2024年2月 4日 (日)

《ドン・パスクワーレ》

ドニゼッティのオペラ《ドン・パスクワーレ》を観た(初台、新国立劇場)。

レナート・バルサドンナという人が指揮だが、初めて彼の指揮を聴いた。プログラムを見ると、新国立劇場初登場とのこと。実際に聴いてみると、これが大変良い指揮者である。どこが良いかと言うと、この《ドン・パスクワーレ》には2重唱や4重唱と重唱がしばしば出てくるのだが、そこでの指揮ぶり、テンポの運びが心地よいのだ。歌手にのびのびと歌うところは歌わせ、オケの伴奏の部分にくるとさっとテンポを調整しだれないようにする。さらにはドニゼッティの二重唱では(ロッシーニでもそうだが)曲の終わりにかけて駆け込むようなアッチェレランド(加速)が欲しいところがあるが、そこでのアッチェレランドの塩梅がちょうど良い。イタリアで地元の客に人気のトラットリアのような安心感がある。オリジナリティを求め、奇抜なことに挑戦するというよりは、ドニゼッティの音楽に語らせようとする感じである。

 彼の指揮に応えた東京交響楽団も素晴らしい。

 主役のドン・パスクワーレはペルトゥージで、定評のある大歌手にふさわしく、どんな表情の場面でも見事にこなしていく。上江隼人との二重唱も実に息があっていた。上江はバッソ・ブッフォによくあるアジリタ(早いパッセージ)も見事にこなし、ペルトゥージとの二重唱で堂々とわたりあっていた。

 ノリーナのラヴィニア・ビーニは出だしはちょっとロマンティックに歌いすぎるかなという気配があったが、やがてコミカルな表情が出てきて、さらに軽さがあればと思うところもあったが立派な歌いっぷりだった。エルネストのファン・フランシスコ・ガテルは若々しい声で、やや脳天気な若者の純情と言えば純情な心を歌いあげていた。

 ドニゼッティは衣装を初演と同時代のものにして、観客をギクッとさせたわけだが、今回の演出家はドニゼッティ指示より少し前のフランス第一帝政のスタイルにしているとのこと。どちらにしても21世紀の今となっては衣装の同時代性はないので、素直にコステューム・プレイとして楽しめた。

 第三幕でノリーナがドン・パスクワーレを平手打ちする場面では、会場から笑いが起こった。そうかあの場面も誇張されたコメディとして受け取ればよいのか、と気づかされた。むろん、あの場面をどこまでコミカルで、どこまでシリアスに演出するか、受け止めるかは可能性の幅がかなりあるとは思うが。

 全体として大変満足度の高い上演であった。

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2023年12月30日 (土)

ラモー作曲《レ・ボレアード》

ジャン=フィリップ・ラモー作曲のオペラ《レ・ボレアード》を観た(北とぴあさくらホール)。

全曲上演としては日本初演である。セミ・ステージ形式で、フランス語上演で日本語字幕がついている。

このオペラはラモー最後のオペラで1763年に、7年戦争の終結を祝すために作曲されたが、翌年の作曲家の死によって上演されることがなかった(初演は1982年!)。上演されなかった理由として、フリーメーソン的要素あるいは当時の政権を批判する要素があったことに言及するものもあったが今のところ筆者には詳しいことは不明。

ただしラモーはそれ以前に《ゾロアストル》というゾロアスター教の始祖を描いたオペラを作っており、こちらにはより明確にフリーメーソンの表象が現れている。

昨年、同じく北とぴあで観たリュリのオペラもそうであったが、イタリアのバロック・オペラを基準として観ると、フランスのバロック・オペラには驚かされる点が多い。両者の違いを整理しつつ、公演の特徴に触れよう。

