2026年7月 3日 (金)

『古楽の楽しみ』

NHKのFM放送の『古楽の楽しみ』を聴いている。

今は、NHKのらじるらじるの聴き逃し配信で聴いている。らじるらじるの聴き逃し配信というのは、youtube のようにオンデマンドで聴けるシステムで、ただし聴ける期間は一週間で、無料だ。
かつては、この番組は午前6時からだったが、その後、5時からになったり、再び6時からになったりしたが、再び5時からになって、僕はらじるらじるを利用して、番組開始時間を気にせず朝食の時間などに聴いている。

さて、ここで紹介したいのは、この番組の素晴らしさだ。毎週、番組の案内者(番組の構成とアナウンスを兼ねている)が変わる。しかも毎週、古楽の専門家・研究者・演奏家が月曜から金曜の5つの番組に一つのテーマを与え、いろいろな角度から作品を紹介し、演奏をCDなり、演奏会の録音で紹介してくれる。講師(案内者)の話は、一般の視聴者向けなので、親しみやすく判りやすいのだが、しかし紹介される作曲家、作品は、一般のクラシックファンになじみのないものも多い。実際、バロックの作曲家、作品は、今も年々新たな作品が発掘されたり、新たに演奏されるようになるものも多く、研究の最先端が演奏の最先端と結びついている。つまりそこがモーツァルトやベートーヴェン、それ以降のロマン派の有名な作曲家とは事情が異なるところだ。

自分にとって新たな作曲家や作品が、既知のバッハやヘンデルやヴィヴァルディやラモーといった作曲家とともに、毎週、専門家によって解説され紹介されるのを聴いているのは、常に新たな気づきがあって楽しい。実に贅沢な時間であると思い、ありがたく聴いている。

例えば今週の番組は「20世紀の文芸と古楽」というテーマで、紹介は遠山菜穂美氏。月曜は、ロマン・ロランが紹介された。無知な僕は、ロマン・ロランと言えばベートーヴェンというくらいしか知らなかったのだが、彼は古楽をいち早く深く知っており、リヒャルト・シュトラウスに、古楽の素晴らしさを説いていたのだ。バッハのライプツィヒでの前任者ヨハン・クーナウの「聖書ソナタ」をシュトラウスにお勧めしていたという。無論、番組では実際に「聖書ソナタ」が流される。

木曜日にはポルトガルの作家サラマーゴの小説『修道院覚書』という小説が紹介されたが、この小説にはドメニコ・スカルラッティが登場するというのだが、知らなかった!
金曜日には、堀辰雄や梶井基次郎の創作と西洋音楽の関係が紹介された。堀辰雄が軽井沢にあったチェコスロヴァキアの公使館別邸からピアノの音が聞こえて来て、聴き入っているとそれがバッハのト短調であるとわかったと堀が書いている。堀辰雄は、小説の構想にこの音楽を取り入れている。ト短調フーガはバッハの平均律曲集に2曲あり、それがアンドラ—シュ・シフの演奏で2曲とも紹介された。梶井基次郎については、梶井が実際に聞いたフランス人ピアニスト(日本で6日演奏会を開き、梶井は全日聞いたという)の演奏がSP復刻で紹介された。遠山氏が言うように、古楽であってもテンポを揺らし、自由なスタイルであったが、1902年生まれの梶井が若き日に古楽を聴いていたのだ、しかもこの人の演奏でと思うと感慨深いものがあった。堀も梶井も、1900年代一桁の生まれであり、20世紀後半から現在にいたる古楽の新たな演奏スタイルとは無縁だが、ピアノ演奏を通じて、創造力を駆使して、バロックの息吹にふれていたことは間違いのないことなのだと知った。

前述のように毎週、案内者は変わるし、週によっては最近の演奏会からということもある。また、金曜日はリクエスト特集で大塚直哉氏が、リスナーのリクエストを紹介して、そこに専門的知をさりげなく紹介して、こちらの理解を促してくれる日もある。

というわけで、新たな気づきがある番組なのだ。

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2026年6月 7日 (日)

《愛の妙薬》を観て――「人知れぬ涙」の成功と、その後始末

ドニゼッティのオペラ《愛の妙薬》を観た(新国立劇場)。

《愛の妙薬》の最終日を観た。

指揮と歌に関しては、もう少し軽やかであってよいと思う箇所もあった。とくにこの作品の場合、重く歌えばよいというものではなく、ブッファとしての推進力、会話の呼吸、音楽の足取りのよさがかなり重要になる。ただし全体としては、おおむね満足した。というのも、今回あらためて、ドニゼッティの「ギア・チェンジ」の巧さに感心したからである。

