2019年6月 4日 (火)

プーランク『人間の声』とメノッティ『電話』

プーランクのオペラ『人間の声』とメノッティのオペラ『電話』を観た(新宿・ガルバホール)。

ガルバホールというのは初体験だったが、小ホール(観客は70から80人くらいだと思う)で、室内の装飾はアールヌーヴォ風で独特の雰囲気を持っている。この日の演奏はピアノ伴奏によるものだったが、ここのホールのピアノはベーゼンドルファーとのこと。

周知のように、2つのオペラはどちらも1幕ものの短いオペラで、プーランクは女性歌手が1人で歌い、メノッティは男女1人ずつだが、ほとんど女性歌手が歌い、男性は合いの手や二重唱をかなでる。そしてどちらも電話がもう一人の登場人物といってもいいくらい重要な役割を果たしている。

プーランクは悲劇で、5年間付き合った男と別れた女性が、その男と最後の電話をしているという設定で、台本はコクトー。もともとコクトーの書いた芝居だったものをプーランクが初演の歌手と協力して少しセリフをカットしてオペラ化したらしい。その女性を演じ、歌ったのは加藤早紀(敬称略、以下同様)、ピアノ伴奏は高瀨さおり。この芝居は、設定からして暗い話ではあるのだが、ところどころコミカルば場面がある。つまり、当時(初演は1959年)の電話は電話交換手がいたし、混線して無関係の人とつながることもあったのだ。だから男と話している最中に全然関係ないマダムとつながったり、男との電話が切れたりまたつながったりする。コクトーはそういった当時の電話の特性をいかして一人芝居を飽きさせないように、また、暗いばかりの話ではなくしている。フランス語での原語上演だったが加藤の発音は明晰で、コクトーらしい短い文章が連なっていくのが心地よかった。無論、必要に応じて情感もたっぷりに演じ歌われた。こういう小ぶりなホールでは音声は響きわたるので、歌手が音量を上げることに注力する要素がへって声の表情に注力できるのでとても贅沢に豊かな音楽経験ができる。

メノッティのオペラ『電話』はコメディだ。ベンという男がルーシーという女に今日こそはプロポーズしようと決意しているのだが、切り出そうとするたびに電話がかかってきて、ルーシーは電話に夢中という話。女性は別府美沙子、男性は野村光洋、ピアノは高瀨さおり。こちらは原作は英語なのだが日本語上演。別府の歌唱は発声もしっかりしているが、日本語がくっきりと聞き取れる。だからコミカルな場面で笑える。会場も何度も笑いにつつまれた。さらに別府は顔の表情がキマるのが素晴らしい。歌唱、演技に様式的な美が生まれる。それが風習喜劇風な台本とマッチするのだ。ついでに言えば、台本は作曲家のメノッティによるものなのだが、見事なものだ。女性が電話に夢中な様子、なかなか電話をきれない様子をうまく捉えカリカチャライズしている。電話優先のルーシーに歯噛みするベンを演じる野村も見事なサポート。彼は両作品の冒頭で作品紹介もしていたが簡潔でわかりやすく、大いに鑑賞者の助けになっていた。ピアノ伴奏も、不条理な感じやとぼけた感じ、プーランク、メノッティの曲想を十全に表現し歌唱をサポートしていた。

プーランクも一時間たらずで、メノッティは30分弱だが、堪能した。オペラは長ければよいというものではない。

 

 

 

 

 

 

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2019年5月 3日 (金)

『幸せな感じ』

ヴァレリア・ゴリーノ監督の『幸せな感じ』を見た(イタリア映画祭・有楽町朝日ホール)。

兄弟の物語だ。兄エットレを演じるのはヴァレリオ・マスタンドレア。弟マッテオを演じるのはリッカルド・スカマルチョ。弟はゲイで、ビジネスで成功し、ローマで派手に暮らしている。兄は教師で家族がいるのだが、夫婦関係は破綻している。兄が重い病気になり、弟が兄を引き取って二人の暮らしが始まるという話。

弟は兄に病気の告知をせず、世話をし続けるし、いろいろなお膳立てをすることが兄の反発を招いたりする。

兄弟という関係のなにか根源的な不思議さが、死というテーマによってあぶりだされているような作品だった。

 

