2016年8月27日 (土)

アンナ・プロハスカ、ヴェロニカ・エーベルレ室内コンサート

アンナ・プロハスカ(ソプラノ歌手)、ヴァロニカ・エーベルレ(ヴァイオリン)を中心とした室内コンサートを聴いた(モーツァルテウム・グロッサー・ザール、ザルツブルク)。

ヴェロニカ・エーベルレは調べてみるとN響との共演もあり、楽器も日本音楽財団が貸与しているストラディヴァリウスのドラゴネッティであり、日本との縁も浅からぬものがある。
演目は前半がシューベルトのサルヴェ・レジーナ、ヴェーベルンのSchmerz immer Blick nach oben(いつも見上げる痛み)、ペルゴレージのサルヴェ・レジーナであった。どれも宗教曲。ウェーヴェルンは極めて短い。2、3分の曲。作曲年代は、シューベルトが1819年、ヴェーベルンが1913年、ペルゴレージが1735−36年である。これが連続して演奏された。非常に知的なプログラムといえよう。
個人的にヴァーグナーを連日聞いてきて、ヴェーベルンに接すると驚愕の他はない。自分のある思いを表出するのに15時間もかけずにはいられない作曲家もいれば、切り詰めて、切り詰めて無季俳句のようにつぶやく(絃楽器も奏でるというより擦れる音を出す)音楽もある。しかしヴェーベルンが心に刻む印象が決して浅いわけではないのだ。
そしてペルゴレージにおける対位法やバロックの音楽語法は、とても豊かに充実しており、ヴァーグナーとは別の感覚でこちらを圧倒した。
シューベルト、ヴェーベルン、ペルゴレージを続けて歌うプロハスカは見事だが、ややロマンティックな歌唱で、子音の頭が丸くなる傾向がある。丁寧に歌い上げるために、ここは音楽の流れ、勢いを強調してほしいと思うところもあった。
奏者としてはチェロのQuirine Viersen, コントラバスのRick Stotijn が見事なサポートを見せていた。出しゃばらないのだが、必要な時には大胆な表情(例えば不気味なトレモロ)を見せ、軽快なリズムを刻んでいく。
以上の3曲で約30分。ヴァーグナーを聞いてくると、そのことも驚きなのだった。
休憩は8時頃だったが、まだ外気は生暖かいのだった。
後半はシューベルトの弦楽八重奏曲、D803。最終楽章が特に見事で、8人の奏者が自発性を見せつつ、互いの音を聞きあい、しかもノリノリの感じだった。スイングするシューベルト。エーベルレのポニーテイルが彼女の奏でる音楽、リズム、躍動を視覚的に表現するかのように跳ね、揺れ動いていた。彼らは、どのフレーズも丁寧に弾き、吹く(ホルンも見事でした)のだが、丁寧すぎて躍動感を失うことがなく、丁寧さが伝えるフレーズ毎の表情の変化を積み重ねていった上で最終楽章の駆け抜けるような楽章に達すると非常に高い音楽的満足感を覚えるのだった。
アンコールは歌手が戻ってロマン派的な情緒纏綿たる曲(曲名はわかりませんでした)だった。モーツァルテウムではコントラバス一丁で重低音は響きわたり体に感じる低音でした。

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バイロイトからザルツブルクへ

バイロイトからザルツブルクへ移動した(この項、個人的な旅行のメモです)。

バイロイトから南に向かいミュンヘンで東に向かう。国は変わるが、ミュンヘンからザルツブルクへは電車で2時間弱だが、ザルツブルクからヴィーンへは2時間40分かかる。つまりミュンヘンの方が近いのである。モーツァルトが6歳、18歳、21歳の時に訪れ、24歳の時にはオペラ《イドメネオ》の委嘱を受け初演していることも、距離の近さが全く無縁ではないだろう。つい現在の国境をもとに考えてしまいがちだが、例えばモーツァルトを考える時には、その時代の地図に基づいて、それを頭に入れて思いを巡らせねばならないのだとあらためて思う。
ミュンヘンからザルツブルクにかけて山並みが見える。
標高を調べてみると、ミュンヘンの標高は510メートル、ザルツブルクは420、バイロイトは340だった。ミュンヘンが意外と高いのだった。ちなみに碓氷峠の登り口の横川が387メートルである。

