2026年2月14日 (土)

アレッサンドロ・スカルラッティ没後300年記念ー演奏会と講演会 その4

おまけ:舞台裏を少し——通奏低音が「オールスター」だった件

私は幸運な事情にめぐまれて、本公演に先立つリハーサルを3日間見学することができたのだが、そこで面白かったのは、解釈が「指揮者の指示」で決まるだけではなく、アンサンブル内部で練り上げられていく現場だったこと。福島康晴が明確にリーダーシップを取りつつ、奏者からも意見や質問が出る。解釈が合意として立ち上がる速度が速い。

そして何より、通奏低音陣が豪華。チェロ、ヴィオローネ(コントラバス)に加え、オルガン、テオルボ、ハープ、チェンバロが揃う。ここから「今日は誰が出る?」を曲ごとに決めていく。
通奏低音は“音量の調整”ではなく、場面の性格づけ=味付けだと、あらためて実感した。スカルラッティが劇の人である以上、低音の選択はドラマの選択でもある。


まとめ:没後300年を「顕彰」で終わらせず、「現在形」にした二夜

この二日間が良かったのは、没後300年を「過去の偉人を讃える会」にせず、研究・教育・実演が行き来する“現在形”の企画にした点だと思う。オンライン講演で輪郭をつくり、当日のナレーションと字幕で抜粋上演の弱点を潰し、ピリオド楽器とバロック歌唱、そして譜面への細やかな配慮で作品を“生きた劇”として現前させる。

二日目が完売したという事実も含めて、スカルラッティは「ドメニコの父」では終わらない——ということが、説得力ある音楽体験として示された。
次は、記念年が終わってからが本番だ。上演が続くかどうか。私は続いてほしいと思う。これだけ面白く音楽が充実しているのだから。

クレジット

主催:日本イタリア古楽協会
助成:日本音楽学会「音楽関係学術イベント開催助成金」、野村財団、東京都歴史文化財団アーツカウンシル東京
後援:イタリア文化会館
(曲目・出演者の詳細は、パンフレット/当日資料に準拠)

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アレッサンドロ・スカルラッティ没後300年記念ー演奏会と講演会 その3

第2夜(12/27)神田:祈りの残響から、「聖なる劇」へ

会場が教会になると、同じスカルラッティでも耳のモードが変わる。ホールでは言葉の輪郭を追いやすいが、教会では響きが残る分、フレーズが空間に“滞在”する。その滞在が、祈りの身体感覚をつくる。

前半:《スターバト・マーテル》——声が空間に二本の軌跡を描く

独唱はソプラノ阿部早希子とカウンターテナー村松稔之。阿部はピッチの確かさとフレーズ設計の堅牢さで、悲嘆を輪郭のある祈りとして成立させる。一方、村松は声の色彩と語りの身振りで、テクストの痛みや切迫をより劇的に照射する。
この二つが教会の残響のなかで混ざりすぎず、むしろ別々の軌跡を描くのが良い。悲しみは一色ではない、ということが音でわかる。

後半:オラトリオ《ラ・ジュディッタ》(ローマ1694年版)抜粋——これは「宗教」以上に「劇」

物語は有名なので省くが、要するにジュディッタは「美しい未亡人、しかしやることは容赦ない」。祈りと策略、官能と暴力、沈黙と決断が一つの身振りに凝縮される。これが教会空間で鳴ると、宗教作品というより「聖なる劇(サクラ・ドラマ)」の緊張が立ち上がる。

ここでも抜粋ゆえにレチタティーヴォは限定されるが、佐々木の場面説明が効いて、切迫感が落ちない。テノールが登場するのは二日間でこのオラトリオだけだったが、中村康紀が対立陣営を往来する人物の特異性を、過剰な芝居にせず的確に描いたのが印象的だった。

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アレッサンドロ・スカルラッティ没後300年記念ー演奏会と講演会 その2

第1夜(12/26)五反田:世俗の親密さから、オペラの劇へ

前半:器楽とカンタータ——“劇”の前に、語法の多彩さを浴びる

前半は器楽曲が並び、最後にカンタータ《Questo silenzio ombroso(この木陰の静けさのなかで)》で締める構成。

まず、リコーダー2本が活躍する「コンチェルト・グロッソ形式のシンフォニーア第5番」。リコーダーが二本あると、掛け合い、模倣、三度・六度の並行など、二声ならではの“喋り方”が立つ。弦のリピエーノとの対比も効いて、色彩と推進力が気持ちよく出る。リコーダーって、ただ音色が素敵なだけじゃなく、ちゃんと音楽を前へ進めるんだな、と再確認。

それから、「チェンバロを伴わない四声のソナタ第3番」。今日の耳には弦楽四重奏の“ご先祖様”みたいにも聴こえる。ただし面白いのは、これが「通奏低音なし」と決めつけられないこと。手稿譜(ミュンスターのサンティーニ・コレクション)には数字が書き込まれている箇所があり、通奏低音が想定されていた可能性があるという。今回はテオルボが加わり、旋律線の絡み合いを壊さず、和声の方向感を微細に補っていた。
このあたり、今回の企画全体の“学術の筋肉”が見える。