1.バレエの場面が量的にも多いし、洗練されている(今回の上演は本格的にバロック・ダンスを研究する振付師による振り付けであり、そもそも演出のロマナ・アニエル(敬称略、以下同様)がポーランド唯一の宮廷バレエ団クラコヴィア・ダンツァを創設し、宮廷舞踏フェスティバルを毎年開催している人なのである。ダンサーの松本更紗はヴィオラ・ダ・ガンバ科を卒業しつつ、かつ、古典舞踊をフランスで学んでいる。同じくニコレタ・ジャンカーキは、2016年に上記のクラコヴィア・ダンツァに入団している。男性のダンサー、ミハウ・ケンプカも2017年にクラコヴィア・ダンツァに入団している。

2.  フレンチ・バロックのオペラを観るたびに、イタリアのバロック・オペラとの差異を強く意識させられる。イタリアではバロックであれ、それ以降のオペラであれ、これほどバレエが中心的な役割を果たすことはない。16世紀のスペクタクルではダンスの比重が相対的には大きかった可能性がある。もしかすると、イタリアでは、レチタール・カンタンドとして始まった歌唱・朗唱が、やがてアリアとレチタティーヴォに二分され、劇のなかでの役割もアリアはその時点での感情表現を担い、レチタティーヴォは人間関係や状況を明らかにする台詞的なものとなるにつれて、リブレットと音楽の関係が構造的となり、バレエという身体表現をさほど必要としなくなったのかもしれない。一方、フランスのバロックは歌唱・朗唱部分においてイタリアのそれと大きく異なる部分が2つある。1つは、フランス人がカストラートを好まなかったので歌唱に超絶技巧を駆使する部分がない、ということ。もう1つはそれとも無関係ではないが、フランスのオペラでは、イタリアのオペラと比較すると、レチタティーヴォとアリアの差が小さい、ということだ。両者のつながりがより滑らかであり、言葉としての劇という側面がより強く感じられるのだが、言葉だけの劇に陥らないのは、バレエの身体性が出てくるからである。イタリアのオペラにおいては声自体の身体性が極限まで推し進められていると言えよう。



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2023年12月10日 (日)

カウンターテナー研究会

カウンターテナー研究会のクリスマス・パーティに参加した。クリスマス・パーティといっても

ケータリングの料理ともちよりの飲み物で、会場は江東区のティアラ江東の会議室を借りてのもの。

僕にとっては久しぶりにメンバーと面と向かっての会で、なつかしいメンバーも初めて会う方もいて、楽しい情報交換の時間を過ごした。

思えば、コロナ禍以来、自分が参加している研究会や学会、科研のミーティングで、すべてリモートだったり、リモートとリアルのハイブリッドになったものは多い。日常業務が増えている中で、開催会場への往復の時間が節約できるのはありがたい。リモートだと平日のたとえば夜8時から10時などという設定も比較的容易にできる。土日より都合がよいという人も少なくない。研究会の種類が増えてくれば日程調整の問題も出てくるので平日も選択肢になったのはありがたい。昔は赤ちゃんがいたら研究会や学会にはほぼ参加不可能だったが、リモートとなって画面には映らないが、赤ちゃんの声が聞こえることはままある。男女を問わず、キャリア形成にとって重要な進歩かと思う。

リモートは基本的に歓迎なのであるが、1年に1度くらいは、顔を合わせて話すのもよいものだ、ということを実感する。リモートとリアルとそのハイブリッドは、どれか1つというのではなく、メンバーの必要・要望に応じて、比率を調整していくことになるのだろうとここ数年は感じている。月例で、毎回、開催会場まで往復するのは食事を含めて家庭生活との調整が場合によっては難しいからだ。リモートであれば、自宅からあるいは旅行先でも、海外からでも(時差が問題にならなければ)、その時間だけ一人になれれば参加出来るので、可能性が大幅に広がるのだ。

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2023年9月24日 (日)