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2016年8月26日 (金)

《神々の黄昏》

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ヴァーグナーのオペラ《神々の黄昏》を観た(バイロイト)

ニーベルングの指環の最終作である。相変わらず、演出にはピンとこないところが多々ある。音楽的には素晴らしいし、歌手も素晴らしかった。特に、ハーゲンのスティーブン・ミリング、グンターのマルクス・アイヒ、ブリュンヒルデのキャサリン・フォスターである。






舞台がニューヨークのアパートや証券取引所(富の象徴)なのはいいとして、ジークフリートの弱点は背中だと聞かされたハーゲンは肝心のところで金属バットのようなものでジークフリートを撲殺するのだった。ハーゲンの死に方もドラム缶のたき火に手を突っ込みかけて死んでいるかのようであった。読み替え演出、レジーテアターの黄昏なのかもしれないと思った。と同時に、ヴァグナーのこの大作は、神話であるのだから、もっと色々な演出が可能なのだろうにと思わずにはいられない。カーテンコールで初めてオーケストラの団員が舞台に上がってきたが皆ラフな格好(例えばポロシャツとジーンズとか)だった。通常は全く観客からは見えないのでそれで問題はないのだ。




大作を最後まで観たという達成感を感じた。

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バイロイト辺境伯歌劇場

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バイロイト辺境伯歌劇場を訪れた(バイロイト)。ここは、ただいま(2016年8月)修復中でしばらくは中を見ることはできない。ただし、展示があって、そこには大きなタッチスクリーンがあって、ドローンを使って修復前の劇場の内部と外(空からの映像もある)を様々な角度から見ることができて面白かった。修復作業も階段の踊り場的な場所からチラッと見ることができた。
この劇場は、ドイツで現存する唯一のバロック劇場であるとのこと。非常にコンパクトで座席数は300弱であったと思う。展示からわかったが、劇場を設計したのはボローニャからやってきたイタリア人の一族だった。

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フランツ・リスト博物館

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フランツ・リスト博物館を訪れた(バイロイト)。
この博物館はリヒャルト・
ヴァーグナー博物館のすぐそば、通りを隔てた
隣に位置している。
こちらの博物館は、デジタル化はされておらず(2016年8月現在)、
従来の博物館的な展示で、リストの活動時期ごとに版画や
写真や資料が展示されている。
リストの墓もバイロイト市内の別の箇所にある。
その墓地にはヴァーグナー家
(リヒャルト・ヴァーグナーの子孫たち)
の墓もあるのだった。

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2016年8月24日 (水)

《ジークフリート》

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ヴァーグナーのオペラ《ジークフリート》を観た(バイロイト)。

舞台は、写

真の通り、崖にマルクス、レーニン、スターリン、毛沢東が刻まれている。裏側は現代的なお店などのある広場(旧東ベルリンの広場であったらしい)。

《ジークフリート》ではタイトルロールのジークフリート役はほぼ出ずっぱりでよくスタミナが持つと感心する。アルベリヒやヴォータン、巨人族のファフナーはそれぞれ低音の魅力を聞かせていた。特にファフナーは大蛇の役だから人間を超えたものを表象する迫力が求められるわけだが、その音楽的な要請にカール・ハインツ•レーナーは見事に答えていた。

ただし、演出の関係で、彼はギャング的な人間の姿のまま、ノートゥングという剣(何十回もノートゥングのことが歌われるのに)ではなく、機関銃で撃たれて死んだ。大蛇は出てこずじまい。ワニが出てくるのだが、何のためにいるのかわからない。

社会主義の4人も何のためにずっと見下ろしているのだか。というわけで、第3幕が終わった後は激しいブーイングで、ご丁寧に、歌手には拍手の嵐なのだが、歌手が引っ込んで舞台に誰もいなくなるとブーイングが場内に響き渡るということがカーテンコールの間中続いた。よほど多くの人が演奏には満足していたが演出には不満であったのだ。調べてみると、この演出は4年目だが、演出に対する不満は最初からずっと激しいようである。

ま、評判が良くも悪くも5年間は同じプロダクションだそうなので、来年まではこのプロダクションなのだろう。

 

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2016年8月23日 (火)