《愛の妙薬》は、基本的にはブッファである。田舎の娘アディーナ、純朴な若者ネモリーノ、軍曹ベルコーレ、インチキ薬売りドゥルカマーラという人物配置は、ほとんど類型的であり、喜劇的な誤解と計算違いによって進んでいく。したがって演出としても、あまりしんみりさせすぎず、ブッファとして動かしてほしい、というのが私の基本的な好みである。

しかしこの作品は、ただのブッファでは終わらない。ドニゼッティは随所で、喜劇の歯車をほんの少しだけずらし、そこに抒情的な陰影を差し込む。その最たるものが、もちろんネモリーノの「人知れぬ涙」である。

問題は、このアリアがあまりにもよくできていることだ。

劇作術だけで考えれば、「人知れぬ涙」はかなり危険な場所に置かれている。ネモリーノは、アディーナの目に浮かんだ涙を見て、彼女が自分を愛していると確信する。しかし、歌詞をよく読むと、これは少し妙である。そもそもそれはネモリーノ自身の涙ではなく、アディーナの涙である。しかも彼は、その涙をいつ、どの程度はっきり見たのか。そこから「彼女は私を愛している」と言い切るには、劇的な根拠としてはいささか弱い。

ところが音楽が始まると、その弱さが問題でなくなってしまう。理屈としては曖昧な推論が、音楽によって感情的な確信に変えられてしまうのである。言い換えれば、「人知れぬ涙」は、状況説明としてはどこか変なのに、音楽としては圧倒的に正しい。ここにこのアリアの不思議な力がある。

その意味で、「人知れぬ涙」は、ネモリーノの内面を描いているというよりも、作品そのものの重心を変えてしまうアリアである。それまでの《愛の妙薬》は、偽薬、軍隊入隊、恋の駆け引き、村人たちの噂といった喜劇的な装置によって動いている。ところがこのアリアの瞬間、観客はもはや筋の成り行きではなく、ネモリーノの感情の真実を聴くことになる。ここで作品は、一瞬、ブッファから抒情的な恋愛劇へと変貌する。ロマン主義が優位となる。

だからこそ、その後が難しい。

「人知れぬ涙」で音楽的なクライマックスが来てしまったあと、アディーナがネモリーノの入隊契約を買い戻し、彼を自由にしたことが確認される場面は、どうしても少しだれる。もちろん筋としては必要である。アディーナが単に気まぐれな娘ではなく、自分の意志と行動によってネモリーノを救う人物であることを示す場面だからである。しかし音楽的には、すでにネモリーノのアリアで作品の最も深い地点に到達してしまっている。そこからあらためて劇を整理し、告白し、和解し、結末へ持っていくのは、構造的に難しい。

フェリーチェ・ロマーニが、あの場所に「人知れぬ涙」を置くことに反対したという話は、劇作家としてはよくわかる。ロマーニの立場から見れば、あそこでネモリーノに大きなアリアを与えることは、終幕の均衡を崩す。劇の頂点が早く来すぎるからである。だが一方で、結果としてこのアリアは作品中最大の人気曲になった。つまり劇作術としては問題を含みながら、音楽としては大成功してしまった。ここが《愛の妙薬》の面白いところである。

とりわけ見事だと思うのは、アディーナとドゥルカマーラの二重唱から「人知れぬ涙」へ移る部分である。アディーナがドゥルカマーラを軽くやりこめる。そこまでは完全にブッファの世界である。ところが、そのあとにふっと一瞬の間があく。そして突然、ネモリーノの内面の時間が始まる。この切り替えは、まさに天才的である。喜劇的な表面の下に、いつのまにか本当の感情が育っていたことが、そこで初めて音楽として明らかになる。

ただし、繰り返すが、その成功が大きすぎる。あまりにも美しく、あまりにも説得力があるために、その後の場面はどうしても「後始末」に見えてしまう。アディーナの行為、ネモリーノの自由、ベルコーレの退場、ドゥルカマーラの最後の宣伝文句――どれも必要ではあるが、音楽的な焦点はすでに過ぎている。