そして圧巻だったのが、西山まりえによる「第一旋法のトッカータ第7番とフォッリーア」。20分超のチェンバロ独奏曲で、もはや「チェンバロと西山まりえの壮絶な格闘」と言いたくなる長丁場。技巧の精確さだけでなく、曲の内部に溜まっていく熱量が、ちゃんと聴衆の身体に届く。終止でふわっと収束するというより、推進力を保ったまま“切り上げる”終わり方も、妙にスカルラッティ的な強度がある。

前半の締め、カンタータ《Questo silenzio ombroso》がまた巧い配置だった。スカルラッティは推定600曲以上のカンタータを残した人で、このジャンルを外してしまうと作曲家像が薄くなる。第2曲に出てくるサヨナキドリ(ナイチンゲール)の嘆きは、愛の喪失から「死の眠り」への傾きへ、感情の方向がきれいに設計されている。
ソプラノ阿部早希子とアルト向野由美子が、メリスマを交互に、あるいは重ねていく箇所の溶け合いが見事で、情感は濃いのにセンチメンタルに流れない——ここがスカルラッティの格調だと思う。

後半:オペラ《ミトリダーテ・エウパートレ》抜粋——抜粋上演の弱点を“演出”で潰す

後半はオペラ抜粋を演奏会形式で。抜粋上演の宿命は、筋立ての接着剤であるレチタティーヴォが飛ぶことで、聴衆が「あれ?いま誰が誰を裏切ったんだっけ?」と迷子になりやすい点にある。

ここで効いたのが佐々木なおみの「お話(ナレーション)」。これはもうGPSである。場面の要点と各アリアの内容が手際よく整理され、聴衆の想像力が迷子にならない。むしろ音楽の細部へ集中できる。舞台装置がない分、声の表情がそのまま人物の性格や心理になっていき、「耳で見る劇」が成立していた。

字幕投影も丁寧で、通常の2行表示にとどまらず必要に応じて複数行、さらに登場人物名が明示される工夫があった。抜粋上演にありがちな「誰の心の叫びなのか問題」が解消される。
(字幕担当:三ヶ尻正・宮﨑展子)

歌手陣(阿部、佐藤裕希恵、向野、久保法之、藪内俊弥)も総じて充実。声種のコントラストが人物関係の緊張を音色として提示し、演奏会形式なのにちゃんとドラマが進む。終わってみれば、初日の構成は「器楽=語法の多彩さ」から「声楽=劇」へ、自然に階段を上がる作りだった。

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アレッサンドロ・スカルラッティ没後300年記念ー演奏会と講演会 その1

2025年12月26日(五反田文化センター音楽ホール)と翌27日(神田キリスト教会)に、「アレッサンドロ・スカルラッティ没後300年記念――演奏会と講演会――」が開催された。二日で完結する“スカルラッティ体験パック”というべき企画で、初日は世俗作品+オペラ抜粋、二日目は宗教作品+オラトリオ抜粋。この並べ方が実にうまい。

初日は約160名、二日目は定員180名が完売、補助席込みで200名に達したという。スカルラッティ、ちゃんと“集客力”あるじゃないか(日本では「ドメニコのお父さん」扱いで終わりがちなので)。

今回の特筆点を最初に一言で言うなら、
「ピリオド楽器&バロック歌唱で、“当時の肌触り”を本気で再現しにいった」
ということに尽きる。

しかも、ただ古楽器を並べただけではない。版(エディション)や楽譜の作り方、通奏低音の使い分け、装飾や言葉の扱いまで含めて、あらゆる判断が「当時の上演ならどう鳴るか」に向かっていた。つまり、“雰囲気”じゃなくて“設計”で勝負している。

予習までが公演です:オンライン講演×2が効いた

この二夜の前に、佐々木なおみ(敬称略、以下同様です)によるオンライン講演会が二度行われた。
10/30配信「アレッサンドロ・スカルラッティの生涯と作品」(無料)
11/30配信「演奏作品解説――創作活動からみるその特質と魅力」(有料)

これがよかった。いわゆる「予習してください」ではなく、記念年の公演を“知と経験のセット”として組む発想がある。聴衆にとっても、当日の音が「初見の難曲」になりにくい。こういう助走があると、会場での集中力がぜんぜん違うのを体感した。

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アレッサンドロ・スカルラッティ没後300年記念シンポジウム 「バロック・オペラの規範の確立と展開」

長々しいタイトルだが、要するにシンポジウムが開催され、筆者はスピーカーとして参加した。

2025年はアレッサンドロ・スカルラッティの没後300周年だったのである。アレッサンドロ・スカルラッティは、いわゆるナポリ楽派の成立に大きな影響を与え、オペラ・セリアの確立にも大いに力のあった人で、単にドメニコ・スカルラッティの父というだけではない。