リヒャルト・ヴァーグナー博物館

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リヒャルト・ヴァーグナー博物館に行ってきた(バイロイト)。この博物館は3つの建物から構成されているが、メインの館は、ヴァーグナーが生前住んだ最後の家である。そのほか向かって右側に息子ジークフリートの家があり、向かって右側に2015年に竣工したモダンな建物がある。
右側の建物にチケットオフィスがあり、そこでオーディオガイド(ドイツ語はもちろん英語はあるが、日本語はない)を借りた。1Fでは特別展で写真展があった。
地下が常設展であると思われる。ここには過去のバイロイト音楽祭で使用された衣装や舞台セットの模型が飾られている。衣装では1890年代のものもあった。1970年代の衣装までは、リブレットから想像される人物像(神であったり、神と人の間の子であったり、英雄的戦士であったり)と衣装がかみ合っている。現在は良かれ悪しかれ、ヴォータンがギャングの親分のような格好をしていたりするわけで、演出のコンセプトの解説なしには、なぜこれが丸々の衣装であるか理解できない状態が常態となっているわけだ。
また、バイロイトで振った指揮者の顔写真がずらっと並んでいるコーナーがあったが、案外、イタリア人指揮者もいる。トスカニーニやデ・サバタだけでなく、エレーデ(日本でドニゼッティの《愛の妙薬》の超名演を披露した)もバイロイトで一度振っているのであった。
また、デジタル化した博物館として面白かったのは、大きな液晶画面にスコアが映し出され、レコードがかかっているのだが、今演奏されている部分がスコアを縦方向に帯状で明るくなり、それが演奏と共に右方向に動いていく。スコアは実物大より拡大されている。いろんな曲がかかっているようだが、僕は《神々の黄昏》のフィナーレを流れゆくスコアを見ながら聞き圧倒された。画面上には、ラインの黄金のテーマといった注もドイツ語ではあるが演奏される部分で浮かび上がってくるので、フィナーレの部分でこれまでの様々なテーマが錯綜しながら回想されるさまが手に取るようにわかる、わからせてくれる。
本館に行くと、一階はおおむねヴァーグナーの生前のサロンがそのままに保全されている(壁紙などは変わっているが)。入って最初が吹き抜けの空間でここで小規模演奏会をしたのだというが、人の話し声を聞いて判断する限り、とても反響が豊かだった。奥がサロン兼仕事部屋。
二階にはヴァーグナーが普段着ていた服や自筆の楽譜(草稿を含む)があり、驚くほど小さな判型に小さな楽譜を几帳面に書き記していたのだと知った。ルートヴィヒにあてた手紙なども細かい小さな字でびっしりと書かれている。あらためて紙が貴重だったのだと思う。
家系図にあてた部屋もあった。ヴァーグナーも妻コジマも、ヴァーグナーの母親も複数回結婚しているので、横に広い系図なのであった。
左がわの息子ジークフリートの家にはヴィデオがあって、ジークフリート一家とナチス政権、ヒトラーの関係、とりわけジークフリートの妻ヴィニフレートが政権と親密であった事などが写真とともに紹介されていた。
本館の裏手にはヴァーグナーの墓がある。

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《ヴァルキューレ》

クリックすると新しいウィンドウで開きますヴァーグナーのオペラ《ヴァルキューレ》を観た(バイロイト祝祭劇場)前作とは舞台が変わって、農家が舞台でジークムントとジークリンデの出会いと惹かれあいがある。回り舞台で裏側には井戸を掘るような機械がある。

