2026年5月 7日 (木)

映画『アート・オブ・ジョイ』

イタリア映画祭で『アート・オブ・ジョイ』(ヴァレリア・ゴリーノ監督)を観た。今年のイタリア映画祭の最終上演であり、317分の大作。間に20分の休憩が入ったので、2時45分に上映が始まり、終わったのは8時半だった。オペラで言えば、ワーグナー並みと言えよう。あるいはバロック・オペラではよくある長さとも言える。

 ゴリアルダ・サピエンツァの小説が原作なのだが、映画『外の世界』で言及したようにゴリアルダ・サピエンツァの生涯とこの小説出版までの経緯が波乱に富んでいる。サピエンツァが10年かけて執筆した小説を出版社が受け入れず、サピエンツァは盗みをはたらいて刑務所にことになる。

彼女が書いた小説が Arte della gioia で映画の原作。これは全4部作で、今回上演されたのは、第一部を映像化したものだ。小説自体には第二部以降があって、カターニャでの生活、ファシズム期のことなどが描かれているとのこと。

(以下、いわゆるネタバレありですが、ロードショーものではなく、映画祭のものなので、どんな話かご興味があればどうぞ)

主人公のモデスタは、貧農の母子家庭で育ち、姉が障害者。そこに父親が戻ってきて、悲惨なことが起こり、モデスタが落としたランプのせいで母と姉は焼け死ぬ。モデスタは修道院に引き取られ、そこは貴族の娘だけが入る修道院だったので、長くはいられないはずだったが、なぜか修道院長(ジャスミン・トリンカ)のお気にいりとなりそこにとどまれることになる。しかし修道院長の寵愛は、修道会の規範ぎりぎりの危ういところまでいき、モデスタは修道院長の怒りをかう。その怒りを逆恨みしてモデスタは修道院長を死に追いやる。その後、モデスタは、修道院長の実家に短期間行くのだが、そこで気に入られ長期間留まる、といった具合に話しは続く。実家は広大な館で、その周囲には一家が所有する農地が広がり、農場管理人がその差配を任されている。この一家には実は修道院長の産んだ娘(修道院長の母の子ということになっている)や館の最上階に閉じこめられ、怪物扱いされている息子がいて。。。。

モデスタは、『山猫』の中のクラウディア・カルディナ—レが演じた成り上がりの女性に似ていなくもない。ただし、それが何倍も露悪的かつグロテスクかつ復讐心丸出しの話になっている。モデスタ演じるテクラ・インソリアは端正な顔だちで、修道女にぴったりという感じなのだが、悪意・敵意をむき出しにしたり、時に性欲に火がついたりするとタフな演技力を見せる。長いのだが、退屈するところはなく、続編が観てみたいと思った。

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2026年5月 3日 (日)

イタリア映画祭始まる&『外の世界』

5月1日からイタリア映画祭が始まった。東京は有楽町の朝日ホールが会場である。今年で26年目。

『外の世界』(マリオ・マルトーネ監督)を観た。実在の女性作家ゴリアルダ・サピエンツァの人生が元になった作品。彼女は長年書きためた小説を出版社から次々に断られ、友人の宝飾品を盗み、売りさばいたことで、刑務所行きとなる。映画の冒頭近くで、主人公役のヴァレリア・ゴリーノが裸にされ持ち物検査をされる場面もあり、ローマのレビッビア刑務所の女性刑務所がどういうところかが描かれるのだが、実際は、これが釈放されてから外の世界と交互に配置されている。つまりフラッシュバックのようなことが何回も起こるのである。

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映画『ヴィヴァルディと私』

イタリア映画祭で『ヴィヴァルディと私』(ダミアーノ・ミキエレット監督)を観た。

オペラファンならとうにご存じのことだが、ミキエレットはオペラの演出家として世界的に活躍している。この点はマルトーネ監督が映画監督として名をはせた後にオペラ演出もやるようになったのと好対照である。

