2021年3月 8日 (月)

チマローザ作曲『悩める劇場支配人』

チマローザ作曲の『悩める劇場支配人』を観た(新国立劇場、中劇場)。

新国立劇場オペラ研修所の修了公演である。日本初演とのこと。会場では、まず氏名、連絡先、座席を書いたカードを提出させられるー無論、新型コロナ対策である。中劇場の入り口で体温検査(非接触型)をし、切符の半券は自分で切る。ロビーでの飲食は禁止。開演前にも、ブラボーなどの応援はやめるようにとのアナウンスがはいり、思わず苦笑。これらの対策、やむを得ないことばかりと認識しつつ、久しぶりの劇場だっただけに、何気なく行っていた劇場に入るときの習わしの変化に感慨をおぼえた。

 プログラムで永井和子研修所長も指摘しておられるように、このオペラ、いろいろなヴァージョンがある。You tube や Spotify で予習してみたのだが、違う上演、違うCDを聴くと、このアリア前のCDには無かったな、とか、あれ、こんな序曲だったっけ、という具合になる。チマローザのこのオペラは大変ヒットして、ナポリで初演された後、次々にイタリア各地、ヨーロッパ各地で上演されたのだが、上演されるたびにアリアが加わったり、さらにはウィーン上演の際には、初演で一幕仕立てだったものが二幕ものに変貌をとげているのだ。

 同じくプログラムで本屋麻子氏が、チマローザに関しては山田高誌の論文があることを紹介している。山田氏は、チマローザ作品の批評校訂版(クリティカル・エディション)の委員会のメンバーであり、『悩める劇場支配人』の批評校訂版の序には、山田氏によってナポリにはレチタティーヴォ専門の作曲家がいたことが明らかになったと記されている。

 今回の上演は見事なものであった。日本のオケが縦の線がピシっと揃うことにあらためて感心し、弦の音程もしっかりしているので和音が美しく響く。そうすると、チマローザがモーツァルトと同時代人であったことが想起され、納得がいくのである。ちなみにこの作品は1786年ナポリで初演された。1786年といえば、モーツァルトは『劇場支配人』、『フィガロの結婚』を初演した年である。

 チマローザとモーツァルトを比較すると、チマローザの方が音が密でない。シンプルでこちらに慣れてくると、モーツァルトは音が多いと感じた当時の人の気持ちもわからないではない。

 物語は、3人の女性歌手がわれこそはプリマドンナと主張するのに劇場支配人が翻弄され、作曲家は、一人の(フィオルディスピーナ)とは元彼、元カノの関係で、もう一人の歌手メルリーナと恋仲である、といった具合。劇場支配人クリソーボロは、上演にこぎつけるためにはと、どの歌手にも口当たりのよい返事しかしないが、金回りは危機に瀕しているようだ。といった具合の、楽屋落ちというかメタシアターというか、オペラをめぐるオペラである。もちろん、これも1つのジャンルで、ヴィヴァルディと同時代人のベネデット・マルチェッロの『当世流行劇場』以来、モーツァルトの『劇場支配人』のちにはドニゼッティの『劇場の都合不都合』などがある。

 こうしたブッファなオペラ、ファルサであることは一目瞭然なのだが、今回の上演ではどちらかと言えば、品よくアンサンブルをまとめあげる方向に注力がされていて、ドタバタ的にもりあがるところで、多少アンサンブルが崩れてももっとテンポをあげてという方向には踏み込まず安全運転であった。もちろん、テンポがやや遅めでも、ブッフォな味わいを聴かせているところもあり、おおいに楽しめた。

 一人だけあげれば、作曲家ジェリンドを演じたテノール増田貴寛の歌唱と演技には、ユーモラスな味と歌いまわしのセンスを感じた。他の歌手も練習行き届いているとおぼしく、4重唱、5重唱のところもアンサンブルが乱れることなく充実した音楽を堪能できた。女性陣のドレス姿はエレガントで麗しかったが、プログラムでお顔を再認識するのがやさしくない。つまり、女性の方が一般的にいえばしっかりメイクをするので(誤解はないと思うが、それがよろしくないなどというつもりは毛頭ありません)出来ればプログラムかネット上の上演紹介のページで舞台姿をアップしていただけるとありがたいと思う。今回に限ったことではないのだが、あの歌手良かったと思って、お名前を確認しようとして戸惑うことがあるのです。役柄が書いてあるのだが、役柄自体、初演やこちらが見慣れないものだと覚えにくい。あの丸々色のドレスを着ていた人の歌唱が良かったと思ってもプログラムを見るとどの方だったか、たぶんこの人だと思うけど間違っていたら失礼だし。。。ということもある。読者諸賢はそのような経験はないだろうか。記憶力の乏しい者からのささやかなお願いです。

 

 

 

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2021年3月 1日 (月)