僕個人としては、アレッサンドロ・スカルラッティというのは、ヨハン・セバスティアン・バッハくらい偉大な音楽家なのではないか、と考えているのだが、なかなか日本ではそういう評価、あるいはそういう頻度で演奏されることがない。

だからこそ、今回のシンポジウムの意義は単純で、しかし大きい。日本での演奏頻度や認知の「薄さ」と、作品そのものがもつ厚み(と、そこにぶら下がる研究課題の多さ)のギャップを、まずは言葉と実演で埋めていこう、という試みだった。

しかも、今回のプログラムが面白いのは、単に「偉人の記念年だから集まった」というだけではなく、焦点の当て方がきわめて具体的だった点だ。第1部で研究状況の俯瞰を置き、第2部でイタリア本国の“現場”を掘り、第3部で各国受容にひらく。つまり、作曲家を「点」で讃えるのではなく、作品が動いた“回路”を「線」として示そうとしている。スカルラッティのオペラは、まさにその線の束でできている。

第1部:特別講演(収録)——「現在」の地点確認

ディンコ・ファブリス氏の講演(収録)は、研究史の整理というよりも、「いま何が問われているのか」を確認する時間だった。スカルラッティ研究の“いま”を語るには、作品の価値判断だけでなく、資料(楽譜・台本・上演記録)と上演実践(演奏様式、劇場環境、歌手)をどう往復するかが要になる。こうした大枠が提示されることで、続く各発表が単なる個別研究の列ではなく、ひとつの地図として見えてくる。

第2部:「イタリア」——上演の具体性に降りていく

第2部は、イタリアでの上演・再演・創作背景・劇場コンテクストといった、いわば「現場の温度」に降りていくパートで、ここがこの日の核だったと思う。

  • 私の発表「《Gli equivoci nel sembiante》ローマ初演をめぐるスキャンダル」は、作品を“音楽史の名作”として扱うより、初演という出来事がどのような政治性・社会性・噂の回路のなかで立ち上がったのか、という観点からの話である。スカルラッティのオペラを理解するうえで、上演は「結果」ではなく、しばしば「事件」なのだ、という感触を共有したかった。

  • 萩原里香さんの発表は、《ピッロとデメートリオ》のシエーナ上演という一点から、再演をめぐる条件(場所、担い手、需要、そして作品側の“可塑性”)を浮かび上がらせる。ある作品が「どこで」「誰によって」「どういう形で」生き延びるのか、という問いは、受容史へ直結する。

  • 佐々木なおみさんは《ミトリダーテ・エウパトーレ》を創作背景から捉え、作品の成立を「作曲家の内面」だけに閉じない。委嘱・環境・時代の要請といった外圧のなかで、作品はどう設計されるのか。ここでも、スカルラッティが“劇場の人”であることが強調される。

  • 山田高誌さんの《貞節の勝利》(1718、フィオレンティーニ劇場)論は、劇場とジャンルのコンテクストから、作品を読み替える視点を与えてくれた。上演空間とジャンルの規範が変われば、同じ作曲家でも作品の顔つきが変わる。これが「ナポリ」という場の強度でもある。

そして、この第2部のあとに置かれた演奏(《Gli equivoci nel sembiante》《La Griselda》からの抜粋)が、単なる“余興”ではなく、議論の回路の一部として機能していたのがよかった。論点が抽象化しそうなところで、実際の音が入ると、こちらの理解が一段階、具体物に引き戻される。研究会/シンポジウムにおける演奏の意味を、久しぶりに正面から感じた。

第3部:「各国受容」——スカルラッティが“外へ”出る瞬間

第3部は、作品がイタリアを離れたときに何が起きるか、という話が並ぶ。ここで見えてくるのは、作曲家の威光というより、作品が「翻訳される」プロセスだ。

  • 森本頼子さんの「18世紀ロシアとナポリ楽派」は、ナポリ楽派という枠組みが、イタリア内部の歴史用語にとどまらず、外部でどう接続され得たかを考えさせる。

  • 田中伸明さんの「ドイツにおける受容とサンティーニ・コレクション」は、受容史が「聴かれた歴史」だけでなく、「集められ、保存され、参照される歴史」でもあることを思い出させる。作品は演奏されなくても、資料として生き延びる。

  • 吉江秀和さんの「ロンドン上演」は、《ピッロとデメートリオ》がロンドンで《Pyrrhus and Demetrius》として現れる、そのズレと変形の面白さを示す。外に出た瞬間、作品は同一性を保つのではなく、別の制度・別の嗜好・別の劇場慣行に合わせて姿を変える。その変形こそが受容の実体だ。

このパートの後に置かれた演奏2(ナポリ版1694/ロンドン版1709の聴き比べを意識した構成)が、まさにその「変形」を耳で確認させる仕掛けになっていた。言葉で説明される“差異”が、音のレベルで立ち上がる瞬間があると、聴衆の理解の速度が一気に上がる。