18世紀のヴェネツィア、その中でも閉ざされた空間のピエタ孤児院(音楽院)の様子がうかがえて興味深かった。ヴィヴァルディの弟子チェチーリアは架空の人物だとしても、蓋然的にはこんな世界だったのだな、という感じは持った。トルコとの戦いに(一時的に)勝った記念のオラトリオ《勝利のユディータ》が出てくるのは聞き物と言えよう。

オペラ演出では時に荒涼とした世界へ読み替えてしまうミキエレットだが、この映画はむしろ時代劇としてヴィヴァルディの時代、世界をリアルに浮かび上がらせようとしていたようだ。

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映画『大人の人生』

イタリア映画祭で『大人の人生』(グレタ・スカラーノ監督)を観た(有楽町・朝日ホール)。

実話がもとになっているのだが、自閉症の兄と妹イレーネの関係が、時にコミカルに、描かれる。兄はテレビのオーディション番組に出たいのだが、母は反対し、挫折するが、その後、妹の力添えで出場がかなう、といったストーリだ。妹が普段住んでいるのはローマで、弟と両親はリミニに住んでいるという設定。物語はリミニを中心に展開する。そこにはイレーネの叔母や祖母も住んでいるのだった。

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らじるらじる

NHKのラジオ放送が大幅に変わった。今年の3月末?まではAM2局+FMであったのがAM1局+FM1局になった。要するにAMが1つ減ったのだ。そのせいで語学の講座などはFMで夜中の1時半などという時間に放送されている。それとは別件なのだが、FMの「古楽の楽しみ」は朝5時からだったり、6時からだったりしたのだが、再び5時からになった。
というわけで、らじるらじるというインターネット放送を利用するようになった。リアルタイムでも聴くことができるが、聴き逃し配信があって、1週間はいつでも聴くことができる。ただし「古楽のたのしみ」はなぜだか判らないが、聴き逃し配信がある週とない週がある。先週は佐藤康太氏の案内でテレマン特集だった。佐藤康太氏の解説は、真面目な学問的な話のなかに、とぼけたユーモアがあってとても楽しい。テレマンをぐっと身近に感じることができた。この番組は、佐藤氏に限らず、一流の研究者が専門的な話を判りやすく噛み砕いてくれ、なおかつその実例を演奏という形で(演奏会のものもCDの場合もある)聴かせてくれる。

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2026年4月19日 (日)

ジャコモ・アントニオ・ペルティ作曲 受難オラトリオ《イエスの聖墓》

ジャコモ・アントニオ・ペルティ作曲の受難オラトリオ《イエスの聖墓》を聴いた(日本ルーテル東京中央教会)。

このルター派の教会は新大久保が最寄り駅で、歩いている間は一件置きに韓国料理が並んでいる特別な雰囲気の通りで、そこに突然教会があらわれる。

ペルティ(1661−1756)はボローニャで活躍した作曲家。このコンサートのプログラムには佐々木なおみ(敬称略、以下同様)による簡潔ではあるが、1.ペルティの生涯概略、2.ボローニャのオラトリオの特色、3.オラトリオ《イエスの聖墓》と信心会、4.作品の構成と聴きどころ、という至れりつくせりの解説および作品の歌詞が対訳で掲載されていて、作品を味わいまた理解するうえで大いに役に立った。

演奏中、舞台に字幕はなかったが、客席の照明も明るいままだったので、プログラムの対訳を観ながら聴いている人は多かった。なにせ日本初演であるからこの曲になじんでいる人は演奏者や関係者を除けば、ほんの一握りだったのではないだろうか。その意味で、無料の質の高いプログラムが付いているのは実に行き届いた配慮と言えよう。