映画『クリスチナ女王』

往年の映画『クリスチナ女王』を観た。グレタ・ガルボ主演で監督はルーベン・マムーリアン。1934年公開の白黒映画である。歴史上のクリスチナ女王は、プロテスタントからカトリックに改宗するために王位を捨てざるをえず、その後はローマで文化的なサロンを営み、そこにはアレッサンドロ・スカルラッティも出入りをしていたし、彼女のサロンが後のアルカディア会のもととなったことでも知られている。

彼女の改宗のきっかけは、クリスチナ本人によれば哲学を教えにきたデカルトとの対話であった。デカルトは、スウェーデンの寒さにやられて死んでしまう。

しかし、この映画では、クリスチナ女王の改宗は、スペインの特使との恋愛が原因ということになっている。そのことに気がついた筆者は、スペイン大使は、カトリック教会のアレゴリーなのだなあと(無理矢理)思い込んで見ていた。スペイン特使とクリスチナ女王の出会いでは、クリスチナ女王が男装し、かつ女王の身分を隠している。退位をめぐる事情は、史実と映画ではまったく異なるし、デカルト(一度だけ言及される)やイエズス会士も画面にはまったく登場しない。しかし、先述のような無理矢理の思い込みを持ってみると退位の場面は、それなりに感動的でなくもない、のだった。

ま、通常はこんな無理矢理の思い込みを持って見ないだろうから、へんてこりんなロマンスだし、それがこんな大袈裟な結末を引き起こすのか?という違和感を感じる人もいるのかもしれない。

歴史上のクリスチナもしばしば男装していたと言われ、ヨーロッパの移動も疲れ知らずの強行軍が多い。そういう凜々しい女性のイメージとしてはグレタ・ガルボはぴったりという気もするのだった。

 

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2021年2月22日 (月)

『どこか、安心できる場所でー新しいイタリアの文学』

イタリア短編小説集『どこか、安心できる場所で』(関口英子、橋本勝雄、アンドレア・ラオス編)を読んだ。大変、面白かった。

未読の作家ばかりだったのだが、それもそのはず、編者の方針で2000年以降に発表され、実力はあるが、日本に紹介されていない作家を集めたのだ。男女もほぼ半々で、バックグラウンドも、例えば両親がソマリア出身だったり、ドイツ生まれで両親はポーランド系ユダヤ人だったり、ナタリア・ギンズブルクの孫であったり、シチリア生まれで現在はロンドンに在住だったりと、多様性に富んでいる。長さも10ページほどのものから40ページくらいのものまで、いろいろ。

両親が破綻寸前である男の子が夏キャンプ場に行って、管理人に父の代わりを求めるのだが。。。と言った物語もあれば、元麻薬中毒で、姉にも見捨てられた女性に突然訪れる高齢の男が。。。という物語もあるし、ファトゥとヴァレリオというミックス(異人種)カップルをめぐる物語もある。

読み進めるにつれて、ああ、これはイタリア映画祭の経験に似ていると思った。5月の連休に催される映画祭も、新作紹介で一人一作で次々に違う監督の映画を見ていく。しかも日本では有名な監督のものは比較的少なく、新しい監督との出会いがある。1作1作は、まったく別々のテーマを扱っているのだが、毎年10数本観ていると、なんとなくただ今現在のイタリアを生きるイタリアの人々の息づかいが感じられる。

こういう短編集も、出来れば毎年、あるいは1年おきか2年おきに出し続けてはもらえないものだろうか。

作家も13人紹介されているが、訳者も6人いて、なかなか贅沢な味わいの本である。

 

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2021年2月 8日 (月)

鹿島茂著『太陽王ルイ14世ーヴェルサイユの発明者』

鹿島茂著『太陽王ルイ14世ーヴェルサイユの発明者』(角川書店)を読んだ。

鹿島氏の本らしく、ルイ14世をめぐる女性関係への目配りはぬかりない。寵愛を受けることになった女性が、どういう経緯でルイに巡りあい愛されるに至ったか。愛妾の中には看守の娘から成り上がった女性もいる。ルイ14世の父も、ルイの弟もゲイであったことも明かされる。

こういった男女および同性の愛憎関係だけでなく、フロンドの乱の叙述の際には、法服貴族というものが帯剣貴族とどう異なるかが、西洋史への知識がなくてもよく分かるように説明される。つまり法服貴族は、官位を金で買うのは当たり前で、後には王がそれを制度化した。ポーレット法と呼ばれる官職売買の法律が1604年に出来ているのだ。だからルイが即位した当時の官僚というのは、言葉は同じでも今日の官僚制度というのはまったく異なっており、いわば相撲部屋の親方のようなものだったと鹿島氏は述べている。「株仲間」の一種で、だからその官職は息子やあるいは持参金として婿に引き継がされることが出来たのである。

 ルイ13世が死んでルイ14世(ちなみに生きている間はルイ・ドゥ・フランスとか呼ばれないことも、システマティックな説明がある)は幼子であり、13世の王妃とマザランが政治的実権を握り改革をしようとしたところから、法服貴族の既得権益を大きく削ることになるのでフロンドの乱が起こった。フロンドの乱が起こってからの人間模様は詳細に描かれる。フロンドの乱だけで数十ページがさかれている。が、読み進めると、鹿島氏が主張するように、この何年にも渡る乱の際に命の危険にさらされる経験をしたことと、ルイが親政開始と時を同じくしてヴェルサイユ宮殿建設に着手することには深い関係があることが理解できる。