まとめ:記念年の「祝祭」ではなく、次の上演へ

全体を通して思ったのは、このシンポジウムが「300周年だから偉い人を讃える」という祝祭ではなく、むしろ次の上演・次の研究へ向けて、論点を交通整理する場になっていたということだ。スカルラッティは、確かに“ナポリ楽派の成立”や“オペラ・セリアの確立”といった大きい言葉で語られる作曲家だが、実際には、上演という現場の細部、再演の事情、各地での変形、資料の伝播——そういう具体の束として存在している。

日本で演奏頻度が高くないのは事実だし、だからこそ「評価」も育ちにくい。しかし、研究と実演の両輪が回りはじめると、状況はわりと早く変わりうる。今回のように、議論のそばに実際の音があり、国内外の視点が交差する場が継続すれば、スカルラッティは“知っている人だけが知っている巨人”ではなくなるはずだ。

——などと書きつつ、結局のところ、私はこう思っている。
スカルラッティは、もっと上演されていい。
そして、上演されればされるほど、「研究すべきこと」も増える。厄介で、しかし幸福な循環である。

(※末尾に、当日のプログラムを備忘として掲げておく——)

プログラム

開会挨拶 石井道子(早稲田大学教授・オペラ/音楽劇研究所長)

趣旨説明 大河内文恵(東京藝術大学附属高校非常勤講師・オペラ/音楽劇研究所招聘研究員・WG代表)

  • 第1部 特別講演(収録)

ディンコ・ファブリス Dinko Fabris(バジリカータ大学教授・国際音楽学会元会長)
「アレッサンドロ・スカルラッティ研究の現在」

  • 第2部 「イタリア」

発表①辻昌宏(明治大学教授・オペラ/音楽劇研究所招聘研究員)
Gli equivoci nel sembiante》 ローマ初演をめぐるスキャンダル

発表②萩原里香(武蔵野音楽大学非常勤講師・オペラ/音楽劇研究所招聘研究員)
A.スカルラッティのオペラの再演をめぐる状況:《ピッロとデメートリオ》 のシエーナ上演を対象に

発表③ 佐々木なおみ(ディスコルシ・ムジカーリ主宰、在シチリア)
創作の背景から見るオペラ 《ミトリダーテ・エウパトーレ》

発表④ 山田高誌(熊本大学准教授)
《貞節の勝利》 (ナポリ、フィオレンティーニ劇場、1718) :初演劇場とジャンルに関わる“コンテクスト”からみて

★演奏1
《顔立ちで取り違え Gli equivoci nel sembiante》 (1679)より
《グリゼルダLa Griselda》 (1721)より
森川 郁子(S)、森 有美子(S)、阪永 珠水(Vn.)、髙橋 弘治(Vc.)、上羽 剛史(Cem.)

質疑応答 コメンテーター:野田農(早稲田大学准教授・オペラ/音楽劇研究所員)

  • 第3部 「各国受容」

発表⑤ 森本頼子(名古屋音楽大学非常勤講師・オペラ/音楽劇研究所招聘研究員)
18世紀ロシアとナポリ楽派のつながり

発表⑥ 田中伸明(北里大学専任講師・オペラ/音楽劇研究所招聘研究員)
ドイツにおけるA.スカルラッティ受容とサンティーニ・コレクション

発表⑦ 吉江秀和(杏林大学非常勤講師・オペラ/音楽劇研究所招聘研究員)
《ピッロとデメートリオ (ピュロスとデメトリオス)》 のロンドン上演について

★演奏2
《ピッロとデメートリオ  Il Pirro e Demetrio》 (ナポリ版1694)より
《ピュロスとデメトリオス Pyrrhus and Demetrius》 (ロンドン版1709)より
森川 郁子(S)、森 有美子(S)、阪永 珠水(Vn.)、髙橋 弘治(Vc.)、上羽 剛史(Cem.)

質疑応答 コメンテーター:野田農(早稲田大学准教授・オペラ/音楽劇研究所員)

閉会挨拶 大河内文恵

司会:石井道子



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ヘンデル《ロデリンダ》

今となっては大分時間が経過してしまったが、ヘンデルのオペラ《ロデリンダ》を観た(北とぴあ、2025年11月30日)。

指揮とヴァイオリンは寺神戸亮、管弦楽はピリオド楽器によるレ・ボレアード。演出は小野寺修二。舞台に二人のダンサー(崎山莉奈、大西彩瑛)が加わり、登場人物の感情の輪郭を、歌手とは別の身体で可視化していく——この方法が、思いのほか作品の「演劇性」をくっきり立ち上げていた。

歌の面では、ロデリンダ役ロベルタ・マメリがとりわけ印象的で、旋律線のしなやかさ、言葉の切れ、情念の濃度が、どれも高い水準で揃っていた。もちろん、他の歌手も総じて充実している。とくにウヌルフォ役の中嶋俊晴、エドゥイジェ役の輿石まりあは、声だけで人物像を生き生きと立ち上げ、場面ごとの空気を変えていく力がある。音符を「きれいに」並べる以上に、ドラマとしての呼吸が伝わってくる歌唱で、ヘンデルが劇であることを改めて実感させた。

