2019年3月 7日 (木)

ヘンデル・アカデミー修了コンサート

ヘンデル・アカデミー修了コンサートを聴いた(カールスルーエ、クリストス教会)。

修了コンサートは2日間あり、筆者は滞在期間の関係で1日目のみを聴いた。1日目は会場が教会で曲目も宗教曲が中心、2日目は別の場所でオペラが中心のようであった。ボニタティブスのマスタークラスでD.スカルラッティのファルサの指導を聴講したがそれは2日目のコンサートで上演されたはずで、マスタークラスの時は平服で、コンサートの時はそれなりに衣装や髪型を登場人物にあわせたはずなので観られなかったのは残念だ。スカルラッティのものは父のものも息子のものもオペラ作品を観る機会がなかなかないが、マスタークラスで見たその一部分はなかなか愉快なものだったからだ。オペラ・ブッファのご先祖という感じのものだった。またちなみにボニタティブスのマスタークラスにはカウンターテナーを4人みかけたがテノールはおらず、バスは1人しかいなかった。カウンターテナーはそのうち1人は日本人Hayato Masuda さん、1人は中国人である。その他の学生の国籍は多岐に渡っているようだった。
さて教会でのコンサートは、はじめがD.スカルラッティのソナタ、K287をオルガンで。2曲目はバッハのカンタータ「キリストは死の網目につながれたり」BWV4から「死に打ち勝てるものたえてなかりき」。ソプラノ、カウンターテナー、チェロとオルガンの演奏なのだが、同じメンバーで前日、音楽大学の教室で聴いたのと全く響きが違うことに驚愕した。当たり前といえば当たり前なのだが、同じメンバーで同じ曲なのに、演奏する空間による響きの違いがこれほど大きいとは。教会のほうがはるかに天井が高く残響が長い。だから、歌手としてはあまり個性がなく、ボーイ・ソプラノ的なビブラートのかからない声が美しく聞こえるのだと納得。
次はヘンデルの9つのドイツ・アリア集から「歌え、魂よ、神を讃えて」。ソプラノとヴァイオリン、チェロとチェンバロの構成である。ヴァイオリンは Kazue Hamadaさんという日本人女性であるが、Hamada さんの話でも、大学と教会ではまったく響きが違うので奏法も変えるとのことだった。つまり、教会ではわんわんと響くからビブラートはかけないとのこと。
次がドメニコ・スカルラッティのSalve regina でソプラノ、アルト、チェロ、オルガンだったが、このアルトを歌った Pauline Stohr さんは注目の存在。非常に深い声の持ち主なのだが、教会だと目立たず、むしろその美声は音楽大学の講堂や教室のほうが良く聞き取れるのだった。つまり、宗教曲を歌う歌手というよりは、よりオペラ歌手に彼女の特質は向いているのだと思われる。
以下同様に、バッハのカンタータやマタイ受難曲から「憐れみたまえ、わが神よ、滴りおつるわが涙のゆえに」、スカルラッティのソナタ、ヘンデルの9つのドイツ・アリアから2曲やヘンデルのIl trionfo del tempo e del disinganno から'Tu del ciel ministro eletto'などが演奏された。マタイの曲はやはり教会できくべき曲なのだと再確認。
演奏会に日本人演奏者は3人いた。バロック・ヴァイオリンで先にあげたKazue Hamada さんと Tetsuro Kanai さん、オルガンのMarie  Otakaさんが複数回演奏に加わりアンサンブルの妙を聞かせてくれた。
曲目が宗教曲が中心なので、オペラとの違いを感じたが、それと同時に、ヘンデルとバッハの曲想の違いも感じた。ヘンデルの方が、歌詞が宗教的になってもほがらかな印象で、バッハは深く心に沈潜するという傾向がある。むろん、共通する要素もあり、あえて言えばということなのだが。

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2019年3月 3日 (日)