 また、フランスの中で北部は均等相続で南部は長子相続(貴族であっても次男、三男は、司祭になったり、軍人になって職を得る必要がある)といったことと、そういう貴族の次男、三男をどう政治体制に組み込んでいったかも明らかにされる。

 非常に生々しい人間関係(重用されていた重臣が、ふとしたきっかけで失脚する、あるいは寵妃が愛を失う)から、政治、外交、ヴェルサイユ宮殿建設の長いプロセスまでが、口語的な語り口で書かれている。宮殿をいくつ見ても宮廷生活というものはなかなかイメージできなかったが、この本を読んでおぼろげながらではあるが、以前と比べればずっと具体的にイメージできるようになった。フランスでも、ルイ14世の長い治世の間に宮廷は大きく変わるのであるから、他の国、他の時代はまた異なっていたであろうことは推して知るべしではあるのだが。ともかく、1つの基準点が出来たことに感謝。

 412ページの本なので、上に紹介したのはほんの一部であり、リュリやヴェルサイユ宮殿お披露目の時の祝宴・余興も詳しく描かれているし、何よりヴェルサイユ宮殿庭園の噴水をはじめとして宮殿の装飾、部屋の名前をはじめとしてすべて(究極的には王をたたえる)寓意を持っていることも詳しく紹介されている。平明な書き方で、かつ、実に楽しく面白かった。ピューリタンな道徳観をお持ちの方には、けしからん人物ばかり出てくるのでおすすめ出来ませんが。

 

 

 

 

 

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2021年2月 7日 (日)

佐藤亮著『北アイルランドを目撃する』

佐藤亮著『北アイルランドを目撃する』(水声社、3000円)を読んだ。

北アイルランドの町には、ミューラルという家の外壁全面を使って描かれた壁画をみかける。そしてその絵は、芸術的というよりは、政治的な内容・主張を含んだものであることがほとんどと言ってよいだろう。私もベルファーストに行って一週間ほど過ごしたおりに、住んでいる地区がここはカトリック地区、ここはプロテスタント地区と分かれており、地区によってユニオンジャックが運動会かお祭りの時のように通りの上をたすき掛けに沢山はためいているか、そうでないかがはっきりしているのを見て驚いたことがあるし、地区によって描かれているミューラルの内容はまったく党派的に峻別されていた。北アイルランドは、領土的にはイギリスなのだが、アイルランド共和国と地続きであり、カトリック系の住民(4割以上いる)は、自分がイギリス人であるよりは、アイルランド人であると考えている人も少なくない。

 この地の入りくんだ宗教的、民族的、政治的な状況には、もちろん歴史的背景がある。著者は、ミューラルの内容をおおまかに歴史順にたどって、オレンジ公ウィリアム(オラニエ公ウィレム)やルイ14世から、ジャコバイト、クロムウェルといったところから20世紀、21世紀に到るまでをたどっているが、本の構成が面白い。左右見開きで1つのまとまりで、右はミューラルのカラー写真で左がその解説となっている。だから1つ1つの項目はコンパクトなのだが、写真を見ながら読み進めると飽きない。

 著者は、英文学者なので、20世紀の所では、シェイマス・ヒーニーの詩を引用して、そこにどういう紛争の背景があるのか、またその状況が今はどう変わりつつあるかを、噛んで含めるように説明してくれる。英語のフレーズを具体的に引用して、英和辞典を引いてもわからない意味合いを解き明かしてくれる。

 ミューラルが消されて白壁になり、次の絵が描かれるまでの間を during  というなどとは、ミューラルおよび北アイルランドとの付き合いの深い著者ならではの解説か。ここには21世紀にミューラルの内容・主題がどう変わりつつあるかもしっかり報告されている。

 ヨーロッパを読み解くには、何と言っても宗教・宗派およびその対立や宥和の歴史を知ることが肝要だと管理人は痛感しているが、北アイルランドの現在および歴史にはそういった要素が凝縮していると思う。そしてそういった風土から、なぜか優れた詩人を輩出している。

 

 

 

 

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2021年1月 5日 (火)

《ポーランド王ジスモンド》その4

《Gismondo re di Polonia (ポーランド王ジスモンド)》の演奏は、You tube のものも、バイロイト・バロック・オペラ・フェスティヴァルでの演奏も、CDでの演奏も、コンサートマスターとオケ、主要登場人物を歌う歌手が共通しているので、基本的には音楽的な色づけは同じである。