『ヨーロッパの世俗と宗教ー近世から現代まで』

伊達聖伸著『ヨーロッパの世俗と宗教ー近世から現代まで』(勁草書房)を読む。

本書が扱っている範囲は宗教改革期から21世紀にまで及ぶが、ここでは宗教改革や宗教に関するコンセプトについて紹介する。

この本は文系の本にしては珍しく、120ページ以上におよぶ「第一部 総論 世俗の時代のヨーロッパにおける政教関係の構造と変容」が9人の共著であるということだ。一部は第1章ー第3章に時代別に分かれ、各章が各地域(国)に分かれているし、編者によれば、編者が描いた西欧のスケッチに他の筆者が加筆訂正を行い、それを編者がまとめ直したものを執筆者全員がチェックするという流れで進めたという。第二部が各人の執筆した各論となっている。

編者による序論で、評者が重要だと考えたのは次の点。「『宗教』概念の西洋近代性を再把握する必要性である。『宗教』とは古今東西を通じて普遍的なあり方で存在するものではなく、西洋近代の政治的・軍事的・経済的・道徳的・知的覇権のなかで言説として再構成されたもので、それはキリスト教とりわけプロテスタント的な傾向を帯びていた問題含みの概念である」としているが、まったく同感だ。

第一章では、まずスペインのレコンキスタの過程を、宗教的多様性を特徴とし制度を異にする諸王国から構成されていたものを、カトリックを軸とする宗派化が進んだ時代としている。やがて王権による宗教的権威の領域化が進む。

ドイツでは、プロテスタントが唱えた万人司祭説は、教皇庁の決める聖職叙任ではなく、各共同体が司祭を選ぶ発想が宗教的権威を領域的なものにする大きな転機となった。神聖ローマ帝国内の諸侯は各自の領地の「宗派化」を進める。1555年のアウクスブルクの宗教和議はそのような「二宗派主義」を制度化したものだ。

こうしたなか「領邦教会」制度が構築されていく。領主が教会の首長も兼ねる国教制度である。こうして、政治的権力と宗教的権威の緊密な関係が再構築され、「宗派化」あるいは「信仰告白体制化」が進んでいく。

1648年、30年戦争が終結し、ウェストファリア体制が構築される。神聖ローマ帝国ではカトリックとルター派に加え、カルヴァン派も公認される。これにより様々な制限はあるものの、宗教の論理よりも政治の論理の方が優位なものとなった。

 

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『キリスト教会の社会史』(2)

『キリスト教会の社会史』(彩流社)の第2章について。

第二章は塚本栄美子著「宗教改革期ドイツにおける儀礼ー心のよりどころの行方」である。ルターによる宗教改革の衝撃について述べた上、秘跡の捉え方がカトリックとプロテスタントで異なることについて触れる。カトリック教会では、正式にはトレント公会議(ドイツ式にはトリエントだが、当ブログではトレントと表記する)で7つの秘跡が定められたが、実際には12世紀ごろほぼ固まっていた。

中世後期の人は通過儀礼としての色彩の強い洗礼、堅信、婚姻、終油の秘跡に加えて、少なくとも年に一度復活祭のときに、悔悛の秘跡と聖体の秘跡を受けるように勧められた。

1215年のラテラノ公会議で、司祭の聖別によってパンと葡萄酒が本質的にキリストの身体と血に変わるという聖変化(化体説)が正式の教義にとりいれられた。12−13世紀には聖なるパンが、14−15世紀には聖なる葡萄酒のはいったカリスが高くかかげられるようになり聖体奉挙がミサの最も大切な瞬間となった。

こうした秘跡のあり方に異議を唱えたのがルターだった。1520年に「教会のバビロン捕囚について」で、7つの秘跡は否定し、「洗礼、悔い改め、パンのサクラメント」の三つを支持しなければならないとしている。後に悔悛はルター派では秘跡からはずした。ルターは、カトリックでは一般信徒がパン(ホスチア)にのみあずかることを批判し、一般信徒にもパンと葡萄酒による二種陪餐を認めた。聖職者と一般信徒の区別をなくしたのである。