《アルチーナ》

ヘンデルのオペラ《アルチーナ》を観た(カールスルーエ)。

前回不調だったオロンテ役が交代して、カナダ人テノールのネイサン・ヘラーに交代。彼はチューリッヒから急遽やってきたとのことだった。歌手の場合、身体が楽器なわけで、マスタークラスの学生を見ていてもマフラーをしたり喉を守ることにはおこたりない。しかしそうしていても、不調になることは避けられない場合があるだろう。他人事ながら大変だなあ、と思う次第である。ネイサン・ヘラーは比較的イタリア語の発音がしっかりして、通る声であった。
ヘンデル音楽祭のヘンデル上演の唯一の弱点と思われるのは、イタリア語の発音が弱い歌手が多いことだ。全体として非常に高いレベルにあり、大いに満足しているのだが、その点には向上の余地がまだまだあると思う。英語圏出身の歌手で、最近はイタリア語の発音がしっかりしている人もかなり出てきているのだが、個人差は大きく、声(声量)を出すことを優先で、子音の発音が聞き取りづらく、その結果、なんと言っているかわからない、聞き取れない歌手も複数いた。
演出もストライキは終わり、通常に戻った。演奏も概ね変わらず。
ドイツ・ヘンデル・ゾリステンのメンバーはほぼ去年と重なっているわけだが、いろんな指揮者を経験することでオケとしても発見や成長があるのではないだろうか。とりわけ、今回のペトルゥのような指揮者、ピケのような指揮者を経験するとドイツ系の指揮者とは一味もふた味も違った世界をこちらも楽しむことができるし、オケが蓄える経験としても貴重なのではないかと思った。常任指揮者が変わって何年とかいうのではなくて、この音楽祭を契機として短期間に集中的な演奏会をこなしていくわけだが、同じオケからこれほど異なった響き、音色、ダイナミズムが現れいでるのかと改めて指揮者の存在意義に感銘を受けた。バロック時代に現代のような指揮者はいなかったであろうが、バロック時代にバロック楽器をもちいてバロック音楽を演奏するのと、現代にピリオド楽器を用いて、バロック音楽を演奏するという位相の違いを考慮に入れれば、指揮者の意義が大きいことをポジティブに捉えても良いのかと思う。

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ヘンデルのレクチャー

マスタークラスの教授たちによる座談会形式のレクチャーを聞いた(カールスルーエ、音楽大学)。

この日は司会がヘンデル音楽祭の芸術監督ミヒャエル・フィヒテンホルツの司会、スピーカはマスタークラスを教える歌手のデボラ・ヨークとアンナ・ボニタティブス。間にマスタークラス受講生の演奏が入ったが、演奏は、興味深いもので、同じメロディの再利用。ヘンデルはオペラとオラトリオで、全く同じメロディを使っているのだが、キャラクターが全然異なるのだ。片一方は愛する人だったかミューズだったかで、もう一方は意地悪な司祭なのだ。それを音楽的に表現するために、ボニタティブスの指導により、司祭の時には、スタッカートを多くシャカシャカした神経質な感じの伴奏にし、愛する人(あるいはミューズ)はフレージングの終わりを少し伸ばして優しげにするという工夫をしていた。なるほど、である。古楽器だからこうという教条的な態度ではなく、性格の描き分けも考えるのは言われてみれば特にオペラでは肝心なことである。

 司会者からの質問で、演出家に台本にはないような妙な演技をしろと言われたらどうするかと尋ねられ、ボニタティブスは、2つの場合があると答えていた。1つは、演出家がちゃんとリブレットを読んでいる場合。ボニタティブスはイタリア人で大抵の台本はイタリア語で書かれているので、細かいニュアンスまで理解できると本人が述べていたし、それはマスタークラスでも明らかでそれに基づきレチタティーヴォの丁寧な指導があった。もし、演出家がリブレットを読んだ上で、新しい可能性を追求しているならできる限りのことはする。そうでない場合は、あなたがやっていることにはこういうリスクがあるが、と問いただした上で最終的に応じる場合は応じるとのことだった。