コンサート形式の上演では、CDと比較すると、(以前の項目でも記述した通り)登場人物が減っている(当然その人物のアリアはカット)場合がある。

ということを断った上で、バイロイトでの演奏は(も)、指揮、オケ、歌手の方向性があっており(それは必ずしも、縦の線がピシッとそろっていることを意味しない)、互いにどういう音楽をやろうとしているかを理解しつつ、オケの一人一人も自発性を備えつつ歌手をサポートしている。リズムも叙情的なところと、勢いよく攻めるところのコントラストなど申し分ない。バロックのすぐれたオケを聞くと、10数人でもこれほどダイナミズムもあるし、音色の変化もあるし、アタック音の差異も聞き取れるし、実に充実した音楽経験ができるものだと思う。

歌手もクネゴンダのユンカー、オットーネのミネンコのアリア、二重唱など叙情的で豊かな感情表現(といって形式美が崩れるほどの溺れることはない)があり、チェンチッチのジスモンドの叙情表現と足並みが揃っている。戦いの場面などもあり、政治の駆け引きもあるオペラなので、叙情的な場面と怒りや娘への服従を求める場面の歌い方の違いも実に的確に表情分けがなされており、ヴィンチも作曲家としてそういった描き分けに腕をふるっている。

このヴィンチの《ジスモンド》とポルポラの《カルロ》を聞き比べてみるのも一興かと思うし、おそらくツェンチッチはそういう考えを持ってプログラムを構成しているのだろう。一言で言えば、18世紀前半のオペラ史でナポリ派がいかに重要かということなのだが、それはどんな音楽史にも書かれていながら、近年になるまで、実演で体験的に実感することが困難なテーゼであった。そういう意味で2020年は多くのオペラ・ファンにとってささやかで大きな一歩をオペラ経験史に刻む一年であったのではないだろうか。経験は、実演に勝るものはないであろうが、繰り返し観たり聞いたりできると言う点で、一定のオーディオ条件が整えば、You tube  やCDによる経験もそれに劣らず身体的に刻み込まれる経験となるものだ。実演では、同じ上演を観るのも3、4回がいいところだろうが、CDやDVD、Youtube などでは、聞き流しも含め10回でも20回でも30回でも聞くことが出来るのだから。

 

 

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ヴィンチのオペラ《ポーランド王ジスモンド》その3

ヴィンチはなぜ18年前にヴェネツィアで上演されたオペラのリブレットを再利用することにしたのだろうか?

ヴィンチが上演するのは、ローマの Teatro delle Dame という劇場である。わざわざヴェネツィアで18年前に上演されたオペラのリブレットを再利用した理由として考えられるのは、ボリス・ケアマンによれば 1.ヴィンチが変わったことをして観衆を驚かせるのが好きだったこと 2.1年前にナポリで上演した《エルネリンダ》でノルウェーを取り上げたこと。つまり、神々や古代地中海世界だけでなく、ヨーロッパのアルプスの向こうを取り上げて新たな主題を開拓したこと。3.しかし何と言っても大きいのは、この作品のリブレットに大書されている献辞から明らかなように、この作品は James 3世(イタリア語ではGiacomo III) に献呈されていることと関連している。James 3世というのは、イギリスの名誉革命で追放された James 2世の子供で、イギリス王James 3世であることを主張し、その主張は、フランスやスペインやローマ教皇などヨーロッパの主要国から認められていた。当時のイギリスにはハノーヴァ王朝のジョージ1世がドイツから迎えられ、ついでジョージ2世がその後を継いだわけである。

さらには、James 3世の妻は、ポーランド王の孫娘だった。というわけで、このオペラを見る人々には、前項で記述したあらすじの登場人物が現実の人物と重ね合わせて見える仕組みになっている。すなわち、王ジスモンドがJames 3世で、反抗的なプリミスラオがハノーヴァ(ハノーファ)家である。

18世紀前半のオペラでは、初演時に誰にリブレットが献呈されたか、どういう政治情勢の中で産出されたかも、重要な要素の1つであると筆者は考えている。

 

 

 

 

 

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2021年1月 4日 (月)

ヴィンチのオペラ《ポーランド王ジスモンド》その2

バイロイト・バロック・オペラ・フェスティヴァルでコンサート形式で上演されたオペラ《ポーランド王ジスモンド》の続きである。

では作品のあらすじから。

登場人物はポーランド王ジスモンド(シジスモンド・アウグスト2世)、リトアニア公プリミスラオ。二人の王子がジスモンドと同盟を結んでいるが、リヴォニアの王子エルネストとモラヴィアの王子エルマーノである。どちらもジスモンドの娘ジュディッタに恋しているが、ジュディッタはプリミスラオに恋している。中心となるラブストーリーは、プリミスラオの娘クネゴンダとジスモンドの息子オットーネの恋。

第一幕 (以下の場は、解説上で区切りをつけているもので、リブレットの場とは一致しません)

第一場:ポーランド王ジスモンドは部下とともにワルシャワに入場し同盟を結んだ諸公からの忠誠の誓いを受けることを求める。ジスモンドは、息子とプリミスラオの娘クネゴンダが結婚しリトアニアとの同盟関係が強化されることに満足している。しかし、ジスモンドの娘ジュディッタは、モラヴィアとリトアニアのライヴァル関係を刺激する。