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『カプリ島のレボリューション』

マリオ・マルトーネ監督の『カプリ島のレボリューション』を見た(イタリア映画祭・有楽町朝日ホール)。

1914年第一次大戦前夜のカプリ島が舞台である。ここに生きる羊飼いの少女ルチア(マリアンナ・フォンターナ)が主人公だ。彼女は今年の映画祭のカタログの表紙にもなっているが、エラが張っており、まっすぐな眼差しを持ち、観客に昔の羊飼いの少女がこんな雰囲気をもっていたであろうというオーラ、存在感を感じさせる。彼女の一家は、兄が2人、病気にふせる父と控えめな母からなる。兄二人は、妹が自分たちの言うことをきくことを当然のように期待しているのだが、少女は次々にその期待を裏切る。

カプリ島の反対側には、芸術家のコミュニティがあって、彼らは不思議な共同生活をしている。ヌードになって太陽光線をあび、ヨガのようなポーズや踊りをおどったりしている。菜食主義でもある。メンバーの間ではイタリア語ではなく主として英語が交わされている。1910年代あるいはそれ以前のアイルランドやイギリスでは、キリスト教の信仰への危機(ダーウィニズムが広まって、教会の教えを素朴に信じることができなくなった人々が少なからずいた)があり、インド哲学や仏教に対する関心がインテリの間に広がっていた。また、霊魂の不滅を「証明」するために降霊術をおこなう秘密結社も数多くあった。人智学や神智学が起こってきたのもこの頃であるし、マダム・ブラヴァツキーが活躍したのもこの頃である。この映画の芸術家たちも多分にこういった運動の影響が見られ、キリスト教の代替物を追求している面がある。

少女は、ふとしたきっかけで彼らの活動を見て、次第に心ひかれていく。家族は当然それを警戒し、反対するのだが、彼女は反対をものともしない。軋轢は強まっていき。。。という話である。

少女は、あくまで自由に生きようとするが、それは苦難に満ちた道だった。

感慨深い映画であった。

 

 

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『私の娘よ』

ラウラ・ビスプリ監督の『私の娘よ』を見た(イタリア映画祭、有楽町朝日ホール)。

サルデーニャが舞台である。そこで10歳の少女が育ての母ティーナ(ヴァレリア・ゴリーノ)と父とともに暮らしているが、生母アンジェリカ(アルバ・ロルヴァケル)も近所に暮らしている。アンジェリカは酒浸りで、男性関係も奔放だ。しかし、ある時点で少女はアンジェリカを知り、惹かれていく。それを知ったティーナは焦り、下手をうつ。少女の心の葛藤が実に見事に映像化されている。妻ティーナと娘を見守る夫ウンベルト(ミケーレ・カルボーニ)のサポートも渋かった。

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2019年5月 2日 (木)

『情熱とユートピア』

マリオ・カナーレ監督の『情熱とユートピア』を見た(イタリア映画祭・有楽町朝日ホール)。

これは新作ではなく、アンコール上演で、2014年の作品。

タビアーニ兄弟監督がどう映画を撮ってきたかを、作品の一部とタビアーニ兄弟が故郷サン・ミニアートを旅するドキュメンタリーとタビアーニ作品に関わった関係者へのインタビューが組み合わされている。

出発点は、第二次大戦中に彼らの故郷で起きたドイツ軍による虐殺事件だ。これを短編映画にし、後には『サン・ロレンツォの夜』に仕上げている。彼らの父が反ファシストの弁護士で彼らはそれを継承している。

そのほか、トスカーナから出てきてどうやってローマで映画デビューをしたかや、彼らの二人のコンビネーションの塩梅や、出演した俳優のコメントが語られる。60年代、70年代には社会の動乱に呼応するように彼らも映画の革新を目指している。と同時に、彼らの語り口は常に明快である。映画製作においても撮影現場での指示は常に明快で、彼らにはすでに頭に絵ができているのである。だから、ストーリーに見合った場所を探すロケハンが楽しいのだという。

彼らは、巧みなストーリーテリングやそこにファンタジーを盛り込む術を心得ているが、同時に色や音楽で語ることも重視している。たしかに思想を言葉で語るなら本のほうが雄弁かもしれないのだが、映画ならではのイメージによる伝達は映画ならではのことだとあらためて認識させられる。思っていた以上に彼らは革命や新たな生き方の可能性を追い求めて映画を作っている、作ってきた人たちなのだった。