しかし評者が驚いたのは、この時代の洗礼では、いわゆる洗礼の前に悪魔払いをしていたことだ。司祭は子どもに息を吹きかけ、悪魔に生きた神に場所を譲って出て行くように命じた。こどもの額と胸の上で十字を切り、右手をこどもの頭の上において祈りを捧げる。こうして悪魔に打ち勝ったことを示した後、神と人を仲介し洗礼を施したのである。この悪魔払いの部分はルターも受け継いで変更はしていないのである。しかし急進的な改革者カールシュタットによる騒動が起こった後1526年により大胆な改革をルターは提案した。大胆な改革をしたものの悪魔払いの必要は認めていた。

 ところが改革者マルティン・ブツァーは悪魔払いの全廃を求めた。しかし領民の考えは異なる。1580年代に即位したザクセン選帝侯のクリスティアン1世はカルヴァン派に依拠する典礼改革に乗り出した。ドレスデン聖十字架教会では、ある肉屋が包丁をもって現れ、ルター派のやり方で洗礼をやってもらうことを主張し、洗礼の式次第から悪魔払いを省略したら牧師の頭を切り開くと脅したのである。こうした実態から悪魔祓いがカトリックとプロテスタントの区別ではなく、むしろルター派と改革派を区別する指標として機能していたことがわかる。同様に「聖体奉挙」や「パン裂き」などの儀礼が宗派に対する忠誠心、ルター派と改革派を区別する指標として機能した(時期があった)ことは注目に値いしよう。

 

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『キリスト教会の社会史』(1)

指昭博、塚本栄美子編著『キリスト教会の社会史ー時代と地域による変奏』(彩流社)の第1章と第2章を読んだ。

第1章は徳橋曜著「中世末期のキリスト教と市民生活ー北・中部イタリア」で、「体制化した宗教とは空気のようなものである」という一文からはじまり、聖職者への課税の是非を巡る教皇とフランス王の対立から教皇庁がアヴィニョンへ移転したこと、しかしこの時代に教皇庁の中央集権化が進んだことがまず語られる。1377年に教皇庁がローマに帰還するとフランス側は翌年アヴィニョンに対立教皇をたてシスマ(教会大分裂)が生じる。これが収拾されたのは1417年、コンスタンツ公会議の場においてであった。

これと並行して語られるのがこの当時のフィレンツェの都市民の蔵書リストだ。15世紀前半に申告された全書物(779冊)のうち、宗教関係は28%(219冊)、ラテン古典が19%、実用書12%、ギリシャ古典1%、14世紀までの著作が24%、書名不明のものが16%であった。

洗礼については知らないことが多かった。中世のいたりあでは、小教区きょうかいは必ずしも洗礼をさずける権限を持たず、中教区(pieve)

が授洗権限を持っていた。ところが11世紀頃から小教区が授洗権限を持つ事例が見られるようになる。また、14世紀ごろまでは、洗礼は一年に1度または2度まとまって実施した。聖土曜日とペンテコステ(復活祭から50日目の日曜日)の前日である。ところがそれだと生後まもなく

死んでしまう赤ん坊は洗礼を受けずして亡くなることになる。15世紀にかけて、生後まもなく洗礼を受けるという習慣が成立してくる。

ドミニコ会とフランチェスコ会の性格の違いも興味深い。ドミニコ会は都市の上層の間にねづいており、フランチェスコ会は相対的に下層の支持を多く集めていた。

中世末期の信仰は必ずしも救霊と直結せず、現世的利益を期待することがしばしばだった。と同時に、教皇庁や教会に対する批判者が何人もでて追随者を集めた。ベルガモのドミニコ会士ヴェントゥリーノは、真の教皇はローマにあるべしとしてアヴィニョンの教皇の正統性を脅かした。極端な清貧を主張しフランチェスコ会を離脱したフラティチェッリと呼ばれる人々は1380年代に異端と断じられた。一方でフランチェスコ会厳格派(オッセルヴァンティ)は教会全体に清貧の問題を突きつけていた。15世紀にはいるとドミニコ会士だったヴェルチェッリのマンフレーディが反キリストはもう生まれている、終末が近いと説いて回った。