第二場:娘クネゴンダの忠告に反し、プリミスラオは、ルブリン合同の時の忠誠の誓いを撤回する。彼は、それにより自分の地位を失うことをおそれジスモンドへの忠誠の誓いを拒む。オットーネとクネゴンダは、王の使者であるエルネストにプリミスラオを説得するように頼むが成功しない。二人が永遠の愛を誓ったあと、自分たちでもそれを試みる。クネゴンダは、オットーネが退場したあと、娘としての義務と恋人への愛の間で悩む。

第三場:クネゴンダとオットーネはプリミスラオの説得に成功する。プリミスラオは忠誠の誓いをしてもよいと言う。ジュディッタは、兄のオットーネに、自分はワルシャワの仮面舞踏会でプリミスラオに恋をしたと告白する。二人とも、和平がなれば自分の愛の望みがかなうだろうと希望を抱いている。

第二幕

第一場:プリミスラオはジスモンドの前で、忠誠の誓いを立てようとしている。そのとき、王の天幕が崩壊し、ひざまずくプリミスラオの姿が周囲の軍勢の目にさらされる。プリミスラオはジスモンドが奸計を図ったと非難する。怒ったクネゴンダもオットーネに別れを告げる。再び戦争が勃発する。

第二場:ジュディッタは父への恐怖とプリミスラオへの愛に引き裂かれている。彼女は、彼女を恋する二人の公エルネストとエルマーノににせの希望を抱かせ、戦争においては彼女の父ジスモンドを助け、その一方でクネゴンダとプリミスラオを殺さぬように懇願する。ジスモンドは、息子オットーネにクネゴンダのことは忘れ、戦場で名誉をかけて戦うよう命じる。オットーネはクネゴンダと戦うことは全く望んでいない。

第三場:武器庫でプリミスラオは娘を自分の意思に従わせようとする。代々のポーランド王の銅像の前で誓い、オットーネと戦うことを誓い戦いにおもむく。オットーネが現れ、クネゴンダに殺してくれという。しかしクネゴンダは、オットーネに戦場で戦わせ、オットーネは名誉を獲得し、息子としての義務を果たした。

第三幕

第一場:プリミスラオは兵士に熱弁をふるう。

    戦闘でポーランドが勝利をおさめる。

    冑をかぶり男装したクネゴンダは、激しくオットーネに抵抗するが、オットーネは途中で彼女だと気づき、救う。プリミスラオが死んだという噂が流れる。クネゴンダはオットーネに悪口雑言をあびせる。ジュディッタは愛するプリミスラオが負傷しているのを発見する。彼女が助けを求めてる間に、エルマーノがきて兄弟の敵をとるためプリミスラオを殺そうとする。二人は、それぞれに、神の正義の裁きのゆえと認識し、その結果を受け止めようと思う。

第二場:ジスモンドは勝利を祝う。捕虜と戦利品が見せびらかされる。エルネストは王に娘ジュディッタと結婚したいと申し出る。ジスモンドはクネゴンダに息子オットーネと結婚するようにと言う。ジュディッタはプリミスラオへの愛のゆえに良心の呵責にさいなまれる。

第三場:ジスモンドは軍隊に感謝する。父プリミスラオを殺したとされるオットーネに対するクネゴンダの憎しみはおさまらない。プリミスラオが現れクネゴンダの手をオットーネの手に置く。エルマーノからの手紙で、ジスモンドは、天幕の崩壊はエルマーノの仕業で、復讐してプリミスラオに恥をかかせようとしたのだと知った。エルマーノは過ちをみとめ、自決する。ジュディッタはプリミスラオへの愛を認める。ジスモンドは改心したプリミスラオと娘ジュディッタ、息子オットーネとクネゴンダを結婚させる。エルネストは、私情より公益を優先させ、結婚を認める。

 

 

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ヴィンチのオペラ《ポーランド王ジスモンド》その1

新しい年となりました。今年もよろしくお願い申し上げます。昨年度は、いろいろな不自由を味わった1年でしたが、今年はそれが少しでも解消される方向に進むことを願っております。

さて、バイロイト・バロック・オペラ・フェスティヴァルの続きである。

フェスティヴァルの一番の目玉は、ポルポラのオペラ《Carlo il calvo》であることは明白で、フェスティヴァルの関連サイトでテーマ音楽のようにかかるのはポルポラの音楽であった。このフェスティヴァルではもう1つオペラ全曲をコンサート形式で上演した。

それがレオナルド・ヴィンチ(言うまでもなく画家ダ・ヴィンチではなく、画家より230年ほどあとに南イタリアで生まれた作曲家です)のオペラ《ポーランド王ジスモンド》である。こちらは、ツェンチッチおよびパルナッサス・プロダクションによりCD録音とヨーロッパ各地でのコンサート上演がなされており、満を持してバイロイト・バロック・オペラ・フェスティヴァルに持ってこられた演目と言えよう。

一時は、facebook あるいは別のサイトで観ることが出来たのだが、現在は視聴が出来ない。フェスティヴァルとは別のところでコンサートをした時のものが Youtube にあがっている(それはほぼ全曲といってよいのだが、終わりの10分程度が切れているー版権の関係なのだろうか、単純なミスなのだろうか)。