第一幕では人は3人しか出てこないから、スクリーンに映すような関係もないのだが、白黒で労働者やレーニンの姿などが映る。
《ラインの黄金》ではとても効果的と感じたス
クリーンだが、《ヴァルキューレ》では写っているものがピンとこないし、
無理やり感が強かった。ヴァルキューレにレーニン、ソ連の新聞プラウダねえ。演出家にとっては何かそこに込めた思いがあるに違いないと思って良いのかもしれない(良くないのかもしれないが、それがどちらかわからないのは、見ているこちらの理解度が不足なのかもしれないが、演出家が説明不足あるいは不親切とも言えないこともないかもしれない)。
こういう演出で一番活躍の可能性が高いのは批評家、評論家、演出家(自身の)解説であろう。意地悪い見方をすれば、こういうものは、批評家にとってありがたい演出といえよう。《ヴァルキューレ》に、演出家がある自分の独善的な、勝手な、恣意的な思い入れを塗り込めて、その種明かしをする、していただく、ということに、そこはかとない、いやかなりの徒労感を覚える今日この頃である。
しかし演奏は充実していた。ジークリンデを歌ったハイディ・メルトンは体格が立派で、声も突き抜ける声で素晴らしかった。相変わらず、オケの響きは劇場の作りもあって素晴らしい。
ヴァルキューレは作品として、有名なフレーズ、聴かせどころもたっぷりあるのだが、それ以外の部分はとてつもなく冗長に感じられる。一種の我慢大会である。
レチタティーヴォを否定するとこうまで作品の進行が非効率的になるということをこれほど雄弁に証明している作品群はないだろう。ヴァーグナーの影響を受けた作曲家は自分がどれだけ危険極まりない道に足を踏み入れたか自覚があったのだろうか。もちろん、なかったのだろうけれど。。。
上演時間は4時に始まって、一幕の終わり、二幕の終わりに1時間ずつの休憩があって、終焉は9時半。念のため付け加えておくが、ヤノフスキの指揮はキビキビとしており、決してテンポは遅くない。指揮はこの日も素晴らしかった。

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2016年8月22日 (月)

バイロイト祝祭歌劇場の庭

バイロイト祝祭歌劇場の前にはかなり広い庭が広がっている。

その一角には、首から上の晒し首になったようなヴァーグナー像もある。その周りに、顔写真入りで、様々な人の石碑があったので休憩時間に見てみた。
最初は、ヴァーグナーやバイロイトにゆかりのある名歌手、名指揮者かと思ったのだが、名前に全く聞き覚えのない人が多い。碑文を読んで驚いた。これらの人はフルート奏者や合唱団の人もいるのだが、バイロイトに出演した後、ナチスにより強制収容所に送られそこで亡くなった人たちだったのだ。
さらに、ナチス政権に批判的だったため職を剥奪され、スイスやアメリカに亡命した指揮者などもいる。
石碑の数はかなりあったので、すべてを確認したわけではないが、僕が見た限りでは、どれもナチスにより生命を奪われた人か亡命を余儀なくされた人だった。だから合唱団で1920年代に2回バイロイトで歌って、その後、強制収容所で死んだという人は他のことは全く知られておらず、演奏家として著名というわけではない。
ナチスがヴァーグナーの音楽を利用したことはよく知られており、しかしながら、音楽祭は音楽祭として続けていくというために、こうしたモニュメントが必要だったのかもしれないし、我々はそのことを記憶にとどめておく必要があるのだろうと思う。
 

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2016年8月21日 (日)