ルター以前にも、こういった教会批判、改革への叫びがあったことがわかった。一方、徳橋は、1399年にイタリア各地に広まったビアンキ運動は教会体制内の運動であったとしている。ビアンキの信徒は赤十字をつけた長い白衣を身につけ、十字架を先頭に街から街へと行列を繰り広げたのである。ジェノヴァ大司教やモデナ、ボローニャなどの司教がビアンキを先導している。ビアンキを警戒したのは世俗権力だった。しかしビアンキ運動は1399年のうちに終息した。

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2023年9月 9日 (土)

タベルナコロ未満

インスブルックの歴史的中心地区からイン川を渡った住宅街には、外壁に聖母子像を描いた家、聖母子像の小さな立像のある家が多い。イタリアの街角で見るタベルナコロほどは祭壇の形を取らず単に聖母子の絵が家の外壁に描かれている感じである。しかしこの地区では2、3軒に1つは聖母子があるのに気づき写真に撮ってみたが、なかなかこのブログに貼り付けられない。うまくいったら貼り付けるつもりである。

インスブルックでも宗教改革の波はやってきたし、それに対するカトリック側の対抗運動もあった。それが現代にも受け継がれているのか、とも思う。

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2023年9月 8日 (金)

ルーカス・クラナッハ父

ルーカス・クラナッハ父は、ルターや彼の妻、メランヒトンら宗教改革を推進した人たちの肖像画でよく知られている。また、ルターが翻訳した聖書(ドイツ語訳聖書)の版画挿絵を制作したのもクラナッハである。

クラナッハは、ルターの宗教改革開始となる1517年よりも前にヴィッテンベルクにやってきて工房を開いている。ルターのためにやってきたのではなく、ザクセン選帝侯にこわれて宮廷画家となるべくやってきたのだ。ザクセン選帝侯賢候フリードリヒは、ザクセンの首都をヴィッテンベルクにし(つまりこの時期は首都はドレスデンではなかったわけだ)、この地に宮廷を置き、ここに大学も開いて、開校まもないその大学の教師となったのがマルチン・ルターであった。

ヴィッテンベルクは候の居城であった城(今は城教会=シュロス・キルヒェが残るのみ)からルターの住んだルターハウス(もとは修道院だった)まで2キロもない小さめの街である。クラナッハはルターやその仲間と知り合い、彼らの肖像画を描いている。

宮廷画家であったクラナッハがルターらの肖像画を次々と何枚も描いたのは、選帝侯フリードリヒがルターを支持し、匿っていたことが大きな要素としてあるだろう(この点確認必要)。

しかしその一方で、彼は聖母子像を何枚も描いている。実はルターにも所望されて聖母子像を描いている。ルターは元々カトリックのアウグスティヌス派の修道僧であり、聖母子に崇敬の念を抱いていても不思議はないのであるが、後々のプロテスタント教会の進んでいった方向を考えると、十字架やイエス像でなく聖母子像であったのは、時期や前後関係についてより突っ込んで調べてみる必要を感じる。

また、一層重要と思われるのは、彼の聖母子像で Maria hilf (前項を参照)と呼ばれる像がオーストリアで広く崇敬され、その像のある教会への巡礼者も多数に登ったことである。これは明らかにカトリック教会が対抗宗教改革の一環として推進していることなのだ。そのことをクラナッハはどの程度知りうる立場にあったのか、それをどう考えていたのか。

お抱え絵師であったクラナッハの信条を我々はどの程度知りうるのか。調べるべきこと、考えるべきことは多い。



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Maria hilf

Maria hilf と名付けられた聖母子像がインスブルックの大聖堂にはある。ルーカス・クラナッハ父が描いたもので、Maria hilf (英語で言えば Mary help)と呼ばれている。直接的には、16世紀にこれが描かれた時に、オスマン帝国の脅威があった、ということと、ルターによって惹起された宗教改革の影響が指摘されている。