したがって、私にはこの作品の演出上の最大の難所は、「人知れぬ涙」のあとをどう処理するかにあるように思われる。そこを単なる感動の余韻として流してしまうと、終幕は平板になる。逆に、アディーナの行動をきちんと立て、彼女自身の変化を見せることができれば、この作品はネモリーノだけの抒情的勝利ではなく、アディーナの側の成熟の物語にもなる。

《愛の妙薬》は軽い作品である。だが、その軽さの中に、ほんの一瞬、感情が理屈をねじ伏せる瞬間がある。「人知れぬ涙」とは、まさにその瞬間である。劇作上は少し無理がある。歌詞も、よく考えるとどこか妙である。しかし音楽が鳴り始めると、その無理が無理でなくなる。むしろその曖昧さこそが、恋愛感情の発生する瞬間の危うさをよく表しているようにも思われる。

つまり《愛の妙薬》の魅力は、単に「楽しい喜劇」であることではない。ブッファとして進みながら、ある一点で、理性よりも感情が強くなる。その危うい転換を、ドニゼッティは実に巧みに音楽化している。今回の上演を観ながら、私はそのことをあらためて感じた。

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2026年5月24日 (日)

スターバト・マーテル〜悲しみの聖母〜シリーズ 1

「スターバト・マーテル〜悲しみの聖母〜シリーズ1」を聴いた(HAKUJU HALL)。白寿ホールは代々木公園から徒歩数分の小さなホール。

プログラムが大変充実していた。アントニオ・マリア・ボノンチーニの2曲、ペルゴレージの1曲。

最初はボノンチーニの「リタニア」。リタニアは連祷のことで、ここでは聖母マリアに連続で祈りを捧げることになる。細かいことを言えば、イタリアのロレートのマリアに捧げる連祷であるとのこと。ロレートはイタリア・マルケ州にある有名な巡礼地で、ここに聖母の生家が飛んでやってきたということになっている。ここに行くと小さな家があってそれを巨大な教会が包み込む形で建っている。今回はこのパート譜をチェコから取り寄せ、新たにスコアを作ったので、復活蘇演かもしれないとのこと。たしかに、Youtube やスポッティファイで検索したけれど、見当たらなかった。ボノンチーニのスタバト・マーテルは1つ録音があった。

整理すると、演奏の順番は、最初がボノンチーニの「リタニア」、次がペルゴレージの「スターバト・マーテル」、最後がボノンチーニの「スターバト・マーテル」であった。ボノンチーニの「リタニア」は初めて聞いたのだが、驚くほど創意工夫に満ちている。早い装飾的なパッセージもあれば、ゆったりと叙情的なパッセージもあるのだが、それが格調高いというか品がある。同時代の評価でも、兄の方が有名だが、宗教曲に関してはアントニオ・マリアの方を高く評価する向きもあったという。納得がいく。「リタニア」もう一度、二度、三度と聞いてみたい曲である。