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ツェンチッチ・リサイタル

カウンターテナー歌手ツェンチッチのヘンデル・リサイタルを聴いた(カールスルーエ)。

オケはドイツ・ヘンデル・ゾリステン。指揮はペトルゥ。
曲目はまずヘンデルのコンチェルト・グロッソの1番。これには驚いた。
ヘンデル演奏のイメージがガラッと変わった。古楽器演奏によるヘンデルには慣れているつもりなのだが、彼の指揮は掴み方が大きく、アクセントのつけ方が大胆。例えばチェロなどある音形、フレーズをスタッカートばかりで弾き、その動きを際立たせる。1楽章はスピード感重視なので、コンサートミストレスは限界まで忙しく弓を動かす。しかしそれによって初めて見えてくる音の情景がたしかにある。
緩徐楽章は、優雅にエレガントにゆったり演奏すると、それがまた映える。
自分の中に、ヘンデルの作品の中ではコンチェルト・グロッソはやや平板な曲というイメージがあったのだが、見事に吹き飛んだ。
ここでツェンチッチ登場。CDのジャケットなどでは極彩色の派手なジャケットを着た写真を見慣れていたのでどんな衣装かと思ったら、黒のヘチマエリのタキシードにプレーンな白のシャツでノーネクタイ。靴もエナメルだが黒で、非常にシックでシンプルであった。
歌の1曲目は、ヘンデルのオペラ《エジプトのジュリオ・チェーザレ(ジュリアス・シーザー=ユリウス・カエサル)》から’Dal ondoso periglio..aure, deh, per pieta''
静かな曲を嫋嫋と歌い上げる曲で、ツェンチッチの最も得意とするタイプの曲だ。ツェンチッチは、普通の歌手が歌うと平凡でつまらない曲に聞こえかねない地味な曲(テンポがスローで、派手なアジリタがない)の隠れた魅力を引き出すのが実に巧み、この人以上にその点で秀でてる人がいるのかと思うくらいだ。
 次は同オペラから'Empio, diro', tu sei'.
   このリサイタルは、ヘンデルの同時代のカストラート歌手セネジーノが初演した曲を集めたものらしい。
 次はオケで、ジャン・フィリップ・ラモー(1683ー1764)の「優雅なインドの国々」からの組曲(1735)。これも、ペトルゥの指揮は、目が覚めるような大胆かつ鮮やかでエクサイティングなものだった。フランス風の優雅さというイメージを払拭するような太鼓の激しい連打、ダイナミックなリズム、アラブ音楽的な響きも感じられ、ウルトラモダンな音楽だと感じた。これまでもチェンバロで聴くと斬新さを感じるのだがオケでここまで斬新なものは筆者は初めてだった。
 再びツェンチッチ登場でオペラ《フロリダンテ》から'Se dolce m'era gia'.舟歌風のゆったりしたリズム、テンポにのせて、「あなたと一緒に生きていたのは幸せだったから、死ぬのはもっと幸せ」と切々と歌うアリア。ツェンチッチの情感の込め方には雑なところが皆無で、ビブラートの1つ1つ、声の表情の明暗、強弱全てを完全にコントロールして表現の完璧を目指しているようだった。
ついで《ロデリンダ》から’Se fiera belva ha cinto'. これは元気の良い曲でアジリタの披露もある曲。安易な比較は意味がないと思うが、今回、《セルセ》上演に際しても気がついたことなのであるが、ファジョーリとツェンチッチを比較すると、アジリタの回転(フィギュアスケートでいう何回転ジャンプみたいなものか)はファジョーリの方が早く回る。ツェンチッチのアジリタはブレがなく端正。劇場で気がついたのは、ツェンチッチはメロディが平かな部分では出そうと思えばカウンターテナーとは思えない声量が溢れ出てくるということだ。ファジョーリは声量は通常のカウンターテナー並みと考えて良いかと思う。筆者は、二人の絶対的な優劣をつけたいなどと考えているわけでは毛頭ない。どちらも、心底素晴らしい敬愛するアーティストだ。ツェンチッチは、埋もれた作品、埋もれたアリアを発掘してプロデュースする才能を備えており、ファジョーリはよりスター性の強い存在であると言えるかもしれない。
 ここで休憩が入る。
 後半は《トロメオ》から’Still amare', 《オルランド》から'Cielo, se tu consenti'.
その後、オケでグルックの《オーリッドのイフィジェニー》からの組曲。グルックも普段は平かな曲想が多いと思っていたが、随分メリハリが効いていた。再び、ツェンチッチが登場で, 《オットーネ》から’Dopo l'orrore' そして最後が《アレッサンドロ》の'Vano amore'. これは叙情性とアジリタのある激情性を兼ね備えた実に聞きごたえのある曲であり、ツェンチッチもテクニックと叙情性の限りを尽くし満場の拍手。
アンコールは、《セルセ》のアルセメーネのアリア’Amor, tiranno amor'であった。ロミルダが条件付きでセルセの求婚を受け入れた(受け入れざるを得なかった)ことを知って絶望し、嘆くアリアである。ツェンチッチは、今までとは一段階ギアチェンジをしたようにフルヴォイスで、切々と歌い上げる。こちらがたじたじとなるような詠嘆の歌。通常であるならば、ヘンデルの様式からは云々と注文もいれたくなるところだが、この日のツェンチッチの歌には、そういう様式感とか(それを知悉している彼であることは言うまでもない)、バランスとかテクニック上のカテゴリーが無化される歌だった。非難の意味ではないのだが、何か毒気に当てられたというか、聞いてはいけないものを聞いてしまったような、 異様の感があった。魂自体が、叫んでいるかのような歌。これはバロックなのか。これもバロックなのだ(ろう)。うまく答えが出せないものを、ズンと突きつけられた。怖い歌手である。
 

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2019年3月 2日 (土)