当時の南チロルおよびオーストリアでは、聖母マリア崇拝が盛んになり、このMaria hilf像(複数が製作された)のある教会への巡礼をする人がどんどん増加したし、聖母マリアあるいはマリア像の成したとされる奇跡の話も数多く記録されている。この巡礼や奇跡の記録は、対抗宗教改革という時代背景と密接に関わっているだろう。



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2023年8月17日 (木)

ヴィヴァルディのオペラ《忠実なニンフ》(その1)

ヴィヴァルディのオペラ《忠実なニンフ》を観た(インスブルック、音楽堂)。

音楽堂というのは Haus der Musik で州立劇場の隣の建物である。この音楽堂に二つの劇場があって、この日の会場は地下の

小劇場である。一列が15人で15列なので定員は225名。小ぶりな劇場で、バロック・オペラにはふさわしいと思うが、ここで上演するのはインスブルック古楽音楽祭の若手オペラである。若手オペラについて説明するとオーケストラもおおむね若手でこの音楽祭の臨時のオケらしく

Barockorchester:Jung (バロックオーケストラ・ユング)というものだ。序曲を聴いて、ピッチや縦のラインの揃い方が、この音楽祭に登場する超一流の管弦楽団とは異なることがわかる。ただ、指揮者との息はあっていて、アリアになると実に音楽的なノリのよい伴奏をする。なので、ピッチうんぬんの定量的な能力はすぐに気にならなくなった。ヴィヴァルディの音楽、特にアリアはドラマが展開するに連れて、キャラクターやその場、情景のアフェット、情感を、時に深く、時に感情の襞までも描出していく。つまり、表現の振幅、種類の多さが求められるのだが、キアラ・カッターニの適切な指揮ぶりに応じて、このオケは様々な表情を表し、テンポもリズムも生き生きと変じるのであった。

このオペラは演出も納得のいくものであり、歌手の歌唱も若手オペラとしては十分高いレベルだった。

あらすじがかなり複雑なので次項で紹介する。

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2023年8月14日 (月)

《ヴェネツィアのカーニヴァル》

《ヴェネツィアのカーニヴァル》と題されたコンサートを聴いた(アンブラス城、インスブルック)。

この音楽会はなかなか凝ったものなので説明が必要だ。一言で言えばパスティッチョをコンサート形式で上演したのである。

18世紀にドイツで、《愉快なだまし、ヴェネツィアのカーニヴァル》というオペラが流行り、複数の作曲家が曲をつけた。この日のコンサートでは4人のドイツおよびフランスの作曲家のアリアをつないで簡略版のパスティッチョとしていたわけである。簡略版なのも無理はなく、

演奏時間は二時間程度だし、そもそもこの作品には三組のカップルが出てくるのだが、この日の歌手はソプラノ1人、バリトン1人である。そういう限界というか制約があることを踏まえての話にはなるが、珍しい作曲家の珍しいオペラ作品を聴け、しかも演奏が大変生き生きとしており大いに楽しめた。

この作品のオリジナルはフランスのコメディ・バレ(バレ・ド・クールから発展したオペラ)で、それが何度も書き換えられ、曲がつけられた。オリジナルのリブレットはジャン・フランソワ・ルニャールが書き、それにアンドレ・カンプラが1699年に曲をつけた。当時のフランスの趣味に従い、バレやコーラスのシーンが多い。第三幕にはインテルメッツォとしてオルフェオが上演される。オペラの中のオペラ、劇中劇である。しかし劇のメインとなるのは、ヴェネツィアのカーニヴァルやその華やいだ雰囲気である。