次は数ある「スターバト・マーテル」のなかでおそらく最も有名なペルゴレージ。今回、見やすい形(大きな文字)で、舞台背景に歌詞が映し出されていたので、曲と歌詞をじっくりと見較べ、聞き比べることが出来た。スターバト・マーテルは周知の如く、十字架にはり付けられ、死したイエスを嘆き悲しむ聖母マリアを歌う曲であるが、第4曲の 'Quae moerebat' などは歌詞は悲しいのに、曲想ははずむようで明るい。これは聴き手の生理を考えると実によくできた工夫で、ここまでの3曲が暗い曲想で沈んだ曲調であり、聴き手の心も沈んでしまうのを一端リセットして元気づけてくれる効果があると思う。悲しい曲ばかりでは、それ以上、悲しさを受けつけなくなるというか、心が音楽的に反応しなくなってしまうおそれがある。こうした弾んだ思いがけず明るい曲想は、ヴィヴァルディやロッシーニの宗教曲にも出てきて、最初に聞くとハッとさせられるところである。今回の演奏は、古楽器と、阿部早希子(ソプラノ、敬称略、以下同様)と村松稔之(カウンターテナー)のバロック歌唱で、音楽的に実に生き生きとした魅力を持っており、その中にいると聖母の悲しみに導かれていくのだった。別の言い方をすると、ボノンチーニとの比較において、ペルゴレージの「スターバト・マーテル」は、これまで思っていたよりずっとオペラ的であると感じた。音楽的にも、ガラント様式に近い部分が多く、歌い手は感情をのせて歌いやすく、聴き手もその情感を受け取りやすい。その中で、曲と曲の間の表情がガラッと変わるところがあって、そこがドラマティックである。この曲想の変化を阿部と村松の歌唱は、実に品位高く、しかしドラマティックな表情を過剰ではなくつけ、オーケストラ(全部で10人、第一ヴァイオリン2名、第二ヴァイオリン2名、ヴィオラ2名、チェロ2名、コントラバス1名、オルガン1名)も福島康晴の指揮は、明らかに従来のフルオーケストラの演奏とは異なり古楽器のアンサンブルの音やフレージングなのであるが、俗にいうキレッキレのアグレッシブな攻め方をするのではなく、まさに音楽に、楽譜に寄り添った表情づけであると感じる。古楽のアンサンブルでも、切れがよく、えっ、こんな演奏(こんなテンポ)ありなの?と驚かせるのはフランスに多い気がするが、イタリアのアンサンブルは、おおむね、楽譜から浮かび上がる曲想、テンポを重視しており、演奏のテンポや表情はフツ—な感じがする場合が多い。どちらが良い悪いという話ではない。エクス・ノーヴォはイタリア型であると思う。数ヶ月前にアレッサンドロ・スカルラッティの「スターバト・マーテル」を、阿部と村松の歌、福島の指揮(オケは数人入れ替わっている)で聴いたので、両者の違いもより鮮明になった。スカルラッティの曲は格調高く、ペルゴレージの曲は情感豊かで、ドラマティックな表情に満ちているのだ。どちらも名曲に違いないのだが、タイプが異なるのであり、ロマン派以降の音楽に慣れているわれわれにとって、より心身を揺さぶられるのはペルゴレージであろう。12曲の配置も絶妙なのだ。

ボノンチーニの「スターバト・マーテル」は、ペルゴレージのとは異なり、独唱者が固定されているわけではなく、曲ごとに独奏者が変わる。バロック・オペラと同様、合唱団がいるわけではなく、独奏者たちが合唱している部分があるという感じだ。「スターバト・マーテル」の歌詞自体は、ペルゴレージのそれと同一なのであるが、その中のどこまでが第一曲で、どこからが第二曲かというのは作曲家によって違う。プログラムに対照表が掲載されている(歌詞もラテン語と日本語の対訳が花井哲朗の訳文が掲載されている)のだが、ペルゴレージの第9曲の歌詞は長くて、その歌詞の部分は、ボノンチーニの第6、第7、第8、第9曲に相当するのである。ボノンチーニは、曲によって独唱者がソプラノになったり、テノールになったり、バスになったりするので、語り手が複数であるという印象をより強く受ける。ペルゴレージの場合には、語り手が何人か(強いていえば2人?)かがあまり気にならない。結果的に、ボノンチーニは声の表情のヴァラエティはより豊かになる。ペルゴレージとは異なるのだが、ボノンチーニもオーケストレーションに工夫があって、時にヴァイオリンに非常に早いパッセージを弾かせ、スリリングなところがあったりする。ボノンチーニ聴きどころ満載である。

出演者は、先に挙げた福島、阿部、村松の他に、岡崎陽香(ソプラノ)、小川美羽(ソプラノ)、木下康子(メゾソプラノ)、新田壮人(カウンターテナー)、鏡貴之(テノール)、前田啓光(テノール)、山中志月(テノール)、金子慧一(バス)、目黒知史(バス)、藪内俊弥(バリトン)が独唱者。以下、オーケストラ。池田梨枝子(ヴァイオリン)、宮﨑蓉子(ヴァイオリン)、廣海史帆(ヴァイオリン)、髙橋亜希(ヴァイオリン、この方は2年前にインスブルックでヴィヴァルディのオペラ《ジュスティーノ》でオケにいらした)、伴野剛(ヴィオラ)、中島由布良(ヴィオラ)、懸田貴嗣(チェロ)、髙橋麻理子(チェロ)、櫻井茂(ヴィオローネ)、新妻由加(オルガン)である。

日本でこれほどレベルの高い古楽演奏が聴けることは素晴らしいし、しかも日本初演あるいは世界的にみて蘇演かもしれないものの演奏が聴けるのは特筆すべきことだ。


 

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2026年5月23日 (土)