ドイツ・ヘンデル・ゾリステン・コンサート

ドイツ・ヘンデル・ゾリステンのコンサートを聴いた(カールスルーエ、州立劇場第ホール)。

先日の室内コンサートは10人以下であったが、今日はフル・オーケストラかつ特殊な編成である。この日の中心部分はヘンデルのConcerto a due cori の第1番、第2番、第3番であり、これは直訳すると2つのコーラスの協奏曲となるのだが、合唱が登場するわけではない。オケの配置が左右対称になっていて、左側にオーボエ2、ファゴット2、ホルン2で右にも全く同じ人数。チェンバロも真ん中に左右1台ずつ。
つまりcori というのはこの場合、合唱ではなくアンサンブルなのだ。司会者によると、こういう形式はヴェネツィアのサンマルコ大聖堂で、合唱席のあっちとこっちで呼びかわす曲をガブリエーリらが作っていたのだという。
というわけで、この日は全体としてはファゴット4本、オーボエ4本、ホルン4本の大編成となっていた。呼びかわす場面もあるが、同時に吹くときもあり、相当な迫力(バロック時代の4管編成?!だ、と思ったりした)、音圧を感じた。
最初の曲はシャルパンティエ(1643-1704)作曲2つのトランペットとオーケストラのための3つのマーチ。3番目の曲はよくきく曲だ。ティンパニーなどが出てきて、祝祭的である。
次は マラン・マレ(1656ー1728)のセメレからのダンス組曲。ヘンデルだけでなくセメレを題材として様々な曲が作られたわけだ。この組曲は、華やかな中に哀感が漂う瞬間もあり、明らかにドイツのバロックとは違う雅びな魅力を持っている。
ここで指揮者エルヴェ・ニケについて。この人はどことなく井上道義的なオーラを持っていて、非常に明晰な指揮なのだが、単に明晰なだけでなく、パーフォマンスが派手なのだ。入ってくるときも入って歩いている間に、一拍目が始まったり、曲が終わったときも、拍手より前にグート!とか自ら言うのだ。オケを賞賛しているのではあろうが。さらに思ったのは、指揮者というのは、オケに対して、テンポや表情の指示をしているわけだが、身振りによっていま演奏している楽曲の性格を示すこともできるのだということを強く思った。攻撃的な曲なのか、穏やかな曲なのか、愛情を吐露する曲なのか、などなど。この人の指揮を見てると、ここが肝心なポイントだ、この楽器に注目といったことがすごくよく伝わってくる。こういうパフォーマー要素の強い指揮者もこれからより求め られるのだろうと思った。しかもマラン・マレの演奏は
オーボエ、ファゴットの響きも豊かで感銘を受けた。
三曲目は、ヘンデルのConcerto a due Coriの第2番。ホルンも4本(左右に2本ずつ)いて、豊饒なる世界だった。
ここで休憩。
後半はConcerto a due cori の第一番。これはホルンがない。マラン・マレのセメレからのシャコンヌ。最後は Concerto a due cori の第三番。
アンコールはなし。
Concerto a due cori はやはり生でオーケストラを見ながら聴かないと醍醐味がわかりにくいだろうと思った。その意味で今回これを聞けたのはラッキーだった。さらにマラン・マレーのフランス・バロックの魅力は(マラン・マレをFMやCDで聞いたことはあったが)初めての別次元の邂逅であった。マスタークラスでのルクレールと並び今日はフランス・バロックと出会う日出会った。
りにくいだろうと思った。その意味で今回これを聞けたのはラッキーだった。さらにマラン・マレのフランス・バロックの魅力は(マラン・マレをFMやCDで聞いたことはあったが)初めての別次元の邂逅であった。マスタークラスでのルクレールと並び今日はフランス・バロックと出会う日であった。