60年代の彼らの映画を筆者は見ていないことに気づいた。機会があればぜひ見てみたいものだ。

 

 

 

 

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『憶えてる?』

ヴァレリオ・ミエーリ監督の『憶えてる?』を見た。

男女の交際における一連の事件、出来事が男の記憶と女の記憶と食い違っているのいうのがメインテーマ。われわれは黒沢の『羅生門』を知っているのでテーマ自体は自明である。ただし出来事が恋愛であり、流麗な画面、美男・美女が登場する映画である。

男女の記憶の食い違い以前の点で、何が生じているのか判然としない部分もあった(たとえば最後の結婚式に関する部分)。

音楽の使用が美しい。バッハやドビュッシーが用いられているが、記憶の対位法(男女の似ていて微妙に異なる記憶)、主題の反復(記憶が蘇るが以前とは微妙に変形されている)など音楽における主題の交差、反復と記憶のそれはパラレルなのだという点には深く納得した。

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2019年5月 1日 (水)

『私が神』

アレッサンドロ・アロナディーオ監督の『私が神』を見た(イタリア映画祭、有楽町朝日ホール)。

タイトルについて一言。原題は Io c'e だが、これはイタリア人やイタリアに生活した人ならすぐにDio c'e のパロディとわかる。もう少し言うと、イタリアの道端などでもっとも頻繁に見る落書きは、Dio c'e とそこにnon を挿入したDio non c'e つまり、神はいる、と、神はいない、である。神の存在、非存在が落書きのタネというか対象となっていること自体にそれをみた当初の筆者は深い感慨を抱いたものだ。それが Io c'e だと、私はいる、の意味になり、しいて言えば、わたしは(神のごとき存在として)存在している、くらいの意味をもつことになろう。

ストーリーは、まったくのコメディでホテルを経営していたマッシモが、不況のため経営が傾き、カトリックの宿泊施設には税金がかからないことを知り、自ら宗教を作ってしまう。そこに至る道筋と、宗教ができたことから派生するドタバタが描かれる。

新しい宗教を作る際には、監督や脚本家が宗教に関してかなりリサーチをしたという。その成果は十分映画に反映されており、抱腹絶倒の場面がいくつもある。

信ずるものは、たとえインチキなものであっても救われるのか、という根源的?な問いも生まれそうなコメディだ。

 

 

 

 

 

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『ある日突然に』

チーロ・デミリオ監督の『ある日突然に』を見た(イタリア映画祭、有楽町朝日ホール)。

地方のサッカーチームにいるアントニオがパルマのユースからスカウトされ、2日間の試験を受ける。アントニオは母親と二人暮らしだが、母親は投薬治療をしているものの精神が不安定で問題行動も起こし、息子は心を痛めている。サッカーで成功し、新しい生活を母と始めるのがアントニオの夢なのだが。。。という話。ナポリ近郊が舞台で、貧困や犯罪の影もちらつく。

母と息子のケアの関係が通常とは逆なのだが、こういうケースもあるのだろう。

 

 

 

 

 

 

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2019年4月30日 (火)

『彼女は笑う』

マスタンドレア監督の『彼女は笑う』を見た(イタリア映画祭、有楽町朝日ホール)。

ヴァレリオ・マスタンドレアと言えば、俳優と思っていたが、この作品が長編としては初の監督作品だという。この作品の上映前に彼が以前に監督をした短編『3.87』が上映された。こちらは、労働災害、労働現場での死亡事故がテーマで、シュールなタッチだった。

『彼女は笑う』は、夫が工場で突然死んでしまった(事故死)女性が、その一週間後のお葬式をひかえ、なぜか泣けない、涙が出てこない、そのことで子供ブルーノからも責められる、という話。どう夫の死を受け入れるのか、喪という心の作業がどう進むのか、停滞するのかを描いた作品。そこに夫と夫の兄弟、その父の激しい葛藤が絡まっている。

途中で年配の女性が主人公カロリーナのところへやってきて、こういう時でもお化粧は大事よといってメイクしてくれるのだが、そこから彼女は片方の眼、左目だけが目がくっきりとし、右目がナチュラルなままというアンバランスな状態が持続する。これはおそらく、彼女の意識・無意識の乖離を示しているのだろう。悲しいはずだが、実際にはブロックされて涙がでてこない。感情レベルで悲嘆にくれることができない状態のメタファーになっている。