桂離宮

桂離宮を観た。

仕事で京都に行くことがあり、仕事の合間をぬって桂離宮を観た。ここにはもともと藤原道長の別荘があったが、時の経過とともに荒れ果てていた。それを秀吉の時代に宮家として創設された八条宮家の別邸として建てられた。親子二代にわたって造園、建物の建造がなされた。宮家自体が、秀吉の養子となったものが、秀吉に実子が生まれたため、宮家となったもので、奇しき運を持った方と言えよう。実際に古書院が建設されたのは1615年頃とされ、すでに徳川の世となっていたわけである。

 実際に京阪線の桂駅からバスに乗り、バス停から歩いてみると、桂川沿いの歩道のない国道をしばらく歩くことになる。昔は桂離宮の池に桂川の水が引かれていたのだという。離宮のところどころに月見を前提に位置を決められたものがあった。ガイド役の方が見せてくれた写真を見ると、たしかに夜の桂離宮もまた絶景なのだった。

 昼でなければ見られない細部としては、灯籠でマリア灯籠と呼ばれるものと、三角灯籠と言われるものがあった。マリア灯籠は灯籠の下部になにか人の像が彫られている。が、それが聖母象であるかどうかは判然としない。三角灯籠は上部も胴体の部分も三角錐状だったり三角柱状だったりする。西洋的な美意識を感じるものである。

 ここでもう一つ興味深かったのは、足下に敷き詰められた石で、整然と真っ平らに磨きあげられしかも形の整ったものから、形も大きさも適当にばらけているものまで、書道で言えば楷書、行書、草書といった趣に分けられている。例えば、園林堂という持仏堂で宮家の位牌などがあった場所。そこに近づくと敷石が方形の飛石となってあらたまった世界に入る、即ち、俗なる世界から聖なる世界に入ることを暗示している。

 茶室は季節ごとにあり、そこから月見もできるようになっていて、さらにそこにたどり着くには、船でも行けるようになっているのだ。運命に翻弄された宮様が、情熱を傾けた雅びの世界には、源氏物語をしのぶ精神がここそこに見られるのであった。

 

 

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2026年5月 7日 (木)

映画『アート・オブ・ジョイ』

イタリア映画祭で『アート・オブ・ジョイ』(ヴァレリア・ゴリーノ監督)を観た。今年のイタリア映画祭の最終上演であり、317分の大作。間に20分の休憩が入ったので、2時45分に上映が始まり、終わったのは8時半だった。オペラで言えば、ワーグナー並みと言えよう。あるいはバロック・オペラではよくある長さとも言える。

 ゴリアルダ・サピエンツァの小説が原作なのだが、映画『外の世界』で言及したようにゴリアルダ・サピエンツァの生涯とこの小説出版までの経緯が波乱に富んでいる。サピエンツァが10年かけて執筆した小説を出版社が受け入れず、サピエンツァは盗みをはたらいて刑務所にことになる。

彼女が書いた小説が Arte della gioia で映画の原作。これは全4部作で、今回上演されたのは、第一部を映像化したものだ。小説自体には第二部以降があって、カターニャでの生活、ファシズム期のことなどが描かれているとのこと。

(以下、いわゆるネタバレありですが、ロードショーものではなく、映画祭のものなので、どんな話かご興味があればどうぞ)

主人公のモデスタは、貧農の母子家庭で育ち、姉が障害者。そこに父親が戻ってきて、悲惨なことが起こり、モデスタが落としたランプのせいで母と姉は焼け死ぬ。モデスタは修道院に引き取られ、そこは貴族の娘だけが入る修道院だったので、長くはいられないはずだったが、なぜか修道院長(ジャスミン・トリンカ)のお気にいりとなりそこにとどまれることになる。しかし修道院長の寵愛は、修道会の規範ぎりぎりの危ういところまでいき、モデスタは修道院長の怒りをかう。その怒りを逆恨みしてモデスタは修道院長を死に追いやる。その後、モデスタは、修道院長の実家に短期間行くのだが、そこで気に入られ長期間留まる、といった具合に話しは続く。実家は広大な館で、その周囲には一家が所有する農地が広がり、農場管理人がその差配を任されている。この一家には実は修道院長の産んだ娘(修道院長の母の子ということになっている)や館の最上階に閉じこめられ、怪物扱いされている息子がいて。。。。