このコンサートはペルティの《イエスの聖墓》日本初演とのこと。ペルティという作曲家を知らなかったが、ボローニャの大聖堂の楽長を60年もつとめ95歳の長寿をまっとうしている。宗教曲が多いのだが、《イエスの聖墓》は代表曲のようだ。歌詞を書いたジョコモ・アントニオ・ベルガモーリ(1653−1717)も宗教曲の歌詞を主として書いた人である。この作品の登場人物は、(聖母)マリア、マグダラのマリア、聖ジョヴァンニ(ヨハネ)、百人隊長、アリマタヤのジュゼッペ(ヨセフ)である。歌ったのはマリアが小野綾子(ソプラノ)、マグダラのマリアが佐藤裕希恵(ソプラノ)、聖ジョヴァンニが中嶋俊晴(カウンターテノール)、百人隊長が山本悠尋(バリトン)、アリマタヤのジュゼッペが大野彰展(テノール)。佐藤の透明で浸透力の強い声や中嶋の劇的に変化する声の表情が特に印象的だったが、楽曲としては第二部のマリア(小野)と百人隊長(山本)の二重唱が実に効果的で、二人が non piu と歌いかわしつつ、盛り上がるのだった。全曲を通じ、二重唱はこの一カ所のみ。第一部に全員で歌う5重唱があり、これもここだけ(ただしこの日の演奏ではこの5重唱を全体の締めくくりでも歌っていた)。

曲は最初のシンフォニーアが終わると百人隊長が出てくる。イエスとの関係からすれば他の登場人物と較べて距離のあるはずの百人隊長は一部ではもっとも出番が多い感じなのだ。ここからは、わたしなりの勝手な解釈だが、百人隊長はもともとローマ帝国の側の人間である。それがイエスの磔刑に立ち会って、イエスは正義の人であったと気づき改心する。ある意味で、これはイタリア人の立場を表象しているのではないか。もともと古代ローマ時代にはイタリア人の多くは古代ローマ帝国のもと「異教」を信じていたし、場合によってはキリスト教を迫害する側だった。それがある時点で、というか一定の期間をへてキリスト教徒になっていったわけである。だから百人隊長はシンボリックにはイタリア人を表しており、彼の悔い改めこそが、一人一人の信者に求められるということなのかもしれない。

オケはアンサンブル・パルテノペでバロック・ヴァイオリンが朝吹園子、クリストフ・ルドルフ、バロック・チェロが懸田貴嗣、オルガンが西山まりえで人数は少ないのだが、ペルティはめりはりの効いたテクスチャーを紡ぎ出しており、ヴァイオリンですら二人ともお休みをしていることもあるのだが、華やかなところでは二人のヴァイオリンが対位法的に綾をなす。というわけで、音楽的には十分変化に富んでおり、まったく単調ではなく、充実したオラトリオを聴いたという実感があった。

会場はほぼ満席だった。このような演奏会が成り立つこと自体が、日本の古楽の充実の一端を示していると思うが、同時にヨーロッパでも埋もれた名曲の蘇演、掘り起こしが進んでいる。今回は、あらためてオラトリオにもいろいろなタイプ、地域差があることを実感したコンサートであった。

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2026年4月14日 (火)

ロマーノ・ルペリーニの死去

イタリア文学者、批評家のロマーノ・ルペリーニが亡くなった。小説も詩も戯曲も何でも鋭く読む人で、数千ページのイタリア文学史を共編者二人と編んでいる人で、何でも知っているという感じであったが、博学というより、つねに問題意識がシャープであった。左翼系の戦闘的な批評家でああったことは世に知られている。

ささやかではあるが、ルペリーニとの縁について書いてみたい。勤務先の在外研究でイタリアに行こうという気持ちが抑えきれず、実際にそうしたのだが、当時本郷の助手だったHさんからルペリーニを紹介してもらった。1995年のことで、イタリアに渡る前に、阪神淡路の大震災や地下鉄サリン事件があった。ルペリーニの授業では、マンゾーニの『いいなずけ』のゼミに出させてもらった。20世紀の詩人モンターレや小説家ヴェルガ、トッツィについても著書があり、文学を細かく区切って○○世紀の専門とかある特定の詩人、小説家の専門家というのではないスケールの大きさがその視点には常にあった。それでいて、2008年には「モンターレの難解な詩」という講義に出席させてもらったのだが、一行一行精読していって、あるところで新しい視界が開けるという経験を何度も味わった。