主演のキアラ・マルテジャーニが来日し質疑応答で語ったところでは、主人公に近いのは監督自身なのだという。監督が自分で一番演じたい人はカロリーナだった。

良し悪しの問題ではなく、身近な人の喪失に、すぐに涙する人もいれば、呆然として涙すらなかなか出てこない人もいるのだと思う。亡き夫の父は高齢なのだが、高齢者仲間の交流も地味にじっくりとすくいあげられている。息子ブルーノと同級生との交流もなかなかコミカルなものがあり、こうしてカロリーナをめぐる家族が多角的に描かれている。テーマとして軽くはないのだが、けっして重苦しくはない映画だ、少なくとも筆者はそう感じた。

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『アルマジロの予言』

エマヌエーレ・スカリンジ監督の『アルマジロの予言』を見た(イタリア映画祭、有楽町朝日ホール)。

イタリアの人気漫画家のゼロカルカーレの漫画小説が原作とのこと。現代のなかなか職をえられない若者が主人公。その主人公は、人間大の非常に理屈っぽい話をするアルマジロと暮らしている。彼のおさななじみのカミーユ(フランス人)が亡くなったという知らせをうけ、フランスでの葬式に行くという話で、頻繁にフラッシュバック(彼女と一緒だった学校時代の回想)がはいる。

冒頭と最後はアニメで原作の画風がわかる仕組み。監督の話では原作のデザイン・絵柄にはこだわらずに、えがかれた世界(観)を活かそうとしたとのことだった。

若者が現代の苦境に、破滅型風ではなく、比較的淡々と立ち向かっているなかで、事件が起こる(たとえば家庭教師をしていた少年が修道院にはいる)というタッチが秀逸。

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2019年4月29日 (月)

『帰ってきたムッソリーニ』

『帰ってきたムッソリーニ』という映画を見た(イタリア映画祭、有楽町朝日ホール)。

これはドイツ映画の『帰ってきたヒトラー』のリメイク作である。そのことはプログラムにも記されている。筆者はたまたまDVDで『帰ってきたヒトラー』を見ていたので、驚くほど細部まで同じなのに呆れるやら驚愕するやら、考えさせられるやらだった。どちらも1945年に死んだ(はずの)独裁者が70年後の世界に舞い戻ってきて、人々の間にブームを巻き起こすという話である。しかもそこにテレビ局でしがない仕事をしている男が関わるのも同じ。テレビ局の中で女性が抜擢されるエピソードも同じ。そのしがない男の恋人におばあちゃんがいて彼女がユダヤ系なのも同じ。

 違うのはヒトラーが過去の女性関係をなつかしむ様子がないのに対し、ムッソリーニは愛人クララ・ペタッチを懐かしみ、涙ぐむ。すると現代の女性はその点には好感、共感を持ってしまう点。結論の部分も微妙に異なるが見てのお楽しみとしたほうが良いだろう。イタリア版は続編があるらしい。そこからは、独自のストーリーとなるのだろう。

 

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2019年4月27日 (土)

『月を買った男』

パオロ・ズッカ監督の『月を買った男』を見た(イタリア映画際、有楽町・朝日ホール)。

ユーモラスであり、アレゴリカルなストーリーを持った映画だ。世界の諜報機関にサルデーニャの男が月を手に入れたという情報が入る。その男を調べるために、ある若者が選ばれ、完璧なサルデーニャ人になるための訓練を受ける。これが前半で、モーラと呼ばれる独特のジャンケンや、酒を飲む姿勢などを、サルデーニャから本土に亡命?してきた男に仕込まれる。

若者はクックルマル村にやってきて、サルデーニャの不思議な習慣に遭遇し、大失態の果てに、月を自分のものにしたという老人に遭遇する。そこからの展開は、詩的でもあり、コミカルでもあり、風刺的でもある。月の世界には、サルデーニャ出身のグラムシがいたりするのだ。

月が表象するのは、希望であったり夢であったりするのだろうが、現代の物質主義の世界ではそういったものが窒息寸前でそれを回復するのは至難の技だということがこの物語では寓意的に語られているのかもしれない。

監督の住まいはオリスターノの近辺で、月の場面はそのあたりで撮影されたとのことだった。

 

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