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ドイツ・ヘンデル・ゾリステン室内コンサート

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マスターコース 

インターナショナル・ヘンデル・アカデミーのマスターコースを聴講した(カールスルーエ)。2日間に渡る受講だったが、同一講師によるものは1つにまとめて記述している。

いくつかのコースを聴講したが、まずはバロック・ヴァイオリンとチェンバロのデュオから。
ヴァイオリンは日本人女性で、《アルチーナ》の劇場で偶然お目にかかった。曲目はバッハのヴァイオリン・ソナタ6番、BWV1019。この教室の先生はチェンバロが専門で、チェンバロを中心に指導するとはいうものの、曲作りという点でヴァイオリンにもアドバイスはする。旋律の受け渡しがあって、ここではヴァイオリンの音量を控えめにとか、チェンバロが和音をつけながら伴奏しているのだが、通奏低音の骨格の例えばドソドというラインをきちんと出すようにと言った具合。メロディの美しさだけでなく、楽曲が展開していくときに、音が一見駆け回るがそれがどういうベースのラインを持っているかを表現させようとする。メロディと同時に曲の構造的美しさの表現を重視していた。
そのあと、アンナ・ボニタティブス氏の声楽の部屋へ。この日はすべての声域の生徒がヘンデルの《ジュリオ・チェーザレ》から自分の声域の曲を選んで歌っていたが、印象的であり、我が意を得たりと思ったのは、ボニタティブス氏がアリアもさることながら、レチタティーヴォ・アコンパニャートの部分を非常に丁寧に指導していたことだ。1つは発音、例えば affetto (アッフェット)のように f が二重子音である、tが二重子音であること、それは生徒だって見ればわかるわけだが、それが聴衆に伝わるように明晰に発音されねばならないのである。あるいは、bella (ベッラ)というごくごくありふれた単語をアポッジャトゥーラでベーーーーー-ーラとなるときの発音もその手前の節回しまで含めて何度も何度も指導して、最後にこれでよしとなったとき、ベッラという言葉の伝わりやすさ、分かりやすさ、響きの美しさが向上していることに心底驚いた。
 彼女の指導は無論、アリアの部分でも、例えばアジリタの多いアリアを歌うとき、あなたは歌い始めるときに緊張して口を閉じてしまっている。そこを直した方が良いなどど極めて具体的だ。さらには、装飾音に関しても、こういうやり方と別のこういうやり方があるけど、どっちがいいかと尋ね、それを決めたら変えちゃいけないわよ、という具合に実践的である。マスタークラスの学生は最後にクリストス教会で発表会があるのだが、その時はアリアを歌う場合、女性が少年の役だったり、お母さんの役だったり、男子学生が音楽教師の役だったりするのだが、少年だったら髪の後ろ側はこうしてとか、プレーンなシャツを着てとか、音楽教師の男の子には髪をもしゃもしゃになるべくベートーヴェン的にしてとか(D.スカルラッティのファルスの登場人物)、オペラを演じる(と言っても一場面ではあるが)ことが初めてと思われる学生に実に手とり足取り親切にアドバイスをしていた。
 ボニタティブス氏は学生が準備してこないと叱るし、でもフォローもして、褒める際も、あなたは今日は疲れてたけど、それをテクニックでよくカバーしていて良かったとか、今日は新しい試みをやってテクニック的にはすべてがうまく行っていたわけではないが、そういうチャレンジするところはすごくいい、とか一人一人に的確な褒め言葉、励ましを与えていて、見事だった。
 ボニタティブス氏のマスタークラスは翌日も長時間見たので2日分を合わせて書いてしまうが、テンポについても的確な指導がある。叙情的な曲で思いを込めて歌うとテンポが落ちがちだ、彼女はそんな時、腕を体の前で手前から向こうに何回か回転させテンポを上げるよう促す。また、カデンツァで遅くなった場合に、元に戻ったらa tempo で、すなわち元のテンポに戻してということも注意していた。この感情を込めたときに遅くない過ぎないで、という注意は、ボニタティブス氏の部屋にヴィオラ・ダ・ガンバ(あるいはバロック・チェロ)の学生と先生が来て、チェンバロ、ヴィオラ・ダ・ガンバの伴奏で、アリアを歌っているとき、やはりチェロの先生もテンポを上げるようにという仕草を一曲のうち2度していた。歌のメロディに溺れてしまうと
楽曲の構造的美しさ、推進力が弱くなってしまう。 
 その後、バロック・バイオリンの部屋で、最初は、ヘンデルのアリア、学生と先生1対1でボウイングやフレーズの細かい指導を見た。次は、ジャン・マリ・ルクレールのコンチェルトだったが、細かく指導を受けるというよりは、その楽譜を持ってきた学生に2人の学生と先生の4人でコンチェルトを弾いて行った。
とりわけ第3楽章が印象的で後でうかがうとジャン・マリ・ルクレールのヴィオリン協奏曲でop7の第一番である。ジャン・マリ・ルクレール(1697-1764)はルイ15世時代のフランス宮廷やハーグの宮廷でヘンデルの弟子だったオラニエ公妃に仕えたりしているが、最後は惨殺されている。同じ教室の中で、4人のヴァイオリン奏者にメロディーが受け渡され、ソロが超絶技巧を示すカデンツァなどがあり、単に技巧だけでなく音楽全体として圧倒された。ジャン・マリ・ルクレールという作曲家をFMやCDで漠然と聞いたことはあったのかもしれないが、この日初めてルクレールと出会った。この曲は心に刻まれた。4人のヴァイオリニストに感謝の他はない。

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2019年3月 1日 (金)