モデスタは、『山猫』の中のクラウディア・カルディナ—レが演じた成り上がりの女性に似ていなくもない。ただし、それが何倍も露悪的かつグロテスクかつ復讐心丸出しの話になっている。モデスタ演じるテクラ・インソリアは端正な顔だちで、修道女にぴったりという感じなのだが、悪意・敵意をむき出しにしたり、時に性欲に火がついたりするとタフな演技力を見せる。長いのだが、退屈するところはなく、続編が観てみたいと思った。

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2026年5月 3日 (日)

イタリア映画祭始まる&『外の世界』

5月1日からイタリア映画祭が始まった。東京は有楽町の朝日ホールが会場である。今年で26年目。

『外の世界』(マリオ・マルトーネ監督)を観た。実在の女性作家ゴリアルダ・サピエンツァの人生が元になった作品。彼女は長年書きためた小説を出版社から次々に断られ、友人の宝飾品を盗み、売りさばいたことで、刑務所行きとなる。映画の冒頭近くで、主人公役のヴァレリア・ゴリーノが裸にされ持ち物検査をされる場面もあり、ローマのレビッビア刑務所の女性刑務所がどういうところかが描かれるのだが、実際は、これが釈放されてから外の世界と交互に配置されている。つまりフラッシュバックのようなことが何回も起こるのである。

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映画『ヴィヴァルディと私』

イタリア映画祭で『ヴィヴァルディと私』(ダミアーノ・ミキエレット監督)を観た。

オペラファンならとうにご存じのことだが、ミキエレットはオペラの演出家として世界的に活躍している。この点はマルトーネ監督が映画監督として名をはせた後にオペラ演出もやるようになったのと好対照である。

18世紀のヴェネツィア、その中でも閉ざされた空間のピエタ孤児院(音楽院)の様子がうかがえて興味深かった。ヴィヴァルディの弟子チェチーリアは架空の人物だとしても、蓋然的にはこんな世界だったのだな、という感じは持った。トルコとの戦いに(一時的に)勝った記念のオラトリオ《勝利のユディータ》が出てくるのは聞き物と言えよう。

オペラ演出では時に荒涼とした世界へ読み替えてしまうミキエレットだが、この映画はむしろ時代劇としてヴィヴァルディの時代、世界をリアルに浮かび上がらせようとしていたようだ。

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映画『大人の人生』

イタリア映画祭で『大人の人生』(グレタ・スカラーノ監督)を観た(有楽町・朝日ホール)。

実話がもとになっているのだが、自閉症の兄と妹イレーネの関係が、時にコミカルに、描かれる。兄はテレビのオーディション番組に出たいのだが、母は反対し、挫折するが、その後、妹の力添えで出場がかなう、といったストーリだ。妹が普段住んでいるのはローマで、弟と両親はリミニに住んでいるという設定。物語はリミニを中心に展開する。そこにはイレーネの叔母や祖母も住んでいるのだった。

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らじるらじる

NHKのラジオ放送が大幅に変わった。今年の3月末?まではAM2局+FMであったのがAM1局+FM1局になった。要するにAMが1つ減ったのだ。そのせいで語学の講座などはFMで夜中の1時半などという時間に放送されている。それとは別件なのだが、FMの「古楽の楽しみ」は朝5時からだったり、6時からだったりしたのだが、再び5時からになった。
というわけで、らじるらじるというインターネット放送を利用するようになった。リアルタイムでも聴くことができるが、聴き逃し配信があって、1週間はいつでも聴くことができる。ただし「古楽のたのしみ」はなぜだか判らないが、聴き逃し配信がある週とない週がある。先週は佐藤康太氏の案内でテレマン特集だった。佐藤康太氏の解説は、真面目な学問的な話のなかに、とぼけたユーモアがあってとても楽しい。テレマンをぐっと身近に感じることができた。この番組は、佐藤氏に限らず、一流の研究者が専門的な話を判りやすく噛み砕いてくれ、なおかつその実例を演奏という形で(演奏会のものもCDの場合もある)聴かせてくれる。

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2026年4月19日 (日)