彼が他の2人と編纂したイタリア文学史の教科書(高校でも大学でも使用されている)は、常々参照する自分にとっての基本図書となっている。これは日本の教科書とは異なり、文学史が5巻とか6巻になっていて、しかも1巻が1000ページを超えている。時代ごとにその時代のヨーロッパの思想潮流が解説され、その上でイタリアの情勢を把握し、イタリア文学の潮流を理解するという仕組みになっている。そして作品の例示が実に豊富にあって、その全てに詳しい語注や解説が付けられている。

彼は2008年の秋に日本にやってきた。奈良を案内したときに、遷都くんというゆるキャラのTシャツを息子に買っていこうかと思ったが、角が生えているのはイタリアだとコルヌートになるから(間男された亭主を意味して侮蔑の対象となる)やめていた。大仏も観てもらったが、むしろ清水寺で信徒が熱心に祈っている場に興味を持ったようであった。

彼の文学者・批評家としての素晴らしさを開示するようなエピソードでなくて恐縮です。

 

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2026年4月11日 (土)

アルバン・ベルク《ルル》その4

カルッツ川崎のホールは、川崎から降りてバスでも行けるが歩くと1キロ強。天気がよければなんということもない。当日は急に暑くなったので

軽く熱中症になった感じでもあった。

この日の《ルル》の配役は(以下、敬称略)

ルル:宮地江奈
ゲシュヴィッツ伯爵令嬢:豊島ゆき
劇場の衣装係/ギムナジウムの学生:持田温子
医事顧問:峰 茂樹
画家:岸浪愛学
シェーン博士:黒田祐貴
アルヴァ:澤原行正
シゴルヒ:山下浩司
猛獣使い/力業師:菅原洋平
公爵/従僕:市川浩平
劇場支配人:倉本晋児
ソロダンサー:中村 蓉

あわせて、指揮はオスカー・ヨッケル、演出はカロリーネ・グルーバー、管弦楽は東京フィルハーモニー交響楽団。

ルルの宮地江奈は、小柄でキュートなルル。声の表情に幅があり、ルルの百変化とも言うべき場面、場面を見事に演じていた。これでアジリタの切れ味が加われば最高である。シェーンの黒田祐貴は、立ち居振る舞いにも落ち着いたところがあり、ブルジョワ社会(の一面)を体現する人物を歌いあげた。カロリーネ・グルーバーは、ルルの肖像画をマネキン作りへと置き換えており、舞台にはマネキン人形がいつも出ているし、映像でも出てくる。男たちが勝手に自分の幻想・幻影を投影する対象としてのルル=マネキン人形ということか。その上、モックでバレエダンサー(中村蓉)はいつので、ルルの独立性は二重、三重に分解されている。ゲシュビッツの豊島ゆきは、ルルと対象的な声、容姿で、二人のコントラストが効果を発揮していた。ヴェーデキント自身は、どこまで真に受けてよいかわからないが、ゲシュピッツこそが主人公だと述べているのである。

 指揮のヨッケルは、指示の明快な指揮ぶりで、東京フィルハーモニーは、のびのびと金管を炸裂させ、ベルクの管弦楽法の官能性、爆発力双方を堪能できた。
  劇場がオペラ・ファンに知られていないせいか後ろのほうには空席もかなりあってもったいないことであった。


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アルバン・ベルク《ルル》その3

ブルーレイで《ルル》を観たが、これはペトレンコの指揮、バイエルン国立歌劇場で、録音・録画ともに実に鮮明である。今調べると、前に紹介したグラインドボーンでシェ—ファーがルルのヴィデオにもブルーレイがあった。ぼくが買ったときには通常のDVDしかなかったのか事情は不明である。しかしこれから買う人にはぜひともブルーレイをお勧めする。通常のDVDとブルーレイでは画像も録音再生の音質も格段に違うからだ。

