な叙述のおかげで自分の理解が大いに進んだ。P2というのはフリーメーソンの会所(ロッジャ)の1つなのだが、イタリアの政界・軍の重要人物が多く集まった極めて特殊な会所で、そこを舞台に、というかそこで出来た人脈を用いて、さまざまな陰謀や資金洗浄などの犯罪が企てられたのである。フリーメーソンの一般論をのぞいても、P2の話は出てこないので、これを理解するのはむずかしいのだ。また、このP2の人脈拡張のキーパーソンであったリーチョ・ジェッリ(なんとも鵺のような人物で面白い人物ではある)のバックグラウンドの説明も明快でかつ詳しい。
一般的なイタリア現代史といった類の本では1つのトピックをここまで掘り下げるのは叙述のバランスの点でむずかしいが、本書はベルルスコーニに焦点をあてているので、このようなことが可能になっているし、このP2と軍、警察やヴァチカン、そしてマフィアがどう関わっているのか複雑怪奇な関係がようやく飲み込めた気がする。
第3章のベルルスコーニが政界に進出することになった理由・背景も面白い。テレビ業界の経営がギリギリの所に追い詰められて打開策をもとめて政界に打って出たというのが村上氏の説明であり、説得力に富む。ベルルスコーニはイタリアの新聞でも、良くも悪くもベルルスコーニ中心に賛成・反対勢力が勝ったり負けたりしながらイタリア政界が20年を過ごしたと言われている。日本で言えば田中角栄が思い浮かぶだろうか。
第4章以下は、プローディらのオリーブの木とベルルスコーニ勢力との戦いの模様であるが、これもあらましは知っていたが、この本で新たに断片的な知識がこうつながっていたのか、という箇所がいくつもあった。イタリア政治を相当丁寧にフォローしていないと、個々の情報が断片でとどまり、情報どうしの連関が見えてこない場合が多いのだが、本書はそこの連関を見せてくれるのがありがたい。
ベルルスコーニに対して、イタリアの知識人がどういう反対の立場をとってか、どのような言葉・批判をしているかも丁寧に取り上げられている。
この本を読むと、イタリアの政治が腐っていて、崩壊していると思うかもしれないが、日本の政治、アメリカの政治、イギリスの政治等々がそんなに立派なものなのか?いやいや出鱈目なところがある、というのはNHKのBSニュースを見ているだけでもわかる。ベルルスコーニに関してきわめて特異と思われるのは彼がイタリアの主要民放をすべて間接的に所有して影響力を行使しているという点だ。ここまでのメディア王が首相になった国は例をしらない。
本書はイタリアおよびイタリアの歴史に関心のある人なら紐解いてみる価値があると思う。

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2018年3月15日 (木)

《愛の妙薬》

愛の妙薬ドニゼッティの《愛の妙薬》を観た(新国立劇場、大劇場)

写真は前回のもので、演出は同一であるが、歌手は異なっている。直前に指揮者とアディーナ役の交代があった。指揮者はフレデリック・シャスラン。演出チェーザレ・リエヴィ。アディーナはルクレツィア・ドレイ。ネモリーノはサイミール・ピルグ。ベルコーレは大沼徹。ドゥルカマーラはレナート・ジローラミ。ジャンネッタは吉原圭子。
演出は創意工夫に富み、斬新さがありかつ、物語の進行をうまく伝えている優れたものである。緞帳がカラフルなアルファベットで構成されており、幕があがる前から不思議な世界に誘いこまれる。まず、この舞台では巨大な本(家と同じくらいの大きさ)がしばしば登場する。写真では「愛の妙薬」という本の上にアディーナが座っているが、巨大な本として何度も登場するのは、「トリスタンとイゾルデ」である。無論、これは一幕冒頭で、アディーナが村人たちにイゾルデの媚薬のエピソードを読み聞かせることへの言及なわけだが、この媚薬=妙薬がこのオペラを支配しているというコンセプトである。
 それと同時に、このオペラの第二幕ではメタシアター的な要素とドラマティック・アイロニーが多いのでそれへの言及とも考えられる。メタシアターというのは芝居の中で芝居をするということで、登場人物がディレクターのような役割を果たす場合もそうだ。第二幕の冒頭でアディーナとドゥルカマーラが、女船頭と年老いたセナトーレの掛け合いをやる場面はその典型である。その後、登場人物の間に情報量の格差が生じ、それを観客は承知の上で観ているのがドラマティック・アイロニーだが、ジャンネッタをはじめとする村娘たちは、ネモリーノが遺産相続をしてにわかに金持ちになったことを知りながら、ネモリーノはそのことをまだ知らない。村娘が愛想が良くなったのを、てっきり妙薬の効果だと思う場面は、愉快な場面だが、ドラマティック・アイロニーの典型である。こういった場面でもドニゼッティの筆は冴えわたっていて、例えばジャンネッタと村娘たちが、ネモリーノの相続の話は内緒よ(Non si dira', non si dira' と繰り返すところ)と言うあたり、どんどんクレッシェンドしていく。内緒と言いながら、あっという間に広まる噂というものを音楽が皮肉に表現している。
ストーリーの展開というものの性質上、当然なのだが、第二幕に入ってから二重唱の性格は複雑さを帯びる。だから初演の時には、第一幕の方が受けたのだろうが、この演目がレパートリーになって繰り返し観るようになれば、第二幕の複雑さに見どころ、聞きどころを見出だせるだろう。
ベルコーレとネモリーノの二重唱も、ネモリーノの必死な気持ちとベルコーレの半ば親切半ば恋のライバルを自分の支配下に置くという快感とがないまぜになった気持ちが、互いに平行線ですれちがっているのだが、そのすれ違い具合を見事に音楽が描写している。この気持のすれ違いであったり、ドラマティック・アイロニーの具合を、ドニゼッティの音楽は見事に表現する。とりわけ、木管楽器のフレーズ、音色がからかいの表情やコミカルな感じを巧みに表現するのである。
この日の指揮は、急に交代したせいか、テンポを動かしたときにややぎくしゃくしたところもあったが、上演を重ねると練れてくるかもしれない。アディーナは、ところどころやや過剰にロマンティクに歌うところがあったが素直な声。ドゥルカマーラはなかなか巧みでアディーナとの掛け合いは面白かった。ベルコーレは、あらためてむづかしい役だと認識した。キザなところがあり、完全な2枚めでもなく、だからといって3枚目でもなく、そこの塩梅を演技・声の表情であらわすのがむずかしい。おおいに健闘していたと思う。ネモリーノ、ジャンネッタも熱演であった。
 

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