《ラインの黄金》

ヴァーグナーのオペラ《ラインの黄金》を観た(バイロイト祝祭歌劇場)。

《ラインの黄金》はニーベルングの指環という長い長いオペラの序である。序だけで2時間半もあるのだから、通常のオペラの一作分である。
今回の演出は同じプロダクションの4年目であるらしい。昨年までは指揮者がペトレンコであったのが今年からヤノフスキーになった。ヤノフスキーは日本でもヴァーグナーを振った人である。
テンポがキビキビとしていて、もたつくところがない。今回、感心したのは、この祝祭劇場の響きである。ヴァーグナーのオーケストレーションが柔らかく響く。どれだけ強奏になっても、金管が炸裂する場面になっても、耳に痛くない。どこまでも心地よい音なのだ。それと直接聞こえる人の声のバランスが絶妙である。今まで、ヴァーグナーのこの劇場の良さを理解できなかったが、実際に音を聞いてみて、考えが大きく変わった。
今回の演出は、カストルフによるもので、賛否両論が激しい。演奏後にも、ブーイングとブラボーが交錯していた。
演出に関する予習はせずに観たところでは、舞台がアメリカのホテル(モーテル)になっており、金塊をギャングのボスが奪いあう。女神たちはボスの妻や愛人に見える。ローゲはヴォータンというギャングのボスの参謀でとてもズル賢い。
出てくる人物は、いわばロクでもない人物ばかりなのだが、この演出は案外気に入った。1つには、僕自身がヴァーグナー作品には神々といえどロクでもない人物ばかり出てくるなあと前から思っていたからだからだが、気に入ったのにはもう1つ理由がある。
舞台の上にかなり大きいスクリーンがあって、最初は舞台で起こっていることを部分を拡大して写している感じだったのだが、だんだんと今歌っていない人がどういう状況にいるか、悪だくみをしているか、あるいは過去の情景などが映る。観客としては、今眼前で歌っている人も気になるし、画面も気になる。スクリーンによって、ここのキャラクターの裏面や側面も理解できるシステムになっていた。
また、細かいことだが、巨人族の兄弟が一人は普通のメークでもう一人は髭面を越して顔下半分がノリをつけたように真っ黒だったのも良い。同じようなメークでは区別がつかなくなるからだ。大胆な読み替え演出なのだが、ストーリーの展開はこうして(少なくとも僕には)納得がいった。
後から調べてみると、演出家は石油利権のことなどを考えていたらしい。まあ、そういう意図があってもよいが、その意図は観客に自明とは言えなかったと思う。モーテルの裏側はガソリンスタンドになっていたので、石油と関わりはあるけれども。
最初にも書いたが、劇場の音響が素晴らしいので、アリア的でない通常退屈に聞こえるレチタティーヴォ的な部分が気にならないというか冗長に聞こえなかった。指揮の運びの良さもあるが、オケと声のバランスの良さも大いに効果を上げていると思ったし、舞台での動きとスクリーンに気をとられるのも、レチタティーヴォ的なところで退屈しないためには良いのかもしれない。むろん、こんな演出では音楽に集中できないという不満を持つ方がいるのもよく理解できるが。
 さらに言えば、ヴェルディでは読み替え演出は感心しないことが多いのだが、ヴァーグナーの指環はもともとが神話で登場人物も神だったり地底人?だったりリアリティーはなく、寓意的である。寓意的なものの方が、一般的に言えば、読み替え演出には向いていると思う。
 

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バイロイト

バイロイトに来た。ヴァーグナーの指環を観るためである。

幾つか失敗したことがあるので、もしかしたら参考になる方もいるやもしれないので記しておきます。
1.インターネットで予約し、切符は劇場のチケットオフィスで受け取るつもりだったが、Eチケットで印刷してこなければいけないのだった。印刷してこなかったため25ユーロ支払う羽目になった。
2.チケットオフィスの場所は劇場の正面に立って左側の側面にある。右側には、軽食の店があるが、そこの店員もチケットオフィスはどこにあるか知らないのだった。
3.劇場の列と列の間はとても狭い。奥の方(劇場の中央に近い部分)の場合、早めに着席するのが得策かと。
4.バイロイトの座席は背中が木で、しばらく座っていると背中が痛くなってくる(可能性が大きい)。地下のクロークで座布団のようなものは貸してくれるのでお尻は大丈夫なのだけれど、背中の対策も必要かもしれない。

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2016年8月19日 (金)

《イタリアのトルコ人》

《イタリアのトルコ人》を観た(ロッシーニ劇場、ROF).

演出はリヴァモア。指揮はスカップッチ。

セリムがアーウィン・シュロット。フロリッラがペレチャツコ。夫ジェロ二オがアライモ、詩人(リブレッティスタ)プロスドーチモがピエトロ・スパニョーリ。

リヴァモアはフェリーニの映画を彷彿とさせる色々な仕掛けを駆使していてそれは判るし、これだけの歌手が揃っているのも大変贅沢なことだということを断っての上だが、3年前の《アルジェのイタリア女》(これも演出はリヴァモア)と比べると面白さは弾けない。シュロットは声量は圧倒的に豊かだし、アライモも早口のところもきっちり回っているのだが、エスポジトのような可笑しみに欠けるところが残念ながらある。喜劇は難しいのだということがよくわかった。

また、アンサンブルが乱れるところが時々あって、ロッシーニの目の回るような重唱、コンチェルタートはアンサンブルがきっちり合っていてその上でめまいのような感覚を味わう快感があるのであって、アンサンブルがバラバラになりかけているとめまいの快感ではなく、ハラハラするということもわかった。指揮は勢いはあるのだが、少し荒っぽいのだった。

レベルは高いのだが、決定的な弾ける面白さまでは到達しきれなかったとても惜しい演奏だった(すごい贅沢な文句のつけようで恐縮であります)。

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