《アルチーナ》

ヘンデルのオペラ《アルチーナ》を再び観た(カールスルーエ)。

この日、州立劇場からメールが来て、今日は劇場スタッフの時限ストライキがあるので、セミステージでの上演となるという。ただし衣装、仮面はつけているとのことだった。
スタッフというのがどの範囲かは判然としなかったが、実際に行ってみるとクロークも休憩時間の飲食コーナーも通常通りだった。
舞台の上での変化はというと、背景は白い壁のみになっている。ただしその壁への映写は通常通り。また、いつもは舞台上、客席から向かって左側に大きな壁が奥手に向かってあり、最後にその壁を壊すと、魔女アルチーナの魔法で石やら獣になっていた人が出てくるという場面がある。その壁が向かって右側で、壁の向きがいつもとは90度違っていたことが1つ。この壁が出てくるタイミングがいつもよりずっと遅かった。もう1つは、結末に近いところで歌詞に虎の出てくる勇ましいルッジェーロのアリアがあるのだが、そこで振り回す剣に火がつくという演出があるのだが、この日は剣は振り回すものの火はつかなかった。つき損なったのではなく、つけるための準備の手順自体をしていなかった。
衣装はいつもと同じなので、演出に関して痛痒は感じなかった。
演奏は、第一幕は、ストライキのアナウンスにも関わらず来てくれた観客への思いもあったのか、オケも指揮も歌手たちも素晴らしかった。ところが第二幕になって、第一幕での観客の暖かい拍手に安心したのか(どうかはわからないが)、歌手たちは、指揮者が設定しているテンポを崩し、勝手に遅くしてしまう例が頻出した。つまり前奏の部分でのテンポが歌が入った途端にガクッとテンポが落ちる、あるいは歌っているうちに感情を込めるとともに落ちて元に戻らない。音楽とドラマの推進力が落ちてしまい残念だった。テンポを落とし悲しげな表情の厚塗りをせずとも、曲想がしかるべき叙情性を示しているならば、自然に現われ出でる表情があるわけで、曲を信じた方がかえってこちらに感銘を与えるのにと思った次第。
モルガーナ役の歌手など、よく通る綺麗な声なのだが、アジリタでずるずるとテンポが落ちるのがもったいないのだった。オロンテ役の歌手は、2幕以降、通常の声が出なくなり、レチタティーヴォも苦しげで明らかに声が小さかった。アリアも省略された。何か突然具合が悪くなったのだと思う。観客もそれを理解し、カーテンコールで彼へのブーイングは全くなかった。

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D.スカルラッティのレクチャー

インターナショナル・ヘンデル・アカデミーでドメニコ・スカルラッティについての講義を聞いた(カールスルーエ)。

ドイツ語のレクチャーなので、語学力が全く追いつかないのだが、ピアノとチェンバロが講義室においてあって1曲は通して演奏がなされ(日本の女性で、ここで開かれているマスタークラスを受講している方であった)、レクチャーの途中で講師がピアノを弾いたり、チェンバロを一節弾いて説明するところがあり、そういう箇所は俄然話が具体的でこちらにとってはわかりやすくなるのだった。
一番興味深かったのは、楽譜のエディションの問題だ。原典版とロンゴ版で同じ曲を並べて、冒頭のところをチェンバロとピアノで弾き比べてくれた。ロンゴ版は1906-13年に出版されたのだが、ピアノで弾くことを前提とし、原曲に大きく手が入っている。例えば、勝手にスラーを長々とつけている。さらに、メトロノーム(もちろんスカルラッティの時には存在していない)での速度表示を書き加えている。一層決定的なのは、和音を書き換えているのだ。
 スカルラッティのオリジナルの和音は、アヴァンギャルドな響きを持っている。それはチェンバロで弾くとカッコいいというか、複雑な内面、心境を表現するのにふさわしい響きを持っている。ところがその不協和音をピアノで弾くと、アルペッジョにでもしないと汚い、野蛮な響きに聞こえてしまうのだ。ロンゴはピアノで弾くならこう書き換えようということで、書き換えてしまったのである。
 現在のように、バロック・チェンバロでの演奏が相対的に身近になってくると、原曲をチェンバロでの演奏で聴くことの魅力がよく理解できる。とはいえ、スカルラッティはピアノの名手の演奏で聴いても(ピアニストによって使用しているエディションは異なるのだろうが)魅力的な響きがするのも確かで、それが作曲家の器の大きさなのかもしれない。

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2019年2月28日 (木)