寺神戸のレ・ボレアードも、ヘンデルがすっかり板についてきた感がある。音楽が過度に装飾に傾くことも、逆に禁欲に寄りすぎることもなく、劇の推進力として機能していたのが頼もしい。通奏低音も生き生きとしていた。ダンサーが感情を代行することで、歌手が歌と身体表現の両方を同時に背負い込みすぎず、“歌に専念できる安心感”が生まれるのも、この演出の美点だろう(もちろん、歌と踊りを超人的に両立する歌手の魅力を否定するものではない)。

総じて満足度の高い上演だった。ヘンデルのオペラが、本来の意味で「舞台芸術」として聴こえ、見えた夜である。

公演データ
ヘンデル《ロデリンダ》/北とぴあ〔 〕
指揮・ヴァイオリン:寺神戸亮
演出:小野寺修二
ロデリンダ:ロベルタ・マメリ/ベルタリード:クリント・ファン・デア・リンデ/グリモアルド:ニコラス・スコット/エドゥイジェ:輿石まりあ/ウヌルフォ:中嶋俊晴/ガリバルド:大山大輔
ダンサー:崎山莉奈、大西彩瑛
管弦楽:レ・ボレアード(ピリオド楽器)

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2025年11月29日 (土)

ベルク《ヴォツェック》

アルバン・ベルク作曲のオペラ《ヴォツェック》を観た(11月24日、新国立劇場)。

今年が初演から100周年であることは認識していたのだが、仕事が立て込んでいてどうしようかと迷っているうちに、主役が降りたことがわかった。うーん。その前後で、今回指揮者大野(敬称略以下同様)と演出家リチャード・ジョーンズが作品について語るyoutube, ヴォツェック役とマリー役のアンダー(駒田俊章、高橋絵理)が、音楽コーチ(城谷正博)とピアノ伴奏(小埜寺美樹)で演奏しながら解説してくれる Youtubeを観て、ヴォツェック上演に向けての関係者の熱量を感じた。それで主役の歌手が交代したことを知りつつあえてそこから切符を買った。

今回感じたのは、ベルクのオーケストレーションの官能性だった。弦だけの部分もそうなのだが、金管がギリギリの低音を出す、コントラバスがギリギリの低音を出すという時、経験したことのない音を身体で感じるのだった。どちらも通常のオーディオシステムでの再現は極めて困難である。

その低音がホールに鳴り渡る感じがゾクゾクする音響なのだ。そしてそのゾクゾクする場面が、戯曲上の不条理と響きあって、知性と感性を麻痺させるようなインパクトがある。それはまさに主人公ヴォツェックが陥っている状態なのだ。

都響のプレーヤーに敬意を評したい(指揮者も含めて)。この不条理な官能性に圧倒される経験は、以前にアッバード指揮ウィーン国立歌劇場の来日公演でこの作品を観た時以来のものだ。

また、駒田敏章のヴォツェックは、演劇的にとても効果的だったと思う。彼は、大尉のアーノルド・ベズイエンや医者の妻屋秀和、鼓手長のジョン・ダザックより相対的に小柄だった。そのことはこのストーリーを考えれば実に相応しい。ヴォツェックは、彼らに翻弄されてしまう悲哀に満ちた存在なのだ。声も彼らの相対的に圧倒するような声に、必死で立ち向かっても同等かそれ以下というのが演劇的には相応しいと思われる。彼らが押し付けてくる道徳観や冷酷な「科学的観察眼」、はたまたセクシュアルな優位性に押しつぶされていく存在がヴォツェックであるからだ。

納得のいく《ヴォツェック》だった。

 

 

 

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2025年11月 9日 (日)

モーツァルト《羊飼いの王》

モーツァルトのオペラ《羊飼いの王》を観た(藤沢市民会館大ホール)。

この会場は初めて。大きすぎないのが良い。2階席がある。1380人収容とのこと。座席は小さめ。

この日の上演は、演奏会形式で、せめてセミステージだったらよかったのにと思った。服装も凝らなくて良いし、舞台装置も最小限で良い。日本人なら能・狂言を知っているのだから、ミニマムな装置で想像力を膨らませることは自由自在なのだ。

ただし、今回アミンタを歌った砂川涼子(敬称略、以下同様)は、パンツルックで男性であることを表現してくれており、それは恋人役の森麻季(エリーザ役)がドレス姿だったのと対照的でこのコントラストはコンサート形式の中に最小限の演劇性をもたらしてくれてありがたかった。アミンタは、なにせ、羊飼いとして成長したのに、アレッサンドロ(アレクサンダー大王)がやってきて、この地の王の血筋を継ぐものはアミンタだから王位を継承させるということになるわけで、本来なら羊飼いの姿で出てきて、それが大王アレッサンドロとその部下アジェーノレに見出されるわけである。

