2018年12月 3日 (月)

『音楽祭の社会史ーザルツブルク・フェスティヴァル』

スティーヴン・ギャラップ著城戸朋子・小木曾俊夫訳『音楽祭の社会史ーザルツブルク・フェスティヴァル』(法政大学出版局)を読んだ。

新刊ではない。1993年に出た本だから25年ほど前の本ということになる。原著は A History of the Salzburg Festival  で1987年に出たもの。日本版のために終章とエピローグが書き加えられた。
だから、この本で扱っているのは、ザルツブルク音楽祭(これは通称であって、Salzburger Festspiele は、音楽だけでなく、演劇も盛んに上演されている)が1920年に誕生するまでの経緯から、1989年にザルツブルク音楽祭を取り仕切っていたカラヤンが死んで、ジェラール・モルティエに受け継がれるところまでを扱っている。
社会史というタイトルだが、実際に読んだ印象としては、個人的には伝記を読んだ感じに近い。対象が個人ではなくて、フェスティヴァルであるということ、また、そのフェスティヴァルは一生を終えたわけではなくて、現在進行中というところが大きく異なってはいるけれども。
ザルツブルク音楽祭は、創設者に演出家のマックス・ラインハルトや劇作家のフーゴー・フォン・ホフマンスタールがいることからわかるように最初から演劇と音楽の両方を上演・演奏することを考えて創設されたのである。また、実際に始まった1920年を考えて見ると想像できようが、オーストリアが第一次大戦によって帝国ではなくなり相対的に小さな領土となったが文化的な誇りを示す狙いがあった。
実際面では、この音楽祭だけではないのだが、ヴィーンとザルツブルクの主導権争いがしばしば事態を複雑化させる。
初期の音楽祭では、ヴィーン国立歌劇場の出し物を持ってくることはあったし、オケはヴィーンフィルであった。初期の頃から課題はいくつかあった。
演劇も重要な柱なのだが、外国からくる観客には言葉の壁がある。言葉がわからなくても受けるような演出にすると地元の評論家には不評となる。1920年代から、すでにアメリカの金持ちが重要なお客であったのだ。
オペラや管弦楽のコンサートにおいても課題はあった。モーツァルトのポピュラーなオペラはすぐにチケットが売り切れとなるが、20世紀オペラは切符が売れ残り、赤字となる。ザルツブルクの観客の保守性である。
1930年代になると、隣国ドイツのナチの脅威が迫ってきて、ザルツブルク音楽祭がオーストリア独立のシンボル、自由のシンボルとみなされ、逆にナチから目の敵視される。
その対立は、1938年のアンシュロス、オーストリア併合で終わる。オーストリアは併合された訳だが、ナチ歓迎派も驚くほど多かった。ザルツブルクで併合に関する住民投票が実施された時、反対票は1%に満たなかったのだ。
このあたり、オーストリアの政党事情や、州知事がどう振る舞ったかなど詳細な叙述があり興味深い。州知事レールはこのフェスティバルにずっと大いに貢献してきたのだが、併合後は逮捕され、終戦時、ベルリンの監獄から出てきたのである。
現在とは違ってこの時代は、指揮者が音楽祭で君臨している。
トスカニーニが君臨した時期、フルトヴェングラーが君臨した時期、カラヤンが君臨した時代、それぞれの専制君主ぶりがどのようなもので、ライバル関係がどうなっていたかも詳述され、なるほどなるほどである。
理論的な本としてではなく、英米人が得意な伝記の対象がフェスティヴァルになったと思って読むと、興味深いところが尽きない、というか読む人の興味によって面白い部分が変わってくるだろう。昔は、どこのバール、レストランが劇場関係者の溜まり場であったとか、誰々の屋敷が社交の場であったといったことも具体的かつ詳しく書かれている。
ずっと読んでいくと、ドイツ人とオーストリア人の気質というか振る舞い方の違いもうかがえてくる。ドイツ人は良くも悪くも徹底的で、オーストリア人は対立を解決するときに、臭いものには蓋的なパターンもありなのだ。
最近でもなぜ『イェーダーマン』というお芝居を毎年上演するかがわかった。創設者ゆかりの作品であったのだ。
オペラ上演に関しても、興味深い情報は沢山あったが、1つだけあげると、1951年の『ヴォツェック』上演が物議をかもした点だ。州議会でも激しい論争が爆発したというのである。『ヴォツェック』の初演が1925年であったことを思うと実に意外であったが、結局4回の上演がなされ、評論家の支持は受けたが、座席は40%の売れ行きで大赤字だったという。ベームの指揮だったにもかかわらず、である。