《セルセ》その5

ヘンデルのオペラ《セルセ》の演出について。

これまでの項目で、筆者の思うところを書いてきたが、演出家のツェンチッチのインタビューを読んで、筆者とは全く違ったことを重視していたのだと衝撃を受けたので報告します。
少しばかり言い訳をさせてもらえば、芸術の解釈は、作った本人がこうと思った通りだけが正解な訳ではなく、ある表象が複数の異なった印象を受け手に与えることは、むしろ芸術家自身が望んでいる場合が多いので、筆者としてはツェンチッチの演出に受けた印象というのは、前に書いた通りです。
では、ツェンチッチはインタビューでどんなことを言っているのか。お断りしておかねばならないが、ツェンチッチのインタビューはプログラムに掲載されているのだが、ドイツ語で、筆者はグーグル翻訳で英語にして解読した。グーグル翻訳には不十分なところがあり、sister と訳すべきところがfiance' となっていたりして完全ではないのだが、ともかくあらましを紹介することが目的なので、ご了承いただきたい。
まず、ツェンチッチは、このオペラのテーマは運命だという。第一子に生まれたセルセは王となり権力も富もほしいままにするが、弟のアルサメーネは兄の臣下である。ロミルダとアタランタの姉妹もロミルダはセルセからもアルサメーネからも言い寄られるが、アタランタは単にアルサメーネに思いを寄せるのみだ。さらにその上で、限りのない貪欲さというのも重大なテーマだという。セルセは権力も富も持っているのだが、それで十分満足せずに、他者(弟)の恋人を、我がものにしようとする。しかも彼女(ロミルダ)が拒絶しているのに。
さらに筆者が驚いたのは、台本に関すること。《セルセ》の台本はカヴァッリ作曲の《セルセ》の台本が大元で、それをボノンチーニの《セルセ》が変更しつつ踏襲し、さらにヘンデルの台本は無名の台本作者がそれを元に書いているのだが、登場人物は7人になっている。筆者が驚いたのは、ツェンチッチは7人にしたのは、その登場人物が7つの大罪を表象しているからだという点だ。ツェンチッチは誰がどの罪に相当するということをいちいちは挙げていないのだが、例えば、セルセは貪欲ということかとか、アタランタは羨望かとか思わないでもない。しかし、《セルセ》を一種のアレゴリー(寓意劇)と解釈するのは斬新な考えだと思う。
ツェンチッチが舞台をラスベガスに持ってきているのは、現代の資本主義社会での限りのない欲望、貪欲さを象徴させる舞台にもってこいだからとのことで、それはうなづけると思った。

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2019年2月27日 (水)