もちろんCDはParnassus から出ていて、ヨーロッパのレコード賞にノミネートされたりしている。Leonardo Vinci 作曲 Gismondo re di Polonia  3cd 9120104870017  である。

キャストは、フェスティヴァルのものと、CD録音の時のものと、Youtube にあるヨーロッパのどこかでのコンサート形式の録画のものとは非常によく似ている。というか主要登場人物は同じである。ツェンチッチがタイトルロールのジスモンド。ユーリ・ミネンコがオットーネ。ゾフィー・ユンケルがクネゴンダ。アレクサンドラ・クバスークルクがプリミスラオ。ジェイク・アルディッティがエルネスト。ここまではCD録音と同じ。異なるのはHasnaa Bennaniがジュディッタ(フェスティヴァル)かDilyara Idriska がジュディッタ(CD)。CDにのみニコラス・タマーニョのエルマーノがいる。ここから判るように、コロナで演奏時間短縮することが求められたのか、出場予定の歌手に何らかの移動制限がかかって出場できなくなったのかは不明だが、フェスティヴァルにはエルマーノの役がなく、少しばかり短縮版となっている。

オーケストラは古楽器・ピリオド楽器を用いた {oh!}Orkiestra Hostoryczna という難しい名前の10数人のグループでこれを率いるコンサートマスター(コンサートミストレス)兼音楽監督がMartyna Pastuszka で非常に生き生きとした演奏をしているし、個々のメンバーのノリのよい様子がYoutube からも見て取れるだろう。やっつけ仕事ではなく、ヴィンチの音楽が一人一人のメンバーに入っていて、個々人が積極的に関与している感じが素晴らしい。こういう気配は、大人数のオーケストラよりも、少人数のグループの方が聞き手としては看取しやすいし、彼らの歌手との掛け合いや楽器同士のメロディーの受け渡しなどが見て、聞いて楽しい。

フェスティヴァルのプログラムとCDのライナーノーツの筆者は同一(ボリス・ケアマン)であり、同一内容である。かいつまんだ内容を以下に記す。

《ポーランド王ジスモンド》は1727年ローマで書かれたのだが、リブレットは約20年前にヴェネツィアでフランチェスコ・ブリアーニが作曲家アントニオ・ロッティのために書いたものの焼き直しである。ブリアーニとロッティによるオペラは1709年にデンマークのフリードリヒ4世が当時ヴェネツィアを代表する歌劇場であるサン・ジョヴァンニ・グリゾストモ劇場への来訪を記念して上演されたものだ。この劇場では翌1710年にヘンデルのオペラ《アグリッピーナ》が上演されているし、4人は同一メンバーだった。

1708/09年のフリードリヒ4世の来訪は社会的なセンセーションを巻き起こした。彼は70人以上の臣下を連れており、劇場や歌劇場に行き、ムラーノではガラス製品を注文し、大運河でレガッタを観覧した。その様子は絵画にも描かれ、ブリアーニはリブレットの献辞で、37歳の君主を平和と軍事行動の双方を愛する理想的君主とたたえている。そのリブレットのタイトルは《寛容な勝者(Il vincitor generoso)》でその含意するところはフリードリヒ4世であったし、それはデンマーク宮廷へのブリアーニの就職活動でもあった。

ヴィンチはこのリブレットを、アリアは別として、その他の部分はそのまま用いており、そのことはこのオペラを考える際のベースとなるだろう。

以下、その2へ。

 

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2020年12月31日 (木)

ツェンチッチとバイロイト音楽祭

マックス・エマヌエル・ツェンチッチはバイロイト音楽祭の総監督であるが、彼自身がインタビュー(音楽祭のプログラムに掲載されている)の中で、総監督になるまでのいきさつを説明しているので、大意を紹介する。

MEC(ツェンチッチの頭文字):わたしは20年間バロック音楽に関わってきたし、ここ10年はバロック・オペラのプロダクションに関わってきました。オペラ・セリアや知られざるオペラが定期的に再発見され、舞台で新たに日の目を見るような場所がずっとわたしの夢でした。わたしのプロダクション・カンパニーであるパルナッサス・アーツ・プロダクションはこの間、バロック・オペラをCDやDVDに録音・録画したり、コンサート形式や舞台で上演するのに大変成功してきました。だから私は、地元のパートナーのクレメンス・ルーカス博士とバイロイト市当局と合意に到り、市が辺境伯劇場が特別な劇場で、こうしたプログラムにふさわしいことを認識しているのにとても満足しています。これはまさに僥倖でした。わたしのやっていることに意義を与えてくれます。わたしがバイロイトでプロデュースするすべてのオペラには深い意味が与えられると思います。それらはバイロイト市のため、バイロイト市民のため、音楽祭を訪れるドイツや世界中の人々のために上演され、歌劇場に革新的なプログラムで新たな命を吹き込むのです。ここで観衆は世界のほかのどこでも味わうことのできないオペラを経験するのです。