しかしそれがありがた迷惑なのが、恋仲だったエリーザだ。というのも、二人は婚約していたのだが、アレッサンドロが元々この地の僭主の娘タミーリとアミンタを結婚させようとするからだ。タミーリはアジェーノレと恋仲だったのでショックを受ける。こうして二組の恋愛が捻れた関係になるが、最終的にアレッサンドロが解決して、めでたしめでたしとなる。

この日の歌手は、先述のアミンタの砂川涼子とエリーザの森麻季の他に、アレッサンドロ大王の小堀勇介、タミーリの中山美紀、アジェーノレの西山詩苑。それぞれに優れた歌唱を聞かせ、こちらとしては満足度が高かったが、アジェーノレの西山詩苑は、声質が美しく、歌いっぷりも端正で、レチタティーヴォも発音が綺麗で、アジェーノレ役としては出色の出来だと思う。

砂川、森は安心して聞いていられる安定感があったが、その安定感に大いに寄与していたのは園田隆一郎の指揮だろう。彼の指揮は、丁寧かつケレンを狙わないもので、歌手の歌い方を丁寧に尊重している。一方で、テンポが大きく変わる時には、歌手と目配せしてギクシャクしない。新奇なことをやるのではなく、手抜きのない良い仕事をしているトラットリアのような味と言えば良いだろうか。神奈川フィルハーモニーも良い仕事をしていたと思う。この日は、チェンバロ(矢野雄太)が加わっていた。

この曲で曲想として歌うのが難しいのはアレッサンドロ大王だと思った。アレッサンドロは、国全体の秩序がどうあるべきかを考えているので、他の登場人物のように自分の愛する人のことを第一に考えている人たちとは違う次元にいる。それはメタスタージオのリブレットにも如実に現れていて大自然や宇宙の要素が比喩として出てくる。曲想もそれに相応しくモーツァルトが作っている。まさにオペラ・セリアの曲想であり、小堀は大健闘していたと思うが、さらにフレージングや表情づけで、さらに深い感動を呼ぶ歌へとなることを期待したい。

全体としては、日本でモーツァルト初期のオペラ・セリア(セレナータ)が、これほど高いレベルで上演されることは慶賀すべきことだと思うし、その一方でこれだけ音楽的レベルが高いのだから、せめてセミステージにしないと勿体無いとも思うのであった。上演後のトーク(井内美香の司会で、園田と砂川が質問に答えていた)でも、砂川からお芝居でやりたいという趣旨の発言があった。全面的に賛成である。

とはいうものの、モーツァルトの初期のオペラをもっと聞いてみたいと思う気にさせてくれた優れた演奏であった。感謝。

 

 

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2025年9月23日 (火)

プッチーニ《ラ・ボエーム》

プッチーニ作曲のオペラ《ラ・ボエーム》を観た(三越劇場)。

三越劇場というのは、日本橋三越本店の6階にある小ぶりな劇場で、定員500人程度。一階と二階に別れている。非常にクラシックな内装で、昭和2年に出来たとのことだが、バロック的ともロココ的とも言え、そこにルネサンス的要素も入っており、不思議な折衷様式である。舞台は額縁舞台であるが、両脇には見せかけの擬似扉がつらなっており、その扉も上部は立体的に半球状にカーブがあって美しい。ここは、劇場としては、19世紀以降のオペラよりも、たとえばバロック・オペラこそがふさわしい空間ではないかと、個人的には思った。バロック歌唱は丁寧かつ繊細な歌唱であるので、音量としては小さめの傾向があるが、ここなら空間が小ぶりなのでぴったりではないか。劇場としても、一見の価値ありと思う。

さて、《ラ・ボエーム》。オケに相当するのはクオーレ・ド・オペラ・アンサンブルで、ピアノ山口佳代(敬称略、以下同様)、ヴァイオリン澤野慶子、チェロ三間早苗と指揮澤村杏太朗。非常にコンパクトであるが、弦楽器があるのはプッチーニらしい響きを醸し出すのに役立っている。

歌手のなかではミミの東山桃子が傑出していた。レチタティーヴォもアリアも安定した歌唱でかつ役に入っている。ムゼッタの清水結貴は、子音が弱く言葉が聞き取りにくいのが惜しい。

出色だったのは第二幕で、平土間の通路から民衆役の合唱が登場するのも(最近はよく見られる手ではあるが)効果的であったが、さらに新鮮だったのは、合唱の人数が少ないため(12人)合唱の歌詞がこれまでになくよく聞き取れるし、かつ、ミミやロドルフォたちと重なったときに彼・彼女らの声を押しつぶさないのである。