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ファジョーリ、ヘンデル・リサイタル(2)

ファジョーリのヘンデル・アリアのリサイタルを聴いた(水戸芸術館)。

ここは客数は800人程度なので、初台よりずっと小さいホールということになるが、ホールの形が違う。いわゆる額縁舞台ではなく、舞台はすり鉢状になった客席の底の部分に位置している。客席は半円形よりさらに開いた形で階段状に並んでいる。初台は客席はほとんどが平土間で長方形であり、二階部分に数列の客席がある。
ここで驚いたのは、ヴェニス・バロックオーケストラの音も、ファジョーリの声も違った感じに聞こえることだ。このホールでは意外なことに、コンサート・マスターの弓が弦に当たるアタック音が目立たず、オケ全体の音が溶け合って聞こえるのだ。分析的な聞き方をすれば初台の方がよく聞こえるわけだが、逆に言えば、こちらの方にはなんとも音楽的な響きがあり、とりわけ弱音になった時の音の浮遊感が美しい。
会場によって同じオケ、同じ歌手、同じ曲でも、ここまで異なって響くことに軽い衝撃をうけた。
アンコールは 'Dopo notte'と観客のボードに書いたリクエストに応えて 'Ombra mai fu' と 'Lascia che io pianga'であった。
水戸は、観客の年齢層が相対的に若かった。2人の高校生あるいは中学生男子がおり、実に熱心に拍手していたのだが、知人の話では、サイン会でファジョーリに感激のあまりハグしたそうである。カウンターテナーのファンに若い人も増えるのは嬉しいことだ。
この会場へは、水戸駅からバスなのだが、バスが次々に出ているので想像していたよりはずっとたどり着くのは容易であった

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2018年12月 1日 (土)