《セルセ》その4

ヘンデルのオペラ《セルセ》を再々度観た(カールスルーエ)。

今回は、音楽を聴きながらも、やや劇として楽しむ方向で観た。オペラの場合、音楽劇だから、音楽も劇も楽しむわけだが、指揮者やオーケストラを注意深く観察していると、劇の演出の細部を見逃したりしがちだ(両方、同時に細かくできる人がいるかもしれないし、そういう人の存在を否定するわけではありません)。
前回と前々回は、座席が2、3列目だが、やや端の席で、今回は7列目だが、指揮者のまっすぐ後ろという位置。1階の座席は結構傾斜している。指揮者の指揮ぶりは意外ことに斜めからの方が、正面からよりもずっとわかるのだった。また、オケの団員の仕草、表情も(単純に列が前の方が距離が近いということもあるだろうが)前回の方がよくわかった。
逆に、劇の進行、演出を観る点からは、正面でやや引いたところからの方が全体を見渡すのには便利だ。
最終日のせいか、指揮が、2幕で早いところは猛然と早いのがさらに輪をかけて早くなりちょっと音が荒くなっていた(縦の線が乱れるのと、弦楽器の音自体が荒くなっていた)が、3幕になるとすっと軌道修正していたのはさすがである。ペトルゥの指揮は、アクセントのつけ方が明快で、フレーズもノンレガートはノンレガート、フレーズの最初の音も曲想によって弓を弦に叩きつけるような音だったり、滑らかな音だったりそのコントラストがとても大きい。シュペリングの《アルチーナ》でもメリハリはきいているのだが、そのコントラストの強さ、大きさがペトルゥの方が強烈なのだ。2幕の幕開けや3幕の幕開け、あるいはカーテンコールの拍手から判断するにペトルゥの指揮ぶりはカールスルーエの聴衆に強く支持されているようだ。
彼が疾走するときにそれについていくオケも立派だと思うし(純粋に音楽的にエクサイティングだ)、それにのってスイングしながらノリノリの歌を聴かせるファジョーリやアリアナ・ルーカス(ファジョーリと比較すると気の毒だが、アジリタがうまくいく時と苦しそうな時があるーこのテンポでは無理からぬところかとも思う)ら歌手陣も大活躍だ。かと思うと、そのせいもあってのどかな曲想をたっぷりと歌わせるとこれはこれで映えるし、ファジョーリもツェンチッチもロミルダ役のスナファーも感情過多になりすぎずに、叙情性を表現していた。
バスの2人、アリオダーテのパヴェル・クディノフやアルサメーネの従者エルヴィーロのヤン・シューは、オペラ・ブッファにおけるバッソ・ブッフォの先駆者のような感じで、アリオダーテ(将軍だが、今回の演出ではレコード会社の宣伝部長あるいは営業部長?)は大スター歌手セルセの言うことをきかねばならず、エルヴィーロはアルサメーネの命令をきく。彼らの歌には特徴があって、音程が低いだけでなく、歌の最初の部分はレチタティーヴォ的でメロディ的でない。まるで、親分に命令されて、ボソボソと呟く、ぼやく部下のように始まり、徐々にメロディが出てくる。そこで何度か同じメロディを繰り返す時に、さっとヘンデルがひと刷毛伴奏音型を変えると、実に素敵な曲に聞こえる。これは指揮者のコントラスト重視の賜物でもあるし、2人の歌手の歌唱力も十分それに応えていた。興味深いのは、彼らの曲はダ・カーポ・アリアにならずその前にプツンと終わることだ。身分制の社会で生まれた芸術たるオペラは、身分によって声質の高低も決まってくるし、アリアやアリオーソの形にも差があるということか。
今回のツェンチッチの演出は、一貫してコミカルなのだが、ドラッグや売春といったダークサイドも描きこまれている。現代の愛ということを問う時に、異性間の愛も、同性愛もある。また美しい若者(男女とも)の身体は、商業化されやすいこと。ロマンティック・ラブというと美形の男女(あるいはそういう雰囲気を漂わせる男女)間のものというバイアスが19世紀のオペラにはかかりがちだが、アタランタやアマストレをわざと不恰好な女性として表象しているのは、コミカルな効果を狙っている面が第一にあると思うが、理屈を言えば、ロマンティックな愛は「美しげな」男女の独占物ではない、という主張もあるのかもしれない。売春宿の飾り窓のうちと外にはスタイル抜群の女性がいるのだがお茶をひいていて、その隣のドラッグが取り引きされていそうな怪しげな店の前には男性カップルが睦みあっているのも象徴的な光景だったかもしれない。単純な女性呪詛ではないし、女性賛歌でもない。単純な同性愛賛歌でもない。単純なストーリーに回収されず、しかし細部には徹底的にこだわって笑わせてくれる。
ジョークと音楽の進行も綿密で、例えば序曲のところで、ファジョーリが女性に抱きつくシーンは曲想が遅めからダッシュして早くなるちょうどそこで抱きつくといった具合に音楽の進行と、所作のすり合わせは綿密だし、だからポンと弾けるような可笑しさが生まれてくるし、リズムにのっている分、下卑た感じが薄れるのだ。飾り窓の女性(モック役)の前で男装したアマストレが嘆きの歌を歌う場面でも、窓の前に立たれては営業妨害というので女性がアマストレにしっしっあっちいけ、という仕草をする。アマストレは気付かずに歌い続けるが、曲想が変化するところで、女性はガラスをドンドンと叩き、アマストレは驚いて、脇にのく。きわどいと言えばきわどい情景、舞台背景が単にセンセーショナルなのではなく、音楽の進行と合わせたコントが組み合わされ笑いをもたらすし、原作にない電話や玄関チャイムの音などの使い方も秀逸。
決して説教くさい演出ではないのだが、見終わってみれば愉快な笑いは、単なる笑いではなくなっているかもしれない。

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インターナショナル・ヘンデル・アカデミー

インターナショナル・ヘンデル・アカデミーのレクチャーを聞いた(カールスルーエ、音楽大学)

インターナショナル・ヘンデル・アカデミーは1986年にインターナショナル・ヘンデル・フェスティヴァルに増設する形で発足した。マスタークラスとアカデミックなシンポジウム、若手の養成を目的としている。去年は気がつかなかったなあ、と思ったら、パンフレットによると、2018年は財政的な理由のため中止せざるを得なかったとのこと。
2019年は、再開できるようになった。シンポジウムの代わりにランチタイム音楽トークがある(ランチタイムというものの2時から3時である。もっともドイツ語ではMittagsgespra¨che, とある、ウムラウトの位置がずれてしまいます、ご了承ください)。その他に歌やヴィオリン、チェロ、チェンバロのマスタークラスがある。マスタークラスも聴講したいところだが、体力、集中力の限界があるのでパスしている。
今日のレクチャーは音楽なしだったのでなかなか辛かった。明日からは、演奏家も参加のレクチャーとなるので、話がより具体的となるし、筆者のようにドイツ語理解力のごくごく低い人間にとってはヒントが増えると期待している。

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