プッチーニはアリアが巧みなのでそこに目が(耳が)行きがちだが、二幕の合唱においても、子ども、物売りなど人物を丁寧に描きわけて、主要登場人物たちとの交錯がスリリングに出来ている。ヴェルディのリゴレットの4重唱などとは異なり(人間関係も異なるわけだが)有機的な響き、交錯を狙ったものではない。むしろ、登場人物たちが生きる社会を表象するような人々であるわけだが、二幕だけでなく三幕にも民衆が出てくる。場所が町外れなので、その門を往来する牛乳などの売り買いをする人たちだ。こういった町の人々を後景に描きこんだうえで、ミミ、ロドルフォ、マルチェッロ、ムゼッタらが前景に描かれる。そこにこの音楽劇の奥行きがあるだろう。合唱で描かれる民衆と主要登場人物はあくまで並立していて、有機的な関係というわけではないところが、むしろプッチーニの現代的なところとも思える。合唱団に一人数役をこなさせ、今述べた後景・前景の関係を手際よく理解させる演出の江頭隼の巧みさに感心した。合唱団の人数は、伴奏の編成がコンパクトなこともありちょうど良かったし、響き、テクスチャーとして新たな発見があった。
主催はクオレ・ド・オペラで、歌手は入れ替わるが10月8日には横浜市民文化会館関内ホールで再演される。

 

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2025年8月22日 (金)

ランチ・コンサート 2

再びランチ・コンサートに行った(インスブルック、王宮庭園)。

僕にとって今回は2度目のランチ・コンサートだが、音楽祭としては第3回目のランチ・コンサートである。

メンバーは2人の姉妹。ヴェラ&パトリツィア・ビーバー。ヴェラは、オベルリンガーの弟子でリコーダを吹く。パトリツィアは、チェンバロでの伴奏。ただし、ジャン・アンリ・ダングルベールは彼女の独奏であった。

曲目は

ビアージョ・マリーニ(1594−1663)のSonata 4. マリーニはヴェネツィアでモンテヴェルディの同僚だった人で、このソナタは、曲想の変化が激しく、多分に実験的な要素も感じられた

J.S. バッハのリコーダーソナタ g-moll BWV1020   マリーニの後では、形式がはっきりしていることが強く感じられる。

マラン・マレ(1656−1728) Folies d'Espagne  フォリアの曲で変奏曲である。これはリコーダーの独奏。

ジャン・アンリ・ダングルベール (1629−1691)ルイ14世の宮廷のクラブサン、オルガン奏者、作曲家である。

フランチェスコ・ロニョーニ(1570−1620)1620年には『Selva de varii passaggi』を出版し、演奏技法や装飾音(ディミヌイツィオーネ)の重要な資料となっているそうだが、ここから Io son ferito が奏された。

フランチェスコ・マンチーニ(1672−1737) Sonata 第1番 d-moll  ナポリ楽派のオルガニスト、宮廷楽長。

イタリアの南北、ドイツ、フランスと幅広い対象を概観し、17世紀と18世紀前半の音楽を見渡せる意欲的なプログラムで、アンコールにはイギリスの作曲家の変奏曲を演奏した。

リコーダーは古楽ではありがちだが、曲ごとに笛を変えていた。4本くらい使用か。チェンバロは一台。

前にも述べたが、このコンサートは公園の東屋で、無料で開催される。途中で子犬が吠えたり、飛行機が通過(インスブルック空港は町から近いので町の上を低空で飛ぶのである)したのはご愛敬。若手が意欲的なプログラムを、思い切りのよい演奏で披露してくれ満足度は高い。

 

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ヴィヴァルディ《ジュスティーノ》その4

ヴィヴァルディのオペラ《ジュスティーノ》の三回目を観た(インスブルック、音楽館)。

歌手と配役についてもう一度。

今日は、フォルトゥーナ(運命の女神)とレオカスタ(皇帝の妹)の一人二役をやるサラ・ハヤシが不調であるというアナウンスが事前にあった。アマンツィオ(権力を簒奪するが、すぐに退治される)役のベネデッタ・ザノットも喉の不調と思われた。歌い回しに様式感はあるのだが、声がまるで声変わりの少年のようになってしまうことが度々起こるのである。調子が整った状態でぜひ聴いてみたいと思う。

3回観たが、フォルトゥーナとレオカスタの一人二役というのは、サラ・ハヤシのせいではなくて、演出としていかがと思った。二人の役柄の区別がつきにくいのである。それでなくても、メタスタージオものなどより人数が多くてストーリが複雑なのだから、むしろ観客にとって人間関係がすっきりと把握しやすいように作るべきであると思う。皆が、2度、3度、4度と観るわけではない。一度みてストーリや人間関係がわかるようにした方がよいのではないだろうか。しかも、《ジュスティーノ》はそれほど頻繁に上演される演目ではないのだから。一人二役をするなら、思い切って服装か持ち物を変えた方がわかりやすかったと思う。

このオペラにはいくつかの飛び抜けて叙情的なアリアもあるのだが、以外なほどセリアなアリアが多い。アナスタジオは皇帝だから威厳あるアリアがあって当然なのだが、農夫から皇帝にのぼっていくジュスティーノにも叙情的なアリアとともにセリアなアリアが多い。あるいは叙情性と威厳の入り交じった曲もあるし、ジュスティーノのアリアは多様性がある。アマンツィオは権力を簒奪するとホルンまで出てきて勇壮なアリアが歌われる。小アジアの暴君のヴィタリアーノにも同じく勇壮なアリアがふられている。しかもこの勇壮なアリアが聴きごたえがある。さらには、皇妃のアリアも毅然としたものが多い。しかしところどころに入る優れて叙情的なアリアのおかげで全体が重いとか堅苦しいとは感じない仕組みになっている。さすが赤毛の司祭。