 

以上がインタビューの一部分の大意だが、ツェンチッチやゲオルク・ラング(パルナッサスの社長)なくしては、バイロイト・バロック音楽祭がこのような成功をおさめることはなかったろう。バロック・オペラの中でもヘンデルはすでに各国で日が当たっている。日本でもようやく日があたりかけていると言ってよいだろう。ナポリ派の中で大物なのに上演数が少なかったポルポラ。その作品を、じっくりと作りこんだ演出とスター歌手および実力のある若手をそろえて驚異的にレベルの高い演奏で、こちらは唖然とさせられ、感嘆させられ、ポルポラの真価を初めて知った(これまでにもすぐれたアリア集のCDは複数あったのだが、やはりアリア集と全曲というのは次元が異なる)。コロナ禍における音楽史上の快挙、演奏史上の事件と言えるのではないだろうか。

付け加えておけば、バイロイト・バロック・オペラ音楽祭では、このポルポラの上演に、さらにヴィンチのオペラ《ポーランド王ジスモンド》の演奏会形式の上演があり、他にロミーナ・バッソやジョイス・ディドナート、ヴィヴィカ・ジュノーらのリサイタルがあり、全体のプログラムとして大いに充実したものであった。

 

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2020年12月27日 (日)

ポルポラ作曲《Carlo il calvo》第三幕

ポルポラ作曲オペラ《Carlo il calvo》の第三幕のあらすじ。

第一場:エドゥイージェはベラルドの労をねぎらい、アダルジーゾに同情する。ベラルドはエドゥイージェに同情しすぎないよう警告する。エドゥイージェは彼をなだめる(アリア:Quello che sente il core).

第二場:ベラルドとアスプランドが会い、ベラルドはアスプランドを裏切り者だと非難し、アスプランドはベラルドこそ姦淫者だと非難する。馬上槍試合で決着をつけようとする(アリア:Su la fatale Arena) ベラルドの高揚した気分を表すアリア。

第三場:アスプランドは恐怖を感じるが勇気をふりしぼる(レチタティーヴォ・アコンパニャートとアリア:Plena di sdegno in fronte)

第四場:ジルディッペは、アダルジーゾがカルロをロタリオの元から連れ戻さなかったといって非難する。アダルジーゾはジルディッペの捕虜となる。彼女の心は、アダルジーゾへの愛と母への従属の間で引き裂かれる。アダルジーゾは決意をうながす(二重唱:Dimmi, che m'ami)

別世界につれていかれる愛の二重唱。ファジョーリとレジネバでなければ不可能であったろうゆっくりとしたテンポでありながら、少しもだれることのない甘美な世界。演出では、アダルジーゾとジルディッペが床の上で抱き合う。

第五場:ジュディッタが息子を奪われたことを嘆く。アダルジーゾは壁紙を張ったドアに隠れている。演出では、アダルジーゾは椅子にすわり、後ろ手にくくられているフリをしている。

第六場:ロタリオは戦いで追いつめられる。彼はカルロをジュディッタのところへ連れていき、彼女一人に罪の告白をしたいと言う。ジュディッタは衛兵にさがらせる。ロタリオはドアを閉めると彼女を脅す。彼女がカルロは庶子であるという告白書をでっちあげるか、さもなくばロタリオがカルロを刺し殺すという。ロタリオが剣をカルロの喉元に突きつけるとアダルジーゾが隠れたところから飛び出し、父の手からカルロを奪い、ドアをあけて衛兵を入れる。アダルジーゾの叱責でロタリオは正気に返り、ジュディッタに許しを乞う(アリア: So, che tiranno io sono)。演出では、ロタリオの妻が乱入し、アスプランドを撃ち殺す。ロタリオは悲しみにくれる。そのショックで自分の非を認めるようになり、アリアを歌う。

第七場:ジュディッタはアダルジーゾに感謝し、ジルディッペとの結婚を認め、将来の神聖ローマ皇帝として敬意を表する。カルロにアダルジーゾの行為を忘れぬよう説く(アリア:Questo chi miri)。8分の3。演出では、ジュディッタが歌う間、カルロの身体的不自由を表象していた装具がアダルジーゾにより取り外され、カルロは自由に動けるようになる。