その数年後、ヨハン・アウグスト・マイスターがフランス語からドイツ語にリブレットを翻訳した。その過程でフランス趣味を修正している。1707年にはラインハルト・カイザーとクリストフ・グラウプナーが曲をつけたがこれらは消失してしまった。そのうちの何曲かが複雑な経緯をへて、ヨハン・ダフィト・ハイニヒェンの作とともに伝わった。以上の4人の作曲家のアリアや舞曲などを混ぜて当日のプログラムは構成されていたわけである。ストーリーは、二組のカップル(フランス版からドイツ版で三組が二組になってのだろうか?)が交錯して、最後には元の鞘におさまるというモーツァルト/ダ・ポンテの《コジ・ファン・トゥッテ》と似た話だという。

歌手はソプラノのハンナ・ヘルフルトナー。一人3役でちょっとずつ衣装を変えていた。もう一人はバリトンのマッティアス・フィヴェーク。二人とも、身振りを交え、曲想に応じ雄弁に歌っていた。オケはBarockwerk Hamburg.イラ・ホフマンの指揮・チェンバロである。構成は10人で、オーボエやファゴットがいるのが個人的には嬉しかったが、驚いたことに、コントラバスは途中で2度小さなリコーダを器用に吹いた。オーボエとファゴットも一度リコーダーに持ち替えたので音色は想像以上に豊かだった。単に楽器の種類だけでなく、このオケは最初から大胆にはずんでいた。ヴァイオリンのコンサート・ミストレス(Micaela Storch-Sieben)のリードもよかったし、打楽器がいるのもそれに貢献していた。アリアの歌詞は、イタリア語のものとドイツ語のものと両方あった。

こういう複雑な手続きを踏んだ娯楽ではあるが、料理法が上手なので、聴衆は皆大いに楽しんでいた。

 

 

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フランチェスカ・アスプロモンテのリサイタル

フランチェスカ・アスプロモンテのリサイタル《プリマドンナ》を聴いた(アンブラス城、インスブルック)。

アンブラス城は、郊外の丘の上のお城なのでシャトルバスが出る。

日本では、歌手の名前にリサイタルとつける場合が多いが、ヨーロッパではリサイタル自体に何らかのタイトルがついている場合が多いと思う。一夜のプログラムをあたかも一冊の本のように構成して目次(どういう曲を演奏するか)を構成し、本のタイトルをつけるように、リサイタル全体のタイトルをつけるのである。だから、プログラムはどういう意図があるのか、音楽史的な見取りなのか、意外な補助線を引くことによって普段見過ごされがちな作曲家、時代の一面が見えてくるというプログラムなのか。プログラムを読み解く楽しみもあるというものだ。

この《プリマドンナ》というタイトルはフランチェスカ・クッツォーニを指しているのだと思われる。この日歌われたのは、ピエル・ジュゼッペ・サンドーニとベネデット・マルチェッロであるが、サンドーニの生涯をたどっていくとクッツォーニとの接点が見えてくる。

サンドーニは1685年(1683年説もあり)にボローニャで生まれた。オルガン弾きとして作曲家として頭角をあらわしたが1716年にロンドンに渡り、ヘンデルの指揮のもとでオーケストラ団員となる。そこで有名な歌手フランチェスカ・クッツォーニと知り合い、結婚する。ロンドンの後はミュンヘンやウィーンで過ごし再びイタリアに戻る。その後、再びロンドンに渡って今度は貴族オペラの方に加わる(ポルポラが率いていた)。晩年はボローニャに戻りアカデミアの運営に関わった。

この日のプログラムは、ベネデット・マルチェッロのシンフォニアとサンドーニの歌曲および器楽曲が交互に置かれていた。前半はオケのラ・フロリディアーナもアスプロモンテも安全運転で、端正な歌いぶり、演奏ぶりだった。休憩をはさんで後半にはいって少し大胆に表情をつけたりテンポを動かしたりするようになった。

マルチェッロのシンフォニアは主題に洒落たものもあるのだが、意外な展開や意表をつく表現には乏しいと感じた。サンドーニのカンタータや器楽曲も、破綻はないのだが、創意工夫に富んだというよりは、オーソドックスなものであった。

後半の演奏中に何度か雷の音がしたが、シャトルバスに乗るまでに皆びしょ濡れになった。

 

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