歌手で歌もレチタティーヴォも形がきまっているのはアリアンナ役の Jiayu Jin.彼女の役は、暴君から迫られても皇帝への操をたて、囚われの身になっても毅然としている強いキャラクターなのだが、歌でも演技でもそのキャラクターを実に適切に表現していた。未知数なのは、アリアンナには求められていない甘美な表情やアジリタであるが、これはまた別の役柄で聴くことがあるのを楽しみにしよう。

ヴィタリアーノ役の Thoma Jaron-Wutz は大いに可能性を感じる歌だった。レチタティーヴォがもう一歩。レチタティーヴォに関してはタイトルロールの Justina Vaitkute も同様だ。彼女はとても安定した美しい声を持っているのだから、レチタティーヴォにもう少し緩急がついて、引き締まるとアリアが一層映えるはずだ。成長を期待したい。

一人二役のサラ・ハヤシは、とても知的にレチタティーヴォもアリアも演技もコントロール出来ている人だと思った。喉が不調で、強い声が出ないなら出ないでそれをうまく補う術を心得て、聴かせるアリアになっていた。

アナスタジオの Maximiliano Danta はレチタティーヴォの緩急が上手い。声域もあるアリアでは地声で低いところまで出していた。

インスブルックではチェスティ・コンクールというのもやっていて、そこでの入賞者が翌年の若手オペラに出たりするのだが、この人は伸びそうとか思って聴くのも楽しいものだ。相撲でも幕内を観るのも良いが、十両で力をつけつつある若手を観るのも楽しいというようなことにも通じるかもしれない。

指揮者のステーファノ・デミケーリは、生真面目な指揮をする人で、四拍子で、全部の拍を強調してくるような時もある。曲想次第ではあるが、もう少し肩の力を抜いてさらっと流すところもあって良いのではとも思った。楷書で書くとすみずみまで形がわかる。つまり、楽譜が見えるような指揮もあって良いのだが、曲によっては勢いにのってノリが欲しいところもあるのだ。

 

 

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2025年8月21日 (木)

チェスティの家

作曲家チェスティの家を見た(インスブルック)。インスブルックの大聖堂前の広場に面した立派な家で、近年修復され、現在は一般市民が居住している。チェスティが住んでいたことを示すプレートもある。

17世紀の大作曲家チェスティは一般にはあまり知られていない作曲家かもしれない。が、生前は大作曲家であったし、近年、彼の作ったオペラが蘇演(復活上演)され、《ラ・ドーリ》などはブルーレイも発売されている。インスブルックには縁の深い作曲家なのだ。

アントニオ・チェスティが生まれたのは、トスカーナ地方のアレッツォで1623年8月5日のことだった。彼は最初はフランチェスコ会の修道士となる。若いころは歌手として活躍していた。シエナで最初にオペラが上演された際にも歌ったようだ。1640年代にフィレンツェのメディチ家の庇護の下に入る。そしてフィレンツェの文人グループの集まりである Accademia dei percossi のメンバーとなる。17世紀、18世紀のイタリアの文化活動(オペラ創作を含む)にとってアッカデーミアは大変重要だ。イタリアの場合は、各都市に複数のアッカデーミアが存在することが多い。チェスティはこのアッカデーミアを通じて、ジョヴァンニ・フィリッポ・アポッローニやジャチント・アンドレア・チコニーニと知り合うが、かれらはチェスティがオペラ作曲家となった時に、リブレットを提供している。

チェスティに関して注意すべきなのは、古い資料には誤解があって彼のオペラの初演地がヴェネツィアと書いてある場合に、実はインスブルックが初演地であることがある。たしかにチェスティは1651年にヴェネツィアでオペラを発表して成功をおさめるのだが、その翌年から約5年間、インスブルックのフェルディナント・カール大公のもとで働いているのだ。

1655年には《アルジーア》がインスブルックで初演されているが、リブレッティスタは前述のアポッローニで、しかしもっと重要なのは、これがスウェーデン女王クリスティーナが、自ら退位し、ローマへ居を構える途中で、しかもここで正式にカトリックに改宗したのを記念しての上演であった。クリスティーナはプロテスタントからカトリックに改宗した女王であったので、カトリック教会にとっては対抗宗教改革という観点からもっとも優遇すべき人物であり、実際ローマに住むようになってから彼女のサロンはローマ第一の文化的サロンとなった。

さて、5年間インスブルックで働いたチェスティだがさらに重要なポストを与えられるところであったのだが、ウィーンの皇帝レオポルト1世に招かれ宮廷楽長となった。その後、フィレンツェに戻りそこで亡くなった(毒殺されたという説もある)。

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