第八場:アダルジーゾは、この災厄の後に、ジルディッペとともに平和な未来を期待できることを喜ぶ(アリア:Con placido contento)。ジュディッタ、ジルディッペ、エドゥイージェ、その他が集まり祝福的場面となる。その後、ジルディッペがカバン・アリア(ポルポラのオペラ《Siface》のアリア’Come nave in mezzo all'onde') を歌う。このアリアをここに挿入したのは天才的アイデアだと思う。このアリア自体は、もともとは、金管楽器が活躍する勇壮な英雄的アリアであるのだが、それをここではダンサブルな表情を加え、舞台上の人物は皆、踊り出し、ジルディッペ(レジネバ)も踊りながら歌う。このオペラ全体を締めくくる祝祭的な気分が音楽の中から満ちあふれ、湧き上がる喜びのひとときで、レジネバの歌唱は完璧で、かつ、ペトルーの指揮、オーケストラのサポートも非の打ち所がない。こんな風にカバン・アリアでクライマックスを持ってきて違和感がないどころか、音楽的表情を変えることによってこのオペラ自体の魅力を一層増すことに貢献しているのだ。しかしこんな天才的な荒技は、歌手、指揮者、オケの音楽性、技術が高度なレベルでそろっていてなおかつ綿密な練習のたまものであろう。楽しげにやすやすと歌っているように聞こえるアリアだが、別次元に達した奏者の境地と言えよう。曲のつなぎ、パッサッジョの部分すら音楽の喜びに満ちた豊かなものとなっている。ポルポラが大作曲家であったことがダメ押しのようにわかる一曲。このあとは登場人物一同がテーブルについて合唱でことほぎ終わるはずなのだが、ロタリオが妻に毒殺されて倒れて幕となる。

以上が《Carlo il calvo》の第三幕のあらすじで、めでたしめでたしとなる。

 

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2020年12月26日 (土)

ポルポラ作曲《Carlo il calvo》第二幕

ポルポラ作曲のオペラ《Carlo il calvo》第二幕のあらすじ。

第一幕と同様にアリアの後に、アリアの性格とバイロイトの上演でどんな場面になっているかの註を加える。

第一場:ジルディッペは母の命令にしたがいアダルジーゾと別れようとするが、くじける(アリア:Se veder potessi). 長いレチタティーヴォの会話の後のジルディッペ(レジネバ)の歌。4分の4.高度に技巧的。

第二場:ロタリオと息子アダルジーゾは王位継承について口論する(アリア:Taci, oh Dio!) アダルジーゾ(ファジョーリ)が父親ロタリオ(ツェンチッチ)の考えに同意できないと主張する歌。

第三場:息子アダルジーゾの非難はロタリオを狼狽させる。アスプランドはロタリオに気を強く持つよう言い、ロタリオはそうすることを誓う(アリア:Quando s'oscura). 8分の12.独特の波打つリズムの中、ゆったりとしたテンポでロタリオが歌う嘆きの歌。演出として、ロタリオがアスプランドと抱き合い、それをロタリオの妻が目撃しショックを受ける。ダ・カーポ・アリアだが、ABA' のAとBの曲想の差が小さい。

第四場:アスプランドは偽りの態度をとり続け、ジュディッタにロタリオの軍が宮殿を襲うと告げ、彼女をパニックに陥らせ、カルロを安全なところへ連れて行くことを申し出る(アリア:Temer della sorte).

第五場:ジュディッタは、正体を見破られないようにカルロを羊飼いに変装させ、アスプランドにゆだねる。

第六場:プログラムに記載なし

第七場:エドゥイージェとベラルドは、アスプランドがカルロをロタリオに渡したと報告する。ジュディッタはアスプランドを呪う(アリア:Tu m'ingannasti). このアリアが今回の上演では第二幕の最後の退場アリアになっている。激しい曲。

第八場:ジルディッペとエドゥイージェはベラルドにカルロを解放するよう求める。ベラルドは戦いにおもむく(アリア:Per voi sul campo).

8分の3.ベラルドの勇ましい歌だが、演出ではエドゥイージェやジルディッペとお茶を飲んでいる。

第九場:エドゥイージェはジルディッペに、ベラルドに恋していると認める。ジルディッペは彼女の恋心をうちあける(アリア・Amore è un certo foco).ジルディッペが恋とはこんなものと歌うアリア。楽しげで軽やかなリズム。

第十場:エドゥイージェはベラルドとの結婚に喜んでいるが、それが牢獄になるかもしれないとおそれてもいる(アリア:Il provido cultore).エドゥイージェが床に横たわって歌う。さらさらと流れるが魅力に富む。ABA'のBがAとはまったく性格が異なり短い。

第十一場:プログラムに記載なし

第十二場:ベラルドとジュディッタの兵がロタリオの居城の城門を襲う。アスプランドが防戦。ロタリオはバルコニーに現れ、ベラルドが引かねばカルロを目の前を流れるライン川に投げ込むと脅す。Youtube ではここからPart 2となる。何度か幕が閉じる場面はあるので、実際の上演でどこで幕切れになっていたのかは不明。演出では、カルロは自動車に乗せられ、アスプランドが銃を突きつけている。

第十三場:アダルジーゾは父の腕に倒れ込み、ベラルドにジュディッタを連れてくるよう命じる。その間に彼はカルロを保護する。ロタリオはアダルジーゾを叱責する(ポルポラのオペラ《エツィオ》からの挿入アリア:Se tu la reggia il volo).ロタリオの勇壮なアリア(《エツィオ》からの借用でツェンチッチお得意のアリア。

第十四場:アダルジーゾはすべてがうまくいくことを望む(アリア:Spesso di nubi cinto) 本来の退場アリアで華やかで技巧的。4分の4。ABA' のBは8分の3.

以上が第二幕のあらすじ、である。

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