ペトレンコ指揮のほうの配役は

ルル マルリス・ペーターゼン
ゲシュヴィッツ伯爵令嬢 ダニエラ・ジントラム
シェーン博士/切り裂きジャック ボー・スコウフス
アルヴァ マティアス・クリンク
シゴルヒ パヴロ・フンカ
画家/黒人 ライナー・トロスト
劇場支配人 クリストフ・シュテフィンガー
猛獣使い/力業師 マルティン・ヴィンクラー
王子/従僕/侯爵 ヴォルフガング・アプリンガー=シュペルルハッケ
劇場の衣裳係/ギムナジウムの生徒/グルーム レイチェル・ウィルソン
医師/銀行家/教授 クリスティアン・リーガー
15歳の少女 エルザ・ブノワ
その母 コルネリア・ヴルコプフ
女流芸術家 ハイケ・グレツィンガー
新聞記者 ジョン・カーペンター
警視総監 ニコラス・ラインケ
従僕 レオナルト・ベルナート。

これはペトレンコの明快な指揮とバイエルンのオケの演奏能力の高さと録音の良さが如実に表れている。マルリス・ペーターゼンは、ルルとしてはやや年齢高めかもしれないが、劇が始まるとそんなことはほとんど気にならなくなる見事な演技。ドミトリ・チェルニャコフの演出では、舞台は透明の部屋・空間に区切られていて、画家が描くルルの肖像画も、その透明の板に白い輪郭線を描くのみで、まるで事故現場の被害者の輪郭のようである(意図的なのかもしれないが)。このルルは下着姿になる。シェーン博士やゲシュビッツ伯爵令嬢にあまり階級的な雰囲気が感じられない。より現代的な人物となっている。オーケストラのみの場面では、カップルが20組ほど出てきて、抱き合ったり、虐待したりしている。ルルと男たちをめぐる関係は、当時としてはありふれていたということを示唆しているのだろうか。

 2幕1場のあとの無声映画はない。

 しかしかなりの低音域までしっかり入っているので、再生環境がテレビのスピーカーではもったいないブルーレイである。

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アルバン・ベルク《ルル》その2

二期会は、5年前にも《ルル》を上演していて、その時に作られた作品紹介、解説のYoutube を今も観ることができる。

長いものは、長木誠司氏による作品解説と森岡実穂氏による演出解説(演出家カロリーネ・グルーバーへのインタビューが含まれている)があり、短目のものには、5年前に歌った歌手による宣伝ビデオという感じ。長木氏の解説により、2幕版と3幕版の出来た経緯と、それぞれの上演のされ方また流行などがわかる。

今回は、カルッツ川崎での公演は2時からだったのだが、1時半から公演監督高田正人氏による解説(15分程度)があった。

上演機会がまれなものほど、こういうものがあると役に立つ。今回は2幕版の上演なので、アルバン・ベルクが苦労して自ら作ったリブレットの全体は見通せないわけである。ベルクは、若い時に観たヴェーデキントの芝居『地霊』と『パンドラの箱』を合わせて、それを大幅にカットして3幕ものの台本を作成したのだが、2幕まで作ったところで死んでしまったのである。

 

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2026年4月 8日 (水)

アルバン・ベルクのオペラ《ルル》

ベルクのオペラ《ルル》を観にいくことにした。カルッツァ川崎というところで上演するのだが、

川崎駅からしばらく歩くかバスで、地図でみると、スタジアムや競輪場のある大きな公園のようなところに劇場もあるようだ(間に道路ははさんでいるが)。

なんだか《ルル》にはふさわしい場所のような気もする。

女性の主人公ルルは怪しい魅力をもった女性で、夫がショック死をしたり、自殺したり、事故死したりで3人も死んでしまう。彼女と遭遇した男はその魅力の虜になってしまうのだが、ルルの身元ははっきりしない。父親も母親もよくわからない。12歳のころに拾われたらしい。