ジャコモ・アントニオ・ペルティ作曲 受難オラトリオ《イエスの聖墓》

ジャコモ・アントニオ・ペルティ作曲の受難オラトリオ《イエスの聖墓》を聴いた(日本ルーテル東京中央教会)。

このルター派の教会は新大久保が最寄り駅で、歩いている間は一件置きに韓国料理が並んでいる特別な雰囲気の通りで、そこに突然教会があらわれる。

ペルティ(1661−1756)はボローニャで活躍した作曲家。このコンサートのプログラムには佐々木なおみ(敬称略、以下同様)による簡潔ではあるが、1.ペルティの生涯概略、2.ボローニャのオラトリオの特色、3.オラトリオ《イエスの聖墓》と信心会、4.作品の構成と聴きどころ、という至れりつくせりの解説および作品の歌詞が対訳で掲載されていて、作品を味わいまた理解するうえで大いに役に立った。

演奏中、舞台に字幕はなかったが、客席の照明も明るいままだったので、プログラムの対訳を観ながら聴いている人は多かった。なにせ日本初演であるからこの曲になじんでいる人は演奏者や関係者を除けば、ほんの一握りだったのではないだろうか。その意味で、無料の質の高いプログラムが付いているのは実に行き届いた配慮と言えよう。

このコンサートはペルティの《イエスの聖墓》日本初演とのこと。ペルティという作曲家を知らなかったが、ボローニャの大聖堂の楽長を60年もつとめ95歳の長寿をまっとうしている。宗教曲が多いのだが、《イエスの聖墓》は代表曲のようだ。歌詞を書いたジョコモ・アントニオ・ベルガモーリ(1653−1717)も宗教曲の歌詞を主として書いた人である。この作品の登場人物は、(聖母)マリア、マグダラのマリア、聖ジョヴァンニ(ヨハネ)、百人隊長、アリマタヤのジュゼッペ(ヨセフ)である。歌ったのはマリアが小野綾子(ソプラノ)、マグダラのマリアが佐藤裕希恵(ソプラノ)、聖ジョヴァンニが中嶋俊晴(カウンターテノール)、百人隊長が山本悠尋(バリトン)、アリマタヤのジュゼッペが大野彰展(テノール)。佐藤の透明で浸透力の強い声や中嶋の劇的に変化する声の表情が特に印象的だったが、楽曲としては第二部のマリア(小野)と百人隊長(山本)の二重唱が実に効果的で、二人が non piu と歌いかわしつつ、盛り上がるのだった。全曲を通じ、二重唱はこの一カ所のみ。第一部に全員で歌う5重唱があり、これもここだけ(ただしこの日の演奏ではこの5重唱を全体の締めくくりでも歌っていた)。

曲は最初のシンフォニーアが終わると百人隊長が出てくる。イエスとの関係からすれば他の登場人物と較べて距離のあるはずの百人隊長は一部ではもっとも出番が多い感じなのだ。ここからは、わたしなりの勝手な解釈だが、百人隊長はもともとローマ帝国の側の人間である。それがイエスの磔刑に立ち会って、イエスは正義の人であったと気づき改心する。ある意味で、これはイタリア人の立場を表象しているのではないか。もともと古代ローマ時代にはイタリア人の多くは古代ローマ帝国のもと「異教」を信じていたし、場合によってはキリスト教を迫害する側だった。それがある時点で、というか一定の期間をへてキリスト教徒になっていったわけである。だから百人隊長はシンボリックにはイタリア人を表しており、彼の悔い改めこそが、一人一人の信者に求められるということなのかもしれない。

オケはアンサンブル・パルテノペでバロック・ヴァイオリンが朝吹園子、クリストフ・ルドルフ、バロック・チェロが懸田貴嗣、オルガンが西山まりえで人数は少ないのだが、ペルティはめりはりの効いたテクスチャーを紡ぎ出しており、ヴァイオリンですら二人ともお休みをしていることもあるのだが、華やかなところでは二人のヴァイオリンが対位法的に綾をなす。というわけで、音楽的には十分変化に富んでおり、まったく単調ではなく、充実したオラトリオを聴いたという実感があった。

会場はほぼ満席だった。このような演奏会が成り立つこと自体が、日本の古楽の充実の一端を示していると思うが、同時にヨーロッパでも埋もれた名曲の蘇演、掘り起こしが進んでいる。今回は、あらためてオラトリオにもいろいろなタイプ、地域差があることを実感したコンサートであった。

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2026年4月14日 (火)

ロマーノ・ルペリーニの死去

イタリア文学者、批評家のロマーノ・ルペリーニが亡くなった。小説も詩も戯曲も何でも鋭く読む人で、数千ページのイタリア文学史を共編者二人と編んでいる人で、何でも知っているという感じであったが、博学というより、つねに問題意識がシャープであった。左翼系の戦闘的な批評家でああったことは世に知られている。

ささやかではあるが、ルペリーニとの縁について書いてみたい。勤務先の在外研究でイタリアに行こうという気持ちが抑えきれず、実際にそうしたのだが、当時本郷の助手だったHさんからルペリーニを紹介してもらった。1995年のことで、イタリアに渡る前に、阪神淡路の大震災や地下鉄サリン事件があった。ルペリーニの授業では、マンゾーニの『いいなずけ』のゼミに出させてもらった。20世紀の詩人モンターレや小説家ヴェルガ、トッツィについても著書があり、文学を細かく区切って○○世紀の専門とかある特定の詩人、小説家の専門家というのではないスケールの大きさがその視点には常にあった。それでいて、2008年には「モンターレの難解な詩」という講義に出席させてもらったのだが、一行一行精読していって、あるところで新しい視界が開けるという経験を何度も味わった。

彼が他の2人と編纂したイタリア文学史の教科書(高校でも大学でも使用されている)は、常々参照する自分にとっての基本図書となっている。これは日本の教科書とは異なり、文学史が5巻とか6巻になっていて、しかも1巻が1000ページを超えている。時代ごとにその時代のヨーロッパの思想潮流が解説され、その上でイタリアの情勢を把握し、イタリア文学の潮流を理解するという仕組みになっている。そして作品の例示が実に豊富にあって、その全てに詳しい語注や解説が付けられている。

彼は2008年の秋に日本にやってきた。奈良を案内したときに、遷都くんというゆるキャラのTシャツを息子に買っていこうかと思ったが、角が生えているのはイタリアだとコルヌートになるから(間男された亭主を意味して侮蔑の対象となる)やめていた。大仏も観てもらったが、むしろ清水寺で信徒が熱心に祈っている場に興味を持ったようであった。

彼の文学者・批評家としての素晴らしさを開示するようなエピソードでなくて恐縮です。

 

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2026年4月11日 (土)

アルバン・ベルク《ルル》その4

カルッツ川崎のホールは、川崎から降りてバスでも行けるが歩くと1キロ強。天気がよければなんということもない。当日は急に暑くなったので

軽く熱中症になった感じでもあった。

この日の《ルル》の配役は(以下、敬称略)

ルル:宮地江奈
ゲシュヴィッツ伯爵令嬢:豊島ゆき
劇場の衣装係/ギムナジウムの学生:持田温子
医事顧問:峰 茂樹
画家:岸浪愛学
シェーン博士:黒田祐貴
アルヴァ:澤原行正
シゴルヒ:山下浩司
猛獣使い/力業師:菅原洋平
公爵/従僕:市川浩平
劇場支配人:倉本晋児
ソロダンサー:中村 蓉

あわせて、指揮はオスカー・ヨッケル、演出はカロリーネ・グルーバー、管弦楽は東京フィルハーモニー交響楽団。

ルルの宮地江奈は、小柄でキュートなルル。声の表情に幅があり、ルルの百変化とも言うべき場面、場面を見事に演じていた。これでアジリタの切れ味が加われば最高である。シェーンの黒田祐貴は、立ち居振る舞いにも落ち着いたところがあり、ブルジョワ社会(の一面)を体現する人物を歌いあげた。カロリーネ・グルーバーは、ルルの肖像画をマネキン作りへと置き換えており、舞台にはマネキン人形がいつも出ているし、映像でも出てくる。男たちが勝手に自分の幻想・幻影を投影する対象としてのルル=マネキン人形ということか。その上、モックでバレエダンサー(中村蓉)はいつので、ルルの独立性は二重、三重に分解されている。ゲシュビッツの豊島ゆきは、ルルと対象的な声、容姿で、二人のコントラストが効果を発揮していた。ヴェーデキント自身は、どこまで真に受けてよいかわからないが、ゲシュピッツこそが主人公だと述べているのである。

 指揮のヨッケルは、指示の明快な指揮ぶりで、東京フィルハーモニーは、のびのびと金管を炸裂させ、ベルクの管弦楽法の官能性、爆発力双方を堪能できた。
  劇場がオペラ・ファンに知られていないせいか後ろのほうには空席もかなりあってもったいないことであった。


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