ファジョーリ・リサイタルとヴェニスバロックオーケストラのコンサート

カウンターテナー、フランコ・ファジョーリのリサイタル(伴奏はヴェニス・バロックオーケストラ)とヴェニス・バロックオーケストラのコンサートを聴いた。

ファジョーリは先頃、ヘンデルのアリア集のCDをドイツ・グラモフォンから出し、ヘンデルのアリアを歌うリサイタルを開いている。3月にカールスルーエでなされたリサイタルは当ブログで紹介した。曲目の細かい入れ替えや、演奏順序は異なっているが、コンセプトは同じと言って良いだろう。一番異なっていたのは、オーケストラでカールスルーエではイル・ポモドーロで今回はヴェニス・バロックオーケストラであったことだ。
アリア集のCDは、イル・ポモドーロと録音しているので、イル・ポモドーロはヘンデルの曲も、ファジョーリとの合わせ方も知り抜いている感じであった。また、彼らは一人一人の技量も飛び抜けて高い。イル・ポモドーロを聞く前日まで連日ヘンデル・ゾリステンを聴いて満足していたのだが、イル・ポモドーロは人数は少ないのだが、合奏の精度としなやかさと音楽性において比較を絶するレベルにあった。洗練の極みというべきか。
ヴェニス・バロックオーケストラは大変優れた合奏団であるが、イル・ポモドーロとは性格の違うオケだと思う。ファジョーリのリサイタルのプログラムは、ヴィヴァルディのシンフォニア、ヘンデルのアリア2曲、ヴィヴァルディのシンフォニアというサンドイッチ方式でヴィヴァルディの他に一曲ジェミニアーニのコンチェルト・グロッソが入る。彼らの演奏は、明らかにヘンデルの時と、ヴィヴァルディで演奏の水準が異なるのである。簡単に言ってしまえば、ヘンデルには不慣れで、ヴィヴァルディはもうずっと前から体の芯に入っているようだった。そのことに最初は驚いたのだが、彼らの演奏を聞くことにより、あるいは当日のプログラムにより、同時代人とは言え、ヘンデルの語法とヴィヴァルディの語法の違い、フレージングの違いに気が付いた。ヴィヴァルディの方が流麗であり、ヘンデルの方が構築的である。また、この日は木管楽器はファゴットのみであったが、ヘンデルのアリアは当然だがオペラからのものなので、曲によってはファゴット以外の木管楽器があればと思う時もあった。
ファジョーリの歌唱は、1音1音に神経を通わせ、ヴィヴラートにまで表情をつけ、聞き手に集中を求めるもので、一曲のアリアで1つの世界を作ってしまう。この過剰なまでの表情付けが超絶技巧により支えられていることは言うまでもない。彼でなければ、そうしたくてもできないレベルなのだ。その一方で、もっとさらっと歌い流す歌い手を好む人もいるであろうことは想像できなくもない。
意外だったのは、アンコールで観客の1人がうちわを持っていてそれにVo  solcando...と書いてあるのをファジョーリが見つけ、うちわになんと書いてあるのか見せてと言って、確認した後、コンサートマスターと一言言葉を交わし、アカペラ(伴奏なし)で歌った。会場は意外性に打たれて、大喝采。
翌日ヴェニス・バロックオーケストラのコンサートをイタリア文化会館で聞いたのだが、観客がかなり違う。こちらの方がなぜか判らぬが年齢層が高い。ここでヴェニス・バロックオーケストラはジェミニアーニの一曲を覗いて、全てヴィヴァルディの曲を演奏した。編成は弦楽器にファゴット1人。ファゴットが登場する曲もあり、登場しない曲もある。
曲目はシンフォニア RV717(歌劇《ジュスティーノ》の序曲)、ソプラノ・リコーダーとヴァイオリンのための協奏曲RV535。
この2曲目で驚いたことに、舞台左手にいたヴァイオリン奏者の女性が一度舞台から引っ込んで出てくるとリコーダーを手に登場。彼女はアンナ・フューセック(フゼック) といい、後から演奏したリコーダー協奏曲 「ごしきひわ」で判明したのだが、とてつもない超絶技巧の持ち主で、僕は度肝を抜かれたし、「ごしきひわ」という曲のイメージが彼女の演奏によりすっかり上書き更新された。今まで四季に比べて凡庸な曲というイメージを持っていたが、ヴィヴァルディに謝りたい気分である。フューセックは軽やかに軽快なテンポで演奏するだけでなく、ごしきひわの鳴き声を模して、即興的な装飾音をつけリズムやテンポを揺らし、実にスイングする演奏を聞かせてくれる。先走ってしまったが「ごしきひわ」は8曲目、最後の曲目であった。
3曲目以降はヴァイオリン協奏曲RV273, ヴァイオリンとチェロのための協奏曲RV547, 弦楽のためのシンフォニアRV168, 2つのチェロのための協奏曲RV531.
この2つのチェロのための協奏曲は、なかなかスタイリッシュな曲で、特に3楽章がカッコよかった。ワクワクする演奏であった。家でCDを調べ、ホグウッドのCDとビオンディのCDがあったのだが、ビオンディのものの方が演奏スタイルとしてはこの日の演奏に近かったが、スタジオ録音とライブ録音の違いか、当日の演奏の方が、大胆なテンポをとり、せめている演奏でずっとスリリングな味わいであった。マッシモ・ラッカネッリというチェロ奏者がこれまたとてつもない技巧の持ち主なのだ。ヴィヴァルディのコンチェルトは、曲によってはそういった技巧の持ち主によってこそ、曲想の妙味が生きることを思い知らされた一夜でもあった。
ヘンデルのアリアはゆったりとしたアリアも、激しいアリアも曲想の変化に富み飽きさせない。しかしヴィヴァルディの協奏曲群も、最近のコントラストの効いた、早めのテンポで、弦へのアタック音をしっかり聞かせる演奏で聞くと実に変化に富んでいることがわかるし、かなりの曲がドラマティックな要素を濃厚に持っているのだということを再認識した。
(追記)ファジョーリの初来日に際しては、2人の日本人女性、Bonn Jourさん、アルチーナさん(いずれもハンドル名です)等のご尽力が大きかったと聞く。招聘元のアレグロミュージックは、全てを自分の手柄にせずに、プログラムの末尾に謝辞が掲載されているのには好感を持った。プログラム自体の中身も、充実していてかつバランスが取れていたと思う。つまり、一方で、ファジョーリの経歴の紹介、写真があり、オススメのCD,DVDの紹介があり、他方で長木誠司氏による1960年代からの古楽ブームの変遷が語られ、水谷彰良氏による楽曲解説と歌詞の対訳が付いている。決して厚くはないのだが、よく出来たプログラムだと感心した。来日演奏家のプログラムのモデルたりうるのではないだろうか。最後ではあるが、ささやかな賛辞。久しぶりに、チケットがその音楽会専用のデザインであるチケットでした。コンビニで決済できるのは便利なのだが、映画でもコンサートでも全て同じガラというかデザインのチケットなのは、少し寂しい気がしていたのです。

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2018年11月22日 (木)

『宗教改革とその時代』その3

『宗教改革とその時代』の続き(3)です。

宗教改革の広がり
フランスではカトリックとカルヴァン派の争いが内乱に。カルヴァン派はアンリ4世のもとで「ナントの勅令」により宗教上の寛容を獲得するが、17世紀後半にはルイ14世のもとで再び信仰の自由を失う。
北欧の宗教改革
 スウェーデンとデンマークの宗教改革は国家形成と密接。デンマークとスウェーデン、ノルウェーはもともとカルマル同盟のもとで同一の君主をいただく連合王国だった。16世紀に強力な王権をめざすデンマークのクリスティアン2世(在1513-23)が即位。スウェーデンの貴族層の反発を招き、スウェーデンは1523年有力貴族グスタフ・ヴァーサのもとで独立。クリスティアン2世の王権強化の努力は、地元でも反発を招き、叔父のシュレスヴィヒ・ホルスタイン公フリードリヒがデンマーク王に。
シュレスヴィヒ・ホルスタインの教会はすでにルター派だったので、ルター派はデンマーク全体をルター派にしようとする。しかしフリードリヒの死後、カトリック教会が巻き返しをはかり内乱に。フリードリヒの子フリードリヒ3世(在1534−59)は司教制度を廃止、教会財産没収。こうしてデンマークの教会はルター派の国家教会となる。
一方スウェーデンの王グスタフは国庫が空っぽであることに気づく。教会財産を狙う。貴族層の反感かうが、1560年代までにルター派の支配下に。30年戦争の際も、グスタフは領土的野心をもちつつ、プロテスタンティズムの旗をかかげ参戦。
東欧の宗教改革
東欧の貴族はグーツヘルシャフトという農奴制にもとづく大農場を持っていた。
ベーメン(ボヘミア)ではフス派教会の影響力が強く、反カトリック的であったが、宗教改革がドイツ人の手によってもたらされたため、民族主義的抵抗を引き起こした。
ハンガリーを例外として東欧では宗教改革はあまり進まず。
ベーメンの王位をめぐるハプスブルク家とプロテスタント君主の争いが30年戦争。
カトリック宗教改革
教皇パウルス3世(在1534-49)は改革派。1537年「教会改革に関する勧告」
トレント公会議ではトマス・アクィナスを中心としてさまざまな知的伝統が論争を繰り広げた。教皇パウルス4世(在1550−55)は異端に対する呵責ない戦いを開始。
イグナティウス・ロヨラは1527年パリでルターの思想にふれたが感じず。1540年改革派枢機卿コンタリーニの支持を得て、イエズス会の創建が認められる。イエズス会の活動は海外が有名だが、ヨーロッパこそ戦いの本拠地で、ポーランドや南ドイツは彼らの活躍によりカトリック支配下に戻った。
まとめ
プロテスタンティズムを生き延びさせたのは、主権国家の出現という世俗的契機であり、神学的要素ではない。むしろ、主権国家を1つの宗教によって統合する国家教会を作り出す結果になった。だからプロテスタンティズムと進歩とは何の関係もない。
北米ではプロテスタントはネイティブ・アメリカンを人間として認めず殺戮を、神の摂理のもとに正当化した。アパルトヘイトの南アフリカ共和国はカルヴァン派の子孫たち。現在はカトリックとプロテスタント諸教会の間に敵意はない。めでたし。

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2018年11月19日 (月)

『宗教改革とその時代」その2

小泉徹著『宗教改革とその時代』の続きです。

ルターの95箇条に先立つ40年間に主権国家が出現した。イギリスではバラ戦争ののちテューダー朝(1485-1603)が成立。ドイツでは領邦単位の統合が進んだ。

 主権国家や領邦と、普遍的(国家を横断した組織である)教会が対立することはままあった。だからルターをザクセン選帝侯フリードリヒがかくまったのは偶然ではない。

 イングランドのヘンリ8世もプロテスタンティズムの神学の細部 には何の関心もなかった。エリザベスもそうで、自国内にローマ・カトリック教会から独立した国家教会を作ることが目的だった。

 カトリック教会から離れると、王権と教皇の権威が離れるので、王権神授説が必要になる。

 イギリスにおけるカトリックの差別は、統治の問題。カトリック神学を信じているのがいけないのではなく、国家教会の儀式に参加しないのがいけないとされた。イギリスではカトリックは1829年まで市民権を剥奪されていた。

 イングランドには1530年には800の修道院があったが1540年には全て解散して(させられて)しまった。修道院の解散は修道院の土地・財産を目当てにしているわけだが、主権国家は恒常的に財政難だったので、ここに目をつけたのはイングランドだけではなく大陸でも同様だった。

 宗教改革以前、民衆は異教に起源を持つ祭り(クリスマスやイースター)も楽しんでいた。が、プロテスタントはそれを攻撃。イングランドでは17世紀には宗教的演劇も絶えた。プロテスタントの一部には「安息日厳守主義」があって、教会での宴会や社交を禁じ、さらには居酒屋の営業も禁じたのでイングランドには「陰鬱な日曜日」が到来した。

(以下続く)

 

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2018年11月12日 (月)

『宗教改革とその時代』

小泉徹著『宗教改革とその時代』(山川出版社、世界史リブレット)を読んだ。

非常に面白かった。面白かったし、蒙を啓かれたのは、われわれは(あるいはわれわれが中高で受けた教育は)ある種の進歩史観に支配されたものだったということに気付かされたことだ。この点は後述する。
教科書では、宗教改革はルターの「95ヶ条の論題」(1517年)からアウクスブルクの宗教和議(1555年)やイギリスのエリザベス1世の「礼拝統一法」で終わる。
しかし小泉によれば、これは宗教改革の入り口に過ぎず、宗教改革はずっと長く続くのだ。
またプロテスタントというとルターとなりがちだが、実際にはカルヴァンやその後継者テオドール・ベーズの影響力が及ぶ領域の方が広かった。
宗教改革の時期は短くとっても1517ー1648年。その政治的背景としてはハプスブルク帝国の興亡がある。ハプスブルク家にとって最大の敵はフランス王のヴァロワ家。
30年戦争には2つの対立項がある。1つはカトリック対プロテスタントで、もう1つはハプスブルク家とフランス王位を継承したブルボン家の対立である。
宗教的対立の背景には思想的対立がある。救済に関する伝統的考え方の1つが「
積善説」で善行を積むと天国に行ける。それに対しルターは、救済は人間の善行や功徳ではなくて、「神の愛」であるとした。カルヴァンはそれを一歩進め、裁く神によって救済があるかどうかは神があらかじめ決める予定説をとった。
プロテスタントの立場に立ちながら、人間には神の救済を拒絶する自由があると説いたのがアルミニウス。アルミニウス主義は、イギリスではカトリック的なものとして受け取られたが、本来は人文主義的伝統がプロテスタンティズムの中に再来したものと考えられる。
(以下次項)

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ナタリア・ギンズブルグ著『小さな徳』

ナタリア・ギンズブルグ著白崎容子訳『小さな徳』(河出書房新社)を読んだ。

この本は「須賀敦子の本棚」(池澤夏樹監修)の1冊だ。つまり須賀敦子にとって、とても重要な本であったということ。
それは一旦置いておくとして、この本は1部と2部に分かれているのだが、1部は無条件に面白い。冒頭の「アブルッツォの冬」ではファシズム時代に一家が流刑にあい、流刑者の家族の日常が淡々と描かれ、しかし流刑の実情を知らなかった評者は、流刑というのは普通に家族で暮らしていること、それどころかお手伝いさんを雇ったりもしていることに驚いた。無論、トリノという大都会からアブルッツォの小さな村にやってくればかつてあったもので無いものだらけになって不自由もするのだが、住めば都で土地の人の風習や料理にも慣れて行く。それが描かれたあとで、「あの頃こそが、私の人生の、何ものにも代えがたい最高の時だったのだ」とくる。アブルッツォからローマに出た夫はレジスタンス活動で逮捕され獄死してしまうからだ。淡々とした筆致が逆に、読者に迫ってくる。
ギンズブルク独特のユーモアというかアイロニーもふんだんにあり、それは彼女のイギリス人観察に現れている。
イギリスの民度の高さ、隣人への敬意を讃えながら、女性店員は Can I help you? と言っても口先だけで、「客が買いたいものを探すために、視線を鼻先2センチ以上先には伸ばそうともしないのだ」といった調子。
パヴェーゼがいつまでも大きな子どもだったという愛情に満ちた苦言も味わい深い。
第二部は、複雑な味わいである。ギンズブルグは自分の価値観、世界観を明らかにして親の世代を否定し、独特の金銭感覚や、文筆業という仕事についての考え、経験を開陳する。貴重な証言であるが、その考え、感覚は、極めてリアリズムに傾斜しており、たとえば19世紀のオペラのような大言壮語的レトリックは大嫌いなのだ。多分そのストイックな感じが須賀敦子のエッセイにも通じる気がする。
訳者と池澤夏樹の解説付き。丁寧な訳注が付されており、時代背景やギンズブルグの家族関係を理解する助けになる。

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2018年11月11日 (日)

『スペインのユダヤ人』

関哲行著『スペインのユダヤ人』(山川出版社、世界史リブレット)を読んだ。

新刊ではないが、非常に興味深かった。漠然とスペインが両カトリック王によって統一された1490年代にユダヤ人追放令が出たのだと思っていたのだが、それは一片の事実としては正しいが全体像としては正しく認識していなかった。
つまり、スペインにおいては中世からヨーロッパの中でユダヤ人の数が多かった。 スペインのユダヤ人はセファルディームと呼ばれ、ドイツを中心としたユダヤ人はアシュケナジームと呼ばれた。セファルディームの中からは出世して宮廷ユダヤ人となるものも出た。
11世紀末のムラービト朝、ムワッヒド朝では反ユダヤ政策が取られる。
各都市におけるユダヤ人はアルハマと呼ばれる自治組織を持っていた。
14−15世紀にキリスト教徒のユダヤ人観が根本的に変わった。それまでユダヤ人は理性的手段でいつの日かキリスト教に改宗する「潜在的キリスト教徒」と見なされていた。ところが14−15世紀になると高利貸しや徴税請負によってキリスト教徒を収奪する非道なユダヤ人のイメージが浸透。
14世紀末から大規模な反ユダヤ運動があり、コンベルソ(改宗者)を産んだ。
コンベルソには心からの改宗者と表向きの改宗者と両者の間で揺れ動く改宗者がおり、キリスト教徒、ユダヤ教徒、コンベルソの間には複雑な相互不信があった。
1492年のスペインからのユダヤ人追放令により、イスタンブルが世界最大のユダヤ人居住区となる。
コンベルソの中に内部的な相互不信、緊張があったが、フェルナンド・デ・ロハスの『ラ・セレスティーナ』やマテオ・アレマンのピカレスク小説にはその内面的緊張が反映されている。ロハスの父は異端審問裁判で火刑にされている。
バロック美術で有名なサンタ・テレサ(聖女)は、その祖父が有罪判決を受けたコンベルソだった。火刑とされたのではなくて微罪で教会と「和解」したのだった。
血の純潔規約というものがあって、3代−4代遡ってユダヤ人やイスラム教徒がいると排除されるという規則が各地で採用されたが、これが黄金世紀のスペイン演劇を代表するローぺ・デ・ベーガの演劇で名誉が中心テーマとなるのに深く関与している。
以上挙げたように、ユダヤ人およびコンベルソをめぐる問題は、スペイン文学と深く関わっている。

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ロベルタ・マメリのマスタークラス(2)

マメリのマスタークラスの続きです。

カッチーニの'Dolcissima sospiri'では現代化された楽譜のエディションを歌い手が使っていたのだが、全音符の上に時々〔tr〕と書かれている。普通に解釈すれば、ここはトリルなんだな、ということになるが、マメリによると、これはトリルと書いてあるが実はメリスマである。
トリルとメリスマは何が違うか。
トリルの場合、全音符が書かれた最初からドレドレドレドレと言った感じで音を規則的に動かす、しかしメリスマの場合、ド〜〜レドレドレと言った感じで、最初の音はある程度伸ばしてから(何拍分という規則的なものではない)音を動かす。しかも、メリスマの場合は、歌詞に合わせて(歌詞の内容に合わせて)情感をこめて音を振るわせるので、場合によってはテンポを揺らして良いのだ。この時代の曲では、歌詞が音楽より優先なので、あくまで音楽は歌詞にあわせてつけられている、ということもマメリは強調していた。これはモンテヴェルディの時も同じである。
 モンテヴェルディは歌劇オルフェオから'Signor, quel infelice' と’Voglio di vita uscir' が歌われた。マメリは、モンテヴェルディはfuturista (ここでは、未来を先取りした人、ぐらいの意味か)だから、ここはスイングするのよ、とリズム、テンポの揺れ(言葉の意味に応じてだが)を積極的に推奨していた。
   A.ノターリの'Ahi, che s'accresce in me'を歌う人もいた。
 マメリのアドバイスで興味深かったのは、自分がいきなり音(声)を出すのではなく、もう自分の後ろから音は鳴っていてそれに乗せて声を出すような感じで歌い始めよ、というもの。歌い始めのところで、たいていの歌い手は緊張して体の一部がかたくなってしまうので、もうすでに鳴っているという意識を持って歌い始めよ、ということらしい。
 母音に関しては、ウの音の注意があった。日本語のウよりもくっきりと唇を突き出して固めてウと発音するわけである。
 最後に彼女は受講生の健闘をたたえた上で、やろうと欲することが出来るにつながると言い、彼女は歌手を志したのが23歳と遅く、歌手になったのは30歳だったという。彼女の先生は彼女の進むべき道を示してはくれなかったから自分で探すしかなかったとのこと。古楽を志した人の苦難であろうか。
 

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ロベルタ・マメリのマスタークラス

ロベルタ・マメリのマスタークラスを聴講した(旗の台のえびらホール)。

えびらホールは個人のお宅的なホールで、天井は高いが椅子は30−40くらいが固定ではなく並べられていた。2日間のコースなのだが、私が聴いたのは2日目。午前中から夕方6時過ぎまで長時間のレッスンである。8人がレッスンを受け、最後は発表会。
レッスンを受けていたのは、乙顏有希、山口紗知、椿山芳、長島麻衣子、樋口由佳里、渡邊有希子、井ノ上歌歩、他お名前非公開の方が一人(敬称略)である。
このうち四人がカッチーニ(1545?-1618)を歌った。あのアマリリが有名なカッチーニである。モンテヴェルディが1567-1643 なので、1世代上で大雑把にいえば同時代人である。取り上げられた曲は 'Dolcissimo sospiro' と'Torna deh torna' と’Amarilli, mia bella' で、最初の 'Dolcissimo sospiro'を歌った人が2人いた。レッスンを聴講してわかったのだが、カッチーニの曲は楽譜を見るとシンプルに出来ているのだが、実際に歌うと難しい。マメリも、この曲は難しいのよ、でも選んだのはあなただから。と笑いながら言っていた。フレーズも長かったりする。息つぎについては、マメリは必ず歌手のお腹をさわってここは柔らかくして、しかしここまで息を入れてと。胸で呼吸するのではなく、お腹の底の部分から入れ、だんだん吐いたら、脇腹から出せという。実際、彼女が歌ってみせると、長い長いフレーズを一息で歌ってしまうのだ。その上で、もし息継ぎをするのだったら、この1音を2音のように歌い直し、そこで息を継げという実践的アドバイスもあった。
 シジスモンド・ディンディアの’Da l'onde del mio pianto' を歌った人もいる。僕はこの作曲家はじめて聴いたのだが、半音階を多用してアヴァンギャルドな感じがする。マメリもこの作曲家ははじめてだと言い、気に入ったと言っていた。
以下、事項に続く。

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2018年11月10日 (土)

日本音楽学会

日本音楽学会に行った(桐朋学園大学、調布)。

日本音楽学会に入会し、初めてその大会に参加してみた。まず驚いたのは、発表数の多さ。2日間に渡って4部屋で午前午後とある。4教室で同時並行だから60以上の発表・報告があるわけだ。僕が知っている学会でこの規模は日本英文学会くらいのものだ。
中身であるが、議論の緻密さ、精密さに驚いた。一々発表者のお名前をあげるのは差し控えるが、たとえばピアノのハンマーヘッドに使われていたフェルトおよび皮がどのように変化していったか、通説と、実際の調査で判明したこと、楽器修復家への調査で判ったことが写真つきのプレゼンテーションで示される。あるいは、また別の発表では、中世の音名がどのように確定していったかを、写本と写本の端の書き込みをたどりながら跡づける。さらに別の報告では、ケルンのフランコ『計量音楽技法』(13世紀に出現した、後世への影響大な本)の写本6つをとりあげたが、1つは個人蔵でアクセス不可能だったことや、先行研究の誤りなども明るく指摘された。
中世の発表があると思えば、ヴァーグナーの《神々の黄昏》についての発表もある。これは初演楽譜が消失してしまったという通説に挑むもので、実はバイエルン宮廷歌劇場のパート譜がそれだというものだ。その証明は、コピスト(作曲家の楽譜をコピーし、そこからさらにパート譜を作る人)の筆跡を丁寧にたどることで成り立っている。このコピストの同定によっての証明は、モーツァルトについての報告でも見られた。シェイクスピア学で印刷工の癖を論じたりするのと同様の議論である。
午後はモーツァルトのト短調交響曲(K550)の第四楽章の特異性を論じるもの、ハイドンの交響曲における変奏反復について論じるもの、モーツァルトのクラヴィーア協奏曲(ピアノ協奏曲)K.175プラス382の史料伝承ーこれにコピストの問題が出てくる、シューベルトの交響曲のスケルツォ、メヌエット楽章がじょじょにソナタ形式に近づいていく様を論じたものを聴いた。いずれも、緻密かつ実証的なエビデンスに基づいた議論で、圧倒される思いがした。ほとんどの報告者がレジュメに参考文献をあげてくれており、さっそく何冊か自分に関わりのありそうな本を注文した。
これ以外にも興味を掻き立てられる報告はあったのだが、4つの発表が同時並行なので仕方がない。しかし8つの充実した発表を聞くと頭はパンパンになるのだった。

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2018年10月21日 (日)

『悪魔と呼ばれたヴァイオリニスト』

浦久俊彦著『悪魔と呼ばれたヴァイオリニストーパガニーニ伝』(新潮新書、760円)を読んだ。

パガニーニについてはヴァイオリンの超絶技巧の持ち主だったという一般常識と、彼の作った曲を聴いて音楽的にはあんまりなあ、というのがこれまでの評者の極めて貧困なパガニーニ経験であった。
この本を読むと、パガニーニが自分のパフォーマンスをどうプロモートしたか、どうやって演奏会をオーガナイズしたか、などがわかるし、当時の人がどんな具合に熱狂したのかもわかる。
音楽家として、ロッシーニやベルリオーズとは親しくしていて、ロッシーニは『マティルデ・ディ・シャブラン』の初演で予定していた指揮者が具合が悪くなり急遽パガニーニに指揮を依頼しているのだ。また、パガニーニが長年求めていたストラディヴァリウスのヴィオラを入手した時に、それに向けた曲を依頼してベルリオーズが作ったのが『イタリアのハロルド』だった(ただしパガニーニは気に入らなかった)などというエピソードが紹介されている。
若い時に美男子で女性にモテたというのはリストと同じだな、などと思うが、時間的にはパガニーニが先。ただし、パガニーニはとても病弱で後半生は病魔との戦いに明け暮れている。当時の治療法も下剤を大量に用いたり、水銀を使用したりと、今から思えばむしろ身体に悪い治療をしているのだ。
当然のことながら、パガニーニはヴァイオリンをはじめとする弦楽器に関心があり、ストラディヴァリウスを何台も持っていたのだが、本人の使用楽器はグァルネリのカノーネというのも興味深いエピソードだ。
カトリック教会との確執もなかなかに根深いものがあり、死後すぐには埋葬許可が出ず、彼の遺骸は放浪を繰り返す。
単にヴァイオリンが超絶的に上手な色男というのでは全くないパガニーニ像を得た。

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