ヴェーデキントの戯曲『地霊』と『パンドラの箱』が原作で、それをもとにベルク自身が大幅に縮め、かつ登場人物に手を加え、全体がシンメトリー構造になるように考えてリブレットを作った。

だが、ベルクは第二幕まで作曲して、第三幕はスケッチや部分的なピアノ譜を残して亡くなってしまった。そのため2幕版の上演と後にスケッチなどをもとにツェルハという別の作曲家が完成した第三幕をくっつけて3幕版として上演することがある。

予習で今のところ観たヴィデオは、1996年のグラインドボーンでの上演。ルルはクリスティーネ・シェーファー。スリムでスタイリッシュなルルである。指揮はアンドリュー・デイヴィスで、演出はグレアム・ヴィック。これは3幕版で、4:3で今のテレビでみると両脇が切れてしまうが、日本語字幕があり、演出もオーソドックスで話もよくわかる。

次に観たのが1962年の白黒もの。オーストリア初演がアン・デア・ヴィーン劇場であった時のライブ録画である。指揮はカール・ベーム。演出オットー・シェンクで、ルルはイヴリン・リア。このルルは体格がよく、背が高くて、脚が長い。立派なお身体なのだが、妖艶とか魔性の女という感じはそれほどでもない。ここで観るべきはベームの指揮だろう。カラー放送になってからの晩年のベームとは異なり、テンポは速めで、表情もきびきびしており、曲の構造をくっきりと描きだす指揮だ。冷静な楽曲分析と熱い情念が同居している。歌手たちは、皆、とても口跡がよく、お芝居として十分楽しめる(内容の暗さは別として)ものとなっている。

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2026年2月14日 (土)

アレッサンドロ・スカルラッティ没後300年記念ー演奏会と講演会 その4

おまけ:舞台裏を少し——通奏低音が「オールスター」だった件

私は幸運な事情にめぐまれて、本公演に先立つリハーサルを3日間見学することができたのだが、そこで面白かったのは、解釈が「指揮者の指示」で決まるだけではなく、アンサンブル内部で練り上げられていく現場だったこと。福島康晴が明確にリーダーシップを取りつつ、奏者からも意見や質問が出る。解釈が合意として立ち上がる速度が速い。

そして何より、通奏低音陣が豪華。チェロ、ヴィオローネ(コントラバス)に加え、オルガン、テオルボ、ハープ、チェンバロが揃う。ここから「今日は誰が出る?」を曲ごとに決めていく。
通奏低音は“音量の調整”ではなく、場面の性格づけ=味付けだと、あらためて実感した。スカルラッティが劇の人である以上、低音の選択はドラマの選択でもある。


 

まとめ:没後300年を「顕彰」で終わらせず、「現在形」にした二夜

この二日間が良かったのは、没後300年を「過去の偉人を讃える会」にせず、研究・教育・実演が行き来する“現在形”の企画にした点だと思う。オンライン講演で輪郭をつくり、当日のナレーションと字幕で抜粋上演の弱点を潰し、ピリオド楽器とバロック歌唱、そして譜面への細やかな配慮で作品を“生きた劇”として現前させる。

二日目が完売したという事実も含めて、スカルラッティは「ドメニコの父」では終わらない——ということが、説得力ある音楽体験として示された。
次は、記念年が終わってからが本番だ。上演が続くかどうか。私は続いてほしいと思う。これだけ面白く音楽が充実しているのだから。

クレジット

主催:日本イタリア古楽協会
助成:日本音楽学会「音楽関係学術イベント開催助成金」、野村財団、東京都歴史文化財団アーツカウンシル東京
後援:イタリア文化会館
(曲目・出演者の詳細は、パンフレット/当日